M&Aでは買う側が横柄な態度を取るのではなく『買わせて下さい』という謙虚な対応をするほど成功例が多い。「成功事例が出ていることで、いい仕事だと言っていただけるようになった」と話す、日本M&Aセンターホールディングス会長の分林保弘氏。創業時から廃業を防ぎ、事業承継につながる好事例を積み重ねてきた。M&Aの役割を「企業が存続し、発展することに尽きる」と話す分林氏が考えるM&Aの要諦とは。
【あわせて読みたい】【日本M&Aセンター会長に聞く】3社に2社が後継者難、事業承継に向け、どう手立てを打っていくか?
オリックスから学んだM&Aのポイント
─ 日本M&Aセンターは2021年に30周年を迎え、これを機に持ち株会社化したわけですが、分林さんは創業時を振り返ってどんなことを感じますか。
分林 この30年で、当社の基礎はおおよそできたのではないかと考えています。最初は社員が6人しかいませんでした。しかも、私を含めM&A(企業の合併・買収)を1回もやったことがない人間ばかりでしたが、我々は創業時から「仕組み経営」を目指してきました。特にM&Aは情報が大切ですから。
1991年4月25日に会社の設立登記をし、7月17日に当時オリックス社長の宮内義彦さんをお呼びして講演をお願いしたんです。私は日本オリベッティ(現・NTTデータジェトロニクス)におり、コンピュータのリースをオリックスさんにお願いしていたご縁からです。
当時、日本でM&Aに取り組む会社はほとんどありませんでした。オリックスさんは89年にオリエント・リースから社名変更をし、BtoBの仕事だけでなく、BtoCの仕事もやっていくという切り替えをされている時期でした。
今から30年ほど前ですが、当時10社以上のM&Aを手掛けている会社さんはほとんどなかったと思います。
─ それをオリックスは手掛けていたと。
分林 ええ。BtoCを手掛けるにあたって、知名度を高めようということで社名を変更し、阪急ブレーブスを買収してプロ野球に参入された。今はソフトバンクさんや楽天さんもやられていますが、当時としてはすごい戦略だったと思います。
それで創業時、宮内さんに応援をお願いしたのです。そこで学んだのは自らの得意分野、周辺業種をM&Aすることです。異業種はうまくいかないのだと。
ハウステンボスを再生した澤田秀雄氏
─ 分林さんから見ていて、優れたM&Aだと感じた事例はありますか。
分林 エイチ・アイ・エスの澤田秀雄さんがハウステンボスを成功させた事例ですね。今はコロナで大変ですが、また復活をするでしょう。
私は創業者である神近義邦さんともお話したことがありますし、講演をお願いしたこともあり、感銘を受けましたが、現実には創業から16年間、1度も黒字化できませんでした。
バブル経済の中で、神近さんの夢に惹かれて日本興業銀行(現・みずほ銀行)を始めとした金融機関がどんどん融資をしていました。しかし、初期投資の負債が重く経営が破綻し、野村グループの野村プリンシパル・ファイナンスをスポンサーとして再生を図りましたが、こちらもうまくいかなかった。
─ この状況から澤田さんは事業を再生した。何が違ったのだと思いますか。
分林 澤田さんは再生にあたって、社員を送り込んでも無理だと考え、創業者である自分がゼロからやらないと駄目だということをはっきり言っていましたね。澤田さんは奥さんを連れてホテルに住み込んでいましたし、HISから連れていった社員は4人だけでした。
そして、社員に対して「とにかく楽しくしよう」と言って、ご自身も常に笑顔。そして時には自ら道化師やサンタクロースに扮して、楽しい雰囲気を作り上げていました。
さらに企画力が違いました。アイドルグループのAKB48を呼んでのイベントや大観覧車、イルミネーション、数百万本のチューリップなど様々な企画を打つと同時に、地元の方の入園料を無料にするなど地元を大事にする姿勢も見せていました。
結果的に開業以来19年間赤字が続いたハウステンボスが、澤田さんが再生に乗り出して半年で黒字化したのです。
─ 再生1年目から利益を出すことができたと。
分林 ええ。企画力と同時に澤田さんはコストカッターでもありました。例えば花については年間2億5000万円ほどのコストがかかっていたものを、東京の優れた花屋さんに切り替えてコストを20%下げ、花の質も上げました。
また、ホテルのリネンサプライに入っていた地元企業にも値下げを交渉しましたが、当初は断られたそうです。では手を挙げている大手企業に切り替えますといったところ、地元企業は条件を飲みました。競争の原理を働かせたわけです。結果、ホテルの稼働率が上がり、リネン会社も利益が出るようになったと。
コストを下げ、売り上げを上げる、特に粗利益を上げることは大事ですが、数字に強く、アイデア力、企画力を持った創業者でなければ無理だったろうと思います。
いずれにしても、M&Aは経営トップだけでなく役員や社員が理解できる事業、あるいは手掛けている事業の「隣の庭」くらいでないと成功は難しい。
─ 分林さんから見て、M&Aで成功している企業はその鉄則を守っていると。
