非破壊検査社主の山口多賀司さんが逝去された。享年91。
日本に安全検査サービスの技術を持ち込み、初めて安全検査サービス事業を構築した経営者。
1930年(昭和5年)4月、東京・深川生まれの山口さんが、1957年(昭和32年)に非破壊検査を創業したのは大阪の地。27歳の時であった。
1945年の敗戦で日本の主要都市が焼け野原となる中で、人々は懸命に働いた。そして、官民一体となり、鉄鋼・機械や化学など、重化学工業を中心に産業復興に向かっていった。その中で、山口さんは非破壊検査技術を習得。放射線や超音波を活用して、プラントや重機械の内部を調査する技術である。
国土の狭い日本は工業地帯も住宅と工場が隣接する。山口さんは「日本の健全な産業発展のためには、御社の工場も安全の確保が大事です」と、安全検査サービスを売り込んでいった。
しかし、その作業は難航。昭和30年代といえば、”水と安全はタダ”と思われていた時代。山口さんの提案を受けた企業からは当初、快い返事はもらえなかった。そういう現状を承知の上で事業を立ち上げるために、山口さんは本社を大阪にし、阪神工業地帯を中心に技術を売り込んでいった。
なぜ拠点は大阪だったのか?
「東京は過去の実績や経歴にこだわる土地柄。大阪は実利・実用、そして合理性を重んじる風土だったから」というのが、山口さんの答えだった。
もっとも、関西でも、訪問先からは「考えときまひょ」という返事。これは大阪弁で、肯定ではなく否定を意味する言葉。東京生まれ・群馬育ちの山口さんはそれを「てっきり前向きの言葉と受けとめていました(笑)」と述懐する。そうした厳しい状況にもめげず、今日の安全技術サービスの筆頭格となる会社をつくりあげたのである。
1948年桐生工業専門学校(現群馬大学工学部)卒業。54年工学院大学工業科学科を修了し、57年に非破壊検査を設立。79年に社長就任。99年会長となり、2009年社主という足取り。
創業50周年の2007年、『財界』誌は山口さんの歩みを振り返り、『人・技術・信用』という書籍を刊行。非破壊検査の50年史だが、この本に山口さんの思いが込められている。
人づくりに熱心な経営者。はるか遠い中東の地でプラント検査にあたる社員には、どんなに忙しくても、手書きの手紙を定期的に送り届けた。実に社員思いの経営者であった。
今、同社は長男の多賀幸氏が社長をつとめ、事業を発展させている。
「ベンチャーを社会的存在に押し上げていく」という山口さんの思いを多くの人が共有。
縁の下の力持ちという生き方であった。 合掌
【訃報】平和堂会長の夏原平和氏が死去
日本に安全検査サービスの技術を持ち込み、初めて安全検査サービス事業を構築した経営者。
1930年(昭和5年)4月、東京・深川生まれの山口さんが、1957年(昭和32年)に非破壊検査を創業したのは大阪の地。27歳の時であった。
1945年の敗戦で日本の主要都市が焼け野原となる中で、人々は懸命に働いた。そして、官民一体となり、鉄鋼・機械や化学など、重化学工業を中心に産業復興に向かっていった。その中で、山口さんは非破壊検査技術を習得。放射線や超音波を活用して、プラントや重機械の内部を調査する技術である。
国土の狭い日本は工業地帯も住宅と工場が隣接する。山口さんは「日本の健全な産業発展のためには、御社の工場も安全の確保が大事です」と、安全検査サービスを売り込んでいった。
しかし、その作業は難航。昭和30年代といえば、”水と安全はタダ”と思われていた時代。山口さんの提案を受けた企業からは当初、快い返事はもらえなかった。そういう現状を承知の上で事業を立ち上げるために、山口さんは本社を大阪にし、阪神工業地帯を中心に技術を売り込んでいった。
なぜ拠点は大阪だったのか?
「東京は過去の実績や経歴にこだわる土地柄。大阪は実利・実用、そして合理性を重んじる風土だったから」というのが、山口さんの答えだった。
もっとも、関西でも、訪問先からは「考えときまひょ」という返事。これは大阪弁で、肯定ではなく否定を意味する言葉。東京生まれ・群馬育ちの山口さんはそれを「てっきり前向きの言葉と受けとめていました(笑)」と述懐する。そうした厳しい状況にもめげず、今日の安全技術サービスの筆頭格となる会社をつくりあげたのである。
1948年桐生工業専門学校(現群馬大学工学部)卒業。54年工学院大学工業科学科を修了し、57年に非破壊検査を設立。79年に社長就任。99年会長となり、2009年社主という足取り。
創業50周年の2007年、『財界』誌は山口さんの歩みを振り返り、『人・技術・信用』という書籍を刊行。非破壊検査の50年史だが、この本に山口さんの思いが込められている。
人づくりに熱心な経営者。はるか遠い中東の地でプラント検査にあたる社員には、どんなに忙しくても、手書きの手紙を定期的に送り届けた。実に社員思いの経営者であった。
今、同社は長男の多賀幸氏が社長をつとめ、事業を発展させている。
「ベンチャーを社会的存在に押し上げていく」という山口さんの思いを多くの人が共有。
縁の下の力持ちという生き方であった。 合掌
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