蒙古襲来(元寇)は、鎌倉時代中期の日本を襲った未曾有の「国難」と言われています。中央アジア・西アジア・ロシア・朝鮮半島などにまたがる大帝国を築き上げた国(モンゴル帝国)が日本に大船団でもって2度も攻め寄せてきたのですから、国難という表現は正鵠を得ていると思われます。
文永の役(1274年)の際は約3万、弘安の役(1281年)の時は約14万の大遠征軍でした。また歴史教科書などには、元軍は「てつはう」と呼ばれる火薬を用いた武器、そして集団戦法で鎌倉期の武士を翻弄したと記述されています。昔の教科書には、攻勢を強める元軍をいわゆる「神風」(大暴風雨)が襲い、壊滅したと記されていました。
しかし近年では、文永の役における「神風」の記述は後退しています。神風一辺倒ではなく「元軍は風雨の被害をうけ、内紛もおこったため、しりぞいていった」(『高校日本史B』山川出版社、2014年)と記述されているのです。同書の弘安の役の記述は「日本軍が元軍の上陸をはばんでいるあいだに暴風雨がおこり、元軍はふたたびしりぞいた」というものです。
2回にわたる蒙古襲来が元軍の敗退に終わった理由としては「神風」のみならず、武士たちが一生懸命に戦ったことや、高麗(朝鮮)や南宋の人々が元に抵抗していたことが特筆されるようになっているのでした。
文永の役の時の季節は冬、台風の時期は既に過ぎており大暴風雨はなかったのではないかという見解や、元軍は威力偵察のために侵攻し目的を達成したため撤退したという説もあります。これまで述べてきたような様々な見解が提示されたこともあり「神風撃退説」は後退したのです。
筆者は武士の奮戦があったからこそ、元軍を撃退することができたと考えています。『蒙古襲来絵詞』(鎌倉時代の肥後国御家人・竹崎季長が作成)を筆者は何度か観覧したことがありますが、そこには「てつはう」が爆発する中、蒙古兵と戦う武士の姿、敵船に乗り込み蒙古兵を討ち取ろうとする勇姿が描かれていました。
確かに風雨の影響もあったと思われますが、それだけでは元軍の攻撃を跳ね除けることはできなかったでしょう。身命を賭して果敢に戦った武士がいたからこそ、蒙古の襲来を撃退することができたのです。
また日本軍の弓の重量は軽く(蒙古軍は重い)、弓は長弓(蒙古軍は短弓)でありました。蒙古軍の弓の発射効率は悪かったのではとの説もあります(森 俊男・細谷 聡「蒙古襲来時における日本・蒙古軍の弓矢の威力に関する比較研究」)。そうしたことも蒙古軍の敗退に影響した可能性もあるでしょう。
(歴史学者・濱田 浩一郎)