分林 ええ。M&A業界では「垂直型」、「水平型」で事例を分けています。例えば、東京や大阪に本社があり、それを全国展開していきたいというのが水平型ですが、ニトリホールディングスさんと島忠さんの組み合わせや、ドン・キホーテさんとユニーさんの組み合わせなどが挙げられます。
一方、メーカーが小売りを買うといったケースが垂直型です。私が創業1年目に手掛けたM&Aがまさにそれでした。
東京を拠点に婦人服店を30店舗ほど展開していた企業さんで社長さんが亡くなられて、奥様が後を継ぎました。最初は次男の方が副社長で入られたのですが病気になって後を継げず、長男の方は医師なのでやはり継げないということでご相談を受けたのです。
─ どのように解決したんですか。
分林 ある服飾関係の方に相談したところ、洋服を製造しているメーカーさんに話してみたらいいのでは? ということでご紹介を受けました。そのメーカーさんは婦人服店のことをよく知っており、「そういうことなら」という形でトントン拍子で話がまとまりました。
─ その後、その婦人服店はどうなりましたか。
分林 メーカーが製造した洋服を、婦人服店の小売網で販売することができるようになり、相乗効果が出ました。今も事業を継続しています。
他にも地方で経営者の早期リタイアにM&Aを活用したケースもあります。山陰地方の鉄工所で、従業員が約20名、年商6億円という会社があり、2代目社長はお父さんが亡くなられて40歳で会社を継いでいましたが、人が採用できないという悩みを抱えていたわけです。
当時、東京で上場している鉄鋼製品会社が3社ほどの鉄工所に資本参加していました。そこで、その山陰地方の鉄工所に「一緒にやりませんか? 」と声をかけたのです。
─ その鉄工所の社長は40代と若いわけですが、どういう決断をしたんですか。
分林 確かに、当時45歳と若いですから後継者問題があったわけではありません。しかし、お父さんの相続問題を片付けて、あと15年したら自分も還暦だと。お子さんは5歳の娘さんお1人で、その子が20歳になる頃に後継者問題を繰り返すよりも、他の会社と一緒にやった方がいいのではないかということで、上場企業のグループ入りを決断されたのです。
─ その後、その鉄工所はどうなりましたか。
分林 それまで仕入が二次問屋からだったものが、突然一次問屋が来て「どうぞ、うちから仕入れて下さい」と言ってきました。上場企業のグループ会社として信用力が高まり、仕入原価が下がりました。
さらに工場を建て替えることができました。地元の銀行から借り入れをしようとしたら、親会社が「その資金繰りはうちの方でやります」という申し出があり、借り入れの金利も抑えることができたのです。
さらに最大の悩みだった採用ができるようになり、新卒も入ってくるようになったと。信用力が付き、売り上げ、利益が上がったことで、親会社からも「社員の給与を上げては? 」という提案があるほどになりました。そうなるとさらにいい人材が入社してくるという好循環が生まれたのです。その鉄工所の社長は今、親会社の常務を兼務して経営に当たっています。
日本型M&Aは「謙譲の美徳」
─ M&Aをされた側の企業の経営者は、そのまま残っているんですね。
分林 そうです。むしろ経営者、役員に残ってもらわないと社内の士気が落ちるということもあるからです。
そのわかりやすい事例が、東京の特殊印刷会社のケースです。その会社は病院専用のレセプト用紙を取り扱って、約2万件のお得意先を持っていました。ご夫婦2人で経営し、社員は約30人、利益も出していました。
その後、ご主人が亡くなられて奥様が継がれましたが、70歳になった時に誰かに引き継いで欲しいという希望を持たれました。そこで手を挙げたのが大阪で上場する印刷会社でした。
その大阪の会社は「買わせて下さい」、「引き継ぎをさせて下さい」と非常に丁寧な対応をしました。買い手も売り手も謙譲の美徳があるというのが日本型のM&Aだと思います。
─ 買い手が「買ってやる」という態度では駄目だと。
分林 そうです。その特殊印刷会社では、大阪の上場印刷会社の東京支店長が社長に就任しました。その時に、その方が社員を集めて言われた「私は3年間、社長を務めさせていただきますが、できれば皆さんの中から次の社長が出てきて欲しいと思います」という言葉を今も覚えています。
実際、3年後に社員の中から社長が生まれました。占領軍のように振る舞うのではないかと身構えていたら、「自分も社長になれるかもしれない」と思えば、やる気が全く違いますよね。社員を大事にする言葉がM&Aでは大事だと思います。
─ M&Aをした後が大事だということですね。
分林 そうです。我々が創業した30年前にはM&Aイコール乗っ取りと見られることもありました。友人にも「乗っ取り屋を始めたのか? 」と言われるほどでしたが、今は「いい仕事をやっているな」という形で見方が完全に変わりました。
我々は30年間、一貫して変わっていませんが、M&Aで成功事例が多く出ていることで、この仕事はいい仕事だと思っていただけるようになったのです。
起業を目指す若者へのアドバイス
─ 分林さんがM&Aを一言で表現するとしたら?
