「このままでは日本は駄目になる」─。2月1日、作家であり、衆議院議員を経て東京都知事を3期余務めた石原慎太郎氏が89歳の生涯を閉じた。
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文人政治家と呼ばれた頃から感性鋭く問題の本質を衝き、解決策を見出していく。時には既存の秩序とぶつかることもあった。しかし、本人はそれを承知で、本誌でも「まあ、僕の宿命というのがいつも鑿(のみ)の切り口というか、最初は小さな鑿で大きなトンネルを作るための穴を開けていく。文学においてもそうしたことが自分の天命なのかなあと思ったりしているのですけれどもね」と語っていた。
1932年(昭和7年)生まれ。一橋大学在学中の55年(同30年)に『太陽の季節』で文壇デビュー。同作品は芥川賞を受賞。敗戦から再生へ向かう戦後初期、旧来の慣習を破り、鬱屈した世相を吹き払う若者の姿を描き、『太陽族』という流行語を生んだ。68年(同43年)、自民党から参議院全国区に出馬し、トップ当選になる。
途中、東京都知事選に出馬するも当時は美濃部亮吉氏に敗れ、72年、衆議院議員に出馬して当選。環境庁長官や運輸大臣などを歴任。95年に議員を25年務めた後、突然辞職。政界から引退と思われていたが、99年の都知事選に出馬して当選。
「東京から日本を変える」という思いでの都知事就任であった。当時はデフレ状況で金融危機。大手銀行や証券会社が相次いで経営破綻。日本全体が「失われた10年」の真っ只中にあった。
死に体の日本を東京の改革で再生させるという思いが石原氏にあり、次々と新施策を打ち出した。これら政策に功罪は付きまとう〝功〟はディーゼル車の排ガス規制。国に先行する環境浄化策で国民に支持された。
一方の〝失敗〟としては新銀行東京の設立。中小企業の支援・育成という大義名分での都主導での銀行設立だったが、不良債権が蓄積。結局は東京都民銀行と八千代銀行を傘下に持つ東京きらぼしフィナンシャルグループに吸収合併されていった(2016年)。
知事に就任した頃の首相は小渕恵三氏。国に先行して新政策を打ち出す石原氏と小渕氏を対比して、「石原は首相になれないが、小渕は都知事になれない」と評価されたりもした。
直接公選制の都知事と国会議員による間接的な選任による首相選びとの違いを指摘する批評でもあった。
時代の転換期に鬱屈した空気を吹き払う期待感から国民大衆に支持される石原氏であった。
本誌では創刊50周年の13年に石原氏と堺屋太一氏との対談『救国の激論─この日本をどうする? 』を企画。テーマは『求められるリーダー』。「必要なのはシナリオを書ける人。ビジョンを描ける人。そして度胸を持って持続できる人」と石原氏。堺屋氏は「団塊の世代が16年後にはみんな高齢者になる。そうすると、もうチャンスがなくて日本もアルゼンチンのように先進国から発展途上国に逆戻りする」と予測。この予測が現実のものとならないようにする責任と使命が日本の現世代にある。
自主憲法制定の夢はかなわなかったが、やるべき事に対して全エネルギーと情熱を傾ける人生。それは人々の心を動かした。
信念の人がまた一人逝った。
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文人政治家と呼ばれた頃から感性鋭く問題の本質を衝き、解決策を見出していく。時には既存の秩序とぶつかることもあった。しかし、本人はそれを承知で、本誌でも「まあ、僕の宿命というのがいつも鑿(のみ)の切り口というか、最初は小さな鑿で大きなトンネルを作るための穴を開けていく。文学においてもそうしたことが自分の天命なのかなあと思ったりしているのですけれどもね」と語っていた。
1932年(昭和7年)生まれ。一橋大学在学中の55年(同30年)に『太陽の季節』で文壇デビュー。同作品は芥川賞を受賞。敗戦から再生へ向かう戦後初期、旧来の慣習を破り、鬱屈した世相を吹き払う若者の姿を描き、『太陽族』という流行語を生んだ。68年(同43年)、自民党から参議院全国区に出馬し、トップ当選になる。
途中、東京都知事選に出馬するも当時は美濃部亮吉氏に敗れ、72年、衆議院議員に出馬して当選。環境庁長官や運輸大臣などを歴任。95年に議員を25年務めた後、突然辞職。政界から引退と思われていたが、99年の都知事選に出馬して当選。
「東京から日本を変える」という思いでの都知事就任であった。当時はデフレ状況で金融危機。大手銀行や証券会社が相次いで経営破綻。日本全体が「失われた10年」の真っ只中にあった。
死に体の日本を東京の改革で再生させるという思いが石原氏にあり、次々と新施策を打ち出した。これら政策に功罪は付きまとう〝功〟はディーゼル車の排ガス規制。国に先行する環境浄化策で国民に支持された。
一方の〝失敗〟としては新銀行東京の設立。中小企業の支援・育成という大義名分での都主導での銀行設立だったが、不良債権が蓄積。結局は東京都民銀行と八千代銀行を傘下に持つ東京きらぼしフィナンシャルグループに吸収合併されていった(2016年)。
知事に就任した頃の首相は小渕恵三氏。国に先行して新政策を打ち出す石原氏と小渕氏を対比して、「石原は首相になれないが、小渕は都知事になれない」と評価されたりもした。
直接公選制の都知事と国会議員による間接的な選任による首相選びとの違いを指摘する批評でもあった。
時代の転換期に鬱屈した空気を吹き払う期待感から国民大衆に支持される石原氏であった。
本誌では創刊50周年の13年に石原氏と堺屋太一氏との対談『救国の激論─この日本をどうする? 』を企画。テーマは『求められるリーダー』。「必要なのはシナリオを書ける人。ビジョンを描ける人。そして度胸を持って持続できる人」と石原氏。堺屋氏は「団塊の世代が16年後にはみんな高齢者になる。そうすると、もうチャンスがなくて日本もアルゼンチンのように先進国から発展途上国に逆戻りする」と予測。この予測が現実のものとならないようにする責任と使命が日本の現世代にある。
自主憲法制定の夢はかなわなかったが、やるべき事に対して全エネルギーと情熱を傾ける人生。それは人々の心を動かした。
信念の人がまた一人逝った。