フランスの有名小説に『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』という作品がある。無実の罪で捕まった男性が脱獄の末、自分を陥れた犯人を突き止め復讐していく物語は日本でも長年に渡り親しまれている。埼玉県には『巌窟王』には全く関係はないが『巌窟ホテル』と呼ばれるスポットが存在する。
巌窟ホテルは「吉見百穴」で有名な埼玉県比企郡吉見町に現存する洞窟で正式名称は「巌窟ホテル・高壮館」という。宿泊施設のような名前だが、宿泊施設ではなく岩でできたビルである。洞窟には所々に穴が空いており西洋的な柵が見える。周りは雑草が生い茂っておりツタやコケも目立っており、その見た目は(失礼ながら)異様である。
実はこの「巌窟ホテル」。地元の男性およびその息子が、近代的な工具を使わずにノミと金槌だけでコツコツとのべ50年に渡り掘り進めたものなのだという。
巌窟ホテルの開拓者は高橋峯吉という1858年(安政5年)生まれの男性である。峯吉は1904年(明治37年)9月頃から掘削を始めた。道具はノミやツルハシ、金槌などであり、一日に掘り進められる穴はわずか30cmほど。それでも峯吉はめげずにコツコツと掘り進めた。峯吉の本職は農夫であり建築に対して特別な知識があった訳ではなかったが、詳細な設計図やスケッチを残しておりそれによると間口30間(約55m)、3階建てのホテルを作る予定だったようだ。
開始の時点で峯吉は46歳。どう考えても遅いスタートであったであったが、生前の峯吉によると巌窟ホテル完成には親子三代で計150年、2054年頃の完成を目指していたようだ。
高橋峯吉は1925年(大正14年)、67歳で亡くなるが残りの作業は養子の高橋泰次氏に引き継がれ1960年代頃まで掘削や内部の拡張を続けていた。泰次氏の代になると、内部が観光客にも公開され吉見百穴と肩を並べる観光施設として有名になり、特撮番組のロケに使われたり、絵葉書なども発売されていた。
当時の資料によると、内部は通路や階段が入り組み、客室はないものの大広間のほか化学実験室、電話室といった部屋が設置されており、四季を通じて摂氏18℃前後という「夏は涼しく冬は暖かい」施設だったようだ。
「巌窟ホテル」は昭和の終わり頃まで観光客用に公開されていたが、内部の一部が崩壊し立ち入り禁止となってしまった。その代わり、現在では高橋家の子孫が経営する「巌窟売店」にて使用された工具や関連資料が展示しその存在を現在に伝えている。
「昔は掘ってる、今は打ってる」と書かれたユニークな看板が目立つ巌窟売店は、手打ちうどんが名物の飲食店でもあり、近年ではタオルやトートバックなどの「巌窟ホテルグッズ」を販売している。
巌窟売店の店主・高橋朋之氏によると「数年前、売店を継いだ時にはホテルのグッズは皆無。店に立つと、ホテルが閉園して30年になるのに、沢山見物に来られる方がいる事に驚きました。何か見物記念になるものをと、グッズを新しく作った次第です。巌窟ホテルは令和の時代も生きているので、皆様に見物に来ていただけたら幸いです」
「巌窟ホテル」のロマンは現在も続いている。
【取材協力】巌窟売店 〒355-0155 埼玉県比企郡吉見町北吉見309 10時〜17時 定休日:毎週月曜、第1第3火曜日
(よろず~ニュース特約・穂積 昭雪)