分林 企業がどうしたら存続できて、発展できるか。売り手も買い手もプラスになり、両方の社員が幸せになる。この一言に尽きると思います。そして相乗効果のないM&Aであればやるべきではありません。
私は経営信条として、企業にとって「収益性」、「安定性」、「成長性」、「社会性」の4つが大事だと言っています。
我々のM&Aも、売り手にも買い手にもプラスになるという意味で社会性があると思います。今、廃業が年間約5万社ありますが、これをいかに救うか。社員の失業や金融機関に迷惑をかける事態を防ぐという意味で社会貢献でもあると考えています。
─ 起業を目指す若者へのアドバイスをお願いします。
分林 先程の4つの要素を入れた上で、人がやっていないことをやることです。メーカーがあり、卸があり、小売がありという時代は終わったと思います。全く新しい発想でやっていく必要があります。
そして、何が自分にとって便利なのか、何が欲しいのかを突き詰めて考えて、それを日本だけでなく世界中に提供することです。若い方はネットだけでなくAI(人工知能)が活用できる時代ですから。
また、会社を経営する時には経営計画、経営戦略が大事です。売り上げ、利益を達成するために企画をし、それをいつまでに実現するかを見据えて取り組まないと失敗すると思います。
そしてその事業がマーケットに受け入れられるかどうか。売り上げはお客様が決めるわけですから、マーケット戦略が大事になります。小さい分野でもいいので、今世の中にないものに挑戦することが求められていると思います。
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オリックスから学んだM&Aのポイント
─ 日本M&Aセンターは2021年に30周年を迎え、これを機に持ち株会社化したわけですが、分林さんは創業時を振り返ってどんなことを感じますか。
分林 この30年で、当社の基礎はおおよそできたのではないかと考えています。最初は社員が6人しかいませんでした。しかも、私を含めM&A(企業の合併・買収)を1回もやったことがない人間ばかりでしたが、我々は創業時から「仕組み経営」を目指してきました。特にM&Aは情報が大切ですから。
1991年4月25日に会社の設立登記をし、7月17日に当時オリックス社長の宮内義彦さんをお呼びして講演をお願いしたんです。私は日本オリベッティ(現・NTTデータジェトロニクス)におり、コンピュータのリースをオリックスさんにお願いしていたご縁からです。
当時、日本でM&Aに取り組む会社はほとんどありませんでした。オリックスさんは89年にオリエント・リースから社名変更をし、BtoBの仕事だけでなく、BtoCの仕事もやっていくという切り替えをされている時期でした。
今から30年ほど前ですが、当時10社以上のM&Aを手掛けている会社さんはほとんどなかったと思います。
─ それをオリックスは手掛けていたと。
分林 ええ。BtoCを手掛けるにあたって、知名度を高めようということで社名を変更し、阪急ブレーブスを買収してプロ野球に参入された。今はソフトバンクさんや楽天さんもやられていますが、当時としてはすごい戦略だったと思います。
それで創業時、宮内さんに応援をお願いしたのです。そこで学んだのは自らの得意分野、周辺業種をM&Aすることです。異業種はうまくいかないのだと。
ハウステンボスを再生した澤田秀雄氏
─ 分林さんから見ていて、優れたM&Aだと感じた事例はありますか。
分林 エイチ・アイ・エスの澤田秀雄さんがハウステンボスを成功させた事例ですね。今はコロナで大変ですが、また復活をするでしょう。
私は創業者である神近義邦さんともお話したことがありますし、講演をお願いしたこともあり、感銘を受けましたが、現実には創業から16年間、1度も黒字化できませんでした。
バブル経済の中で、神近さんの夢に惹かれて日本興業銀行(現・みずほ銀行)を始めとした金融機関がどんどん融資をしていました。しかし、初期投資の負債が重く経営が破綻し、野村グループの野村プリンシパル・ファイナンスをスポンサーとして再生を図りましたが、こちらもうまくいかなかった。
─ この状況から澤田さんは事業を再生した。何が違ったのだと思いますか。
