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大河『光る君へ』中宮定子が男子出産!危機に立つ藤原道長が行った起死回生の秘策 識者が語る

よろず~ニュース 2024年7月15日 14時30分

 NHK大河ドラマ「光る君へ」第27回は「宿縁の命」。藤原道長とその妻・倫子の間に生まれた娘・彰子は、長保元年(999)11月7日、一条天皇の女御となります。ところが、その同じ日、一条天皇の中宮・定子が皇子を出産するのです。第一皇子の敦康親王です。天皇は寵愛する定子が男子を産んだことを非常に喜び、藤原行成(能書家として三蹟の1人として有名)に対し、気持ちが「快然」(気分が良い)としていると語ったほどでした。

 中宮の定子が男子を産んだことに、道長は焦りを感じたことでしょう。外戚の藤原伊周(定子の兄)が再び力を持つことも道長は懸念したでしょうが、何より、女御となったばかりの娘・彰子の後宮における立場が大幅に低下しかねません。

 それを避けるためには、彰子の立后(皇后の位につくこと)しかありませんでした。道長は彰子立后のために動いています。姉の詮子(一条天皇の生母)に天皇を説得して貰おうとしたこともその1つです。詮子は参内し、立后に関して、我が子・一条天皇と話し合っています(12月24日)。詮子は立后について天皇の許可があったと同月27日に藤原行成に告げています。詮子も道長も事は順調に進んでいるものと思っていたでしょう。

 ところが、12月29日になって、天皇から「后については、先日に院(詮子)に申したように、暫く披露してはならない」との命令が出ます。つまり、天皇は彰子を后にすることについて大いに迷っていたのです。母の詮子に対しては、彰子立后を「許す」との言葉を発したのでしょうが、内心では迷われていたということです。

 迷う天皇を何度も説得したのが、右大弁の藤原行成でした。行成は、中宮定子は出家しており、祭祀を行うことができないことなどを説明し、彰子立后の必要性を力説したものと思われます。こうした説得が功を奏したのでしょうか。年が明けた長保2年(1000)1月28日、一条天皇の勅命(彰子を中宮にせよ)が道長に伝達されます。そして2月25日、彰子立后の儀が行われます。これをもって、定子は皇后、彰子は中宮となったのです。1人の帝に2人の皇后が立つ「一帝二后」となったのでした。

(主要参考文献一覧)

・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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