分林 澤田さんは再生にあたって、社員を送り込んでも無理だと考え、創業者である自分がゼロからやらないと駄目だということをはっきり言っていましたね。澤田さんは奥さんを連れてホテルに住み込んでいましたし、HISから連れていった社員は4人だけでした。
そして、社員に対して「とにかく楽しくしよう」と言って、ご自身も常に笑顔。そして時には自ら道化師やサンタクロースに扮して、楽しい雰囲気を作り上げていました。
さらに企画力が違いました。アイドルグループのAKB48を呼んでのイベントや大観覧車、イルミネーション、数百万本のチューリップなど様々な企画を打つと同時に、地元の方の入園料を無料にするなど地元を大事にする姿勢も見せていました。
結果的に開業以来19年間赤字が続いたハウステンボスが、澤田さんが再生に乗り出して半年で黒字化したのです。
─ 再生1年目から利益を出すことができたと。
分林 ええ。企画力と同時に澤田さんはコストカッターでもありました。例えば花については年間2億5000万円ほどのコストがかかっていたものを、東京の優れた花屋さんに切り替えてコストを20%下げ、花の質も上げました。
また、ホテルのリネンサプライに入っていた地元企業にも値下げを交渉しましたが、当初は断られたそうです。では手を挙げている大手企業に切り替えますといったところ、地元企業は条件を飲みました。競争の原理を働かせたわけです。結果、ホテルの稼働率が上がり、リネン会社も利益が出るようになったと。
コストを下げ、売り上げを上げる、特に粗利益を上げることは大事ですが、数字に強く、アイデア力、企画力を持った創業者でなければ無理だったろうと思います。
いずれにしても、M&Aは経営トップだけでなく役員や社員が理解できる事業、あるいは手掛けている事業の「隣の庭」くらいでないと成功は難しい。
─ 分林さんから見て、M&Aで成功している企業はその鉄則を守っていると。
分林 ええ。M&A業界では「垂直型」、「水平型」で事例を分けています。例えば、東京や大阪に本社があり、それを全国展開していきたいというのが水平型ですが、ニトリホールディングスさんと島忠さんの組み合わせや、ドン・キホーテさんとユニーさんの組み合わせなどが挙げられます。
一方、メーカーが小売りを買うといったケースが垂直型です。私が創業1年目に手掛けたM&Aがまさにそれでした。
東京を拠点に婦人服店を30店舗ほど展開していた企業さんで社長さんが亡くなられて、奥様が後を継ぎました。最初は次男の方が副社長で入られたのですが病気になって後を継げず、長男の方は医師なのでやはり継げないということでご相談を受けたのです。
─ どのように解決したんですか。
分林 ある服飾関係の方に相談したところ、洋服を製造しているメーカーさんに話してみたらいいのでは? ということでご紹介を受けました。そのメーカーさんは婦人服店のことをよく知っており、「そういうことなら」という形でトントン拍子で話がまとまりました。
─ その後、その婦人服店はどうなりましたか。
分林 メーカーが製造した洋服を、婦人服店の小売網で販売することができるようになり、相乗効果が出ました。今も事業を継続しています。
他にも地方で経営者の早期リタイアにM&Aを活用したケースもあります。山陰地方の鉄工所で、従業員が約20名、年商6億円という会社があり、2代目社長はお父さんが亡くなられて40歳で会社を継いでいましたが、人が採用できないという悩みを抱えていたわけです。
当時、東京で上場している鉄鋼製品会社が3社ほどの鉄工所に資本参加していました。そこで、その山陰地方の鉄工所に「一緒にやりませんか? 」と声をかけたのです。
─ その鉄工所の社長は40代と若いわけですが、どういう決断をしたんですか。
分林 確かに、当時45歳と若いですから後継者問題があったわけではありません。しかし、お父さんの相続問題を片付けて、あと15年したら自分も還暦だと。お子さんは5歳の娘さんお1人で、その子が20歳になる頃に後継者問題を繰り返すよりも、他の会社と一緒にやった方がいいのではないかということで、上場企業のグループ入りを決断されたのです。
─ その後、その鉄工所はどうなりましたか。
分林 それまで仕入が二次問屋からだったものが、突然一次問屋が来て「どうぞ、うちから仕入れて下さい」と言ってきました。上場企業のグループ会社として信用力が高まり、仕入原価が下がりました。
さらに工場を建て替えることができました。地元の銀行から借り入れをしようとしたら、親会社が「その資金繰りはうちの方でやります」という申し出があり、借り入れの金利も抑えることができたのです。
さらに最大の悩みだった採用ができるようになり、新卒も入ってくるようになったと。信用力が付き、売り上げ、利益が上がったことで、親会社からも「社員の給与を上げては? 」という提案があるほどになりました。そうなるとさらにいい人材が入社してくるという好循環が生まれたのです。その鉄工所の社長は今、親会社の常務を兼務して経営に当たっています。
日本型M&Aは「謙譲の美徳」
─ M&Aをされた側の企業の経営者は、そのまま残っているんですね。
分林 そうです。むしろ経営者、役員に残ってもらわないと社内の士気が落ちるということもあるからです。
そのわかりやすい事例が、東京の特殊印刷会社のケースです。その会社は病院専用のレセプト用紙を取り扱って、約2万件のお得意先を持っていました。ご夫婦2人で経営し、社員は約30人、利益も出していました。
その後、ご主人が亡くなられて奥様が継がれましたが、70歳になった時に誰かに引き継いで欲しいという希望を持たれました。そこで手を挙げたのが大阪で上場する印刷会社でした。
その大阪の会社は「買わせて下さい」、「引き継ぎをさせて下さい」と非常に丁寧な対応をしました。買い手も売り手も謙譲の美徳があるというのが日本型のM&Aだと思います。
─ 買い手が「買ってやる」という態度では駄目だと。
分林 そうです。その特殊印刷会社では、大阪の上場印刷会社の東京支店長が社長に就任しました。その時に、その方が社員を集めて言われた「私は3年間、社長を務めさせていただきますが、できれば皆さんの中から次の社長が出てきて欲しいと思います」という言葉を今も覚えています。
実際、3年後に社員の中から社長が生まれました。占領軍のように振る舞うのではないかと身構えていたら、「自分も社長になれるかもしれない」と思えば、やる気が全く違いますよね。社員を大事にする言葉がM&Aでは大事だと思います。
─ M&Aをした後が大事だということですね。
分林 そうです。我々が創業した30年前にはM&Aイコール乗っ取りと見られることもありました。友人にも「乗っ取り屋を始めたのか? 」と言われるほどでしたが、今は「いい仕事をやっているな」という形で見方が完全に変わりました。
我々は30年間、一貫して変わっていませんが、M&Aで成功事例が多く出ていることで、この仕事はいい仕事だと思っていただけるようになったのです。
起業を目指す若者へのアドバイス
─ 分林さんがM&Aを一言で表現するとしたら?
分林 企業がどうしたら存続できて、発展できるか。売り手も買い手もプラスになり、両方の社員が幸せになる。この一言に尽きると思います。そして相乗効果のないM&Aであればやるべきではありません。
私は経営信条として、企業にとって「収益性」、「安定性」、「成長性」、「社会性」の4つが大事だと言っています。
我々のM&Aも、売り手にも買い手にもプラスになるという意味で社会性があると思います。今、廃業が年間約5万社ありますが、これをいかに救うか。社員の失業や金融機関に迷惑をかける事態を防ぐという意味で社会貢献でもあると考えています。
─ 起業を目指す若者へのアドバイスをお願いします。
分林 先程の4つの要素を入れた上で、人がやっていないことをやることです。メーカーがあり、卸があり、小売がありという時代は終わったと思います。全く新しい発想でやっていく必要があります。
そして、何が自分にとって便利なのか、何が欲しいのかを突き詰めて考えて、それを日本だけでなく世界中に提供することです。若い方はネットだけでなくAI(人工知能)が活用できる時代ですから。
また、会社を経営する時には経営計画、経営戦略が大事です。売り上げ、利益を達成するために企画をし、それをいつまでに実現するかを見据えて取り組まないと失敗すると思います。
そしてその事業がマーケットに受け入れられるかどうか。売り上げはお客様が決めるわけですから、マーケット戦略が大事になります。小さい分野でもいいので、今世の中にないものに挑戦することが求められていると思います。
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