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【新社長登場!】SOMPOホールディングス・奥村幹夫社長「サッカー、転職した投資銀行など、全ての経験が経営者としての生き方に参考に」

財界オンライン 2022年4月25日 7時0分

「我々の最大のアセットは『人』」とSOMPOホールディングス社長の奥村幹夫氏は言う。同社は「リアルデータプラットフォームの構築による社会課題の解決」という目標を掲げ、データ、デジタル活用で事業の姿を変えようとしているが、最後に顧客の表情などから判断するのは「人」だと強調。介護事業会社の社長を務めるなど、何事にも前向き、真摯に取り組むという生き方。これまでにない企業グループを築こうというSOMPOグループの今後のカジ取りは─。

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データを生かして顧客ニーズに応える
 ─ 非常に激動の時ですが、改めて社長就任の抱負を聞かせて下さい。

 奥村 多くの従業員、国内で2000万を超える保険のお客様、約8万人の介護の利用者を抱えているSOMPOグループの最高執行責任者(COO)への就任ということで、責任の重さを感じています。

 ただ、変化の激しい中でお客様のニーズにしっかり応えていきたいですし、そのために思い切ったチャレンジをしていきたいと思っています。

 ─ デジタル化が叫ばれる時代ですが、SOMPOホールディングスは「リアルデータプラットフォームの構築による社会課題の解決」という目標を掲げていますね。

 奥村 ええ。私どもは国内損害保険事業、海外保険事業、国内生命保険事業、介護・シニア事業、デジタル事業など、様々な事業を通じて、多くのデータを有しています。

 データは我々がお客様のニーズを理解、把握する上で極めて貴重な情報だと思っています。そうしたデータを集め、分析、活用することでお客様に新たなソリューションを提供していく。それが「リアルデータプラットフォームの構築」につながっていくと思っています。

 その過程ではデータ、デジタルを活用することで「DX」のような形で社内の業務構成が変わり、ビジネスモデルが変わっていくこともあると思います。その先に、データそのものから生まれるバリューでお客様のニーズにお応えし、新たな事業を生み出していきたいと思います。

介護事業会社の社長を3年間務めて得たもの
 ─ SOMPOグループは自ら介護事業を手掛けている点でもユニークですが、奥村さんは3年間、SOMPOケアの社長を務めましたね。

 奥村 私は13年のブラジルの保険会社買収を手掛けた後、15年から当時の損保ジャパン日本興亜ホールディングスで経営企画部長を務め、中期経営計画の策定に携わりました。この時期、社長の櫻田(謙悟氏・現会長グループCEO)は「真のサービス産業への進化」を掲げていました。

 その方針を受けて、この15年には10月に「ワタミの介護」を買収、12月に3.5%出資していたメッセージを子会社化したのですが、これらの案件を経営企画部長としてサポートしていたのです。

 その年の11月、買収が一段落した時に櫻田に呼ばれました。その場には損害保険ジャパン社長に内定した西澤(敬二氏・現損保ジャパン会長)もいたのですが、櫻田が「介護事業の社長を探さなければいけない」という話を始めて、2人で私の顔をじっと見るわけです(笑)。

 ─ 社長をやれということですね(笑)。

 奥村 ええ。介護事業は全く手掛けたことはありませんでしたから、正直驚きました。ただ、その後3年間、社長を務めてわかったことは、介護の現場では日本の縮図、社会的課題が起きていたということです。どうやって介護の現場が支えられているかを目の当たりにしました。

 しかし、将来にわたってさらに介護を必要とする方が増える一方、現場で働く人が減るという日本の現状を見た時に、今のままでは持続可能な介護、社会保障制度は難しいという考えに至りました。

 しかし、介護保険制度が始まったのは2000年で、当時にはなかったようなセンサー技術やロボティクスなどのテクノロジーが山ほどあります。そうしたものを活用すれば、さらに品質の高い、効率的な介護ができるのではないかと考え、進めてきました。

 ─ 介護現場を支えたいという「人」とテクノロジーを融合してきたと。

 奥村 そうです。やはり介護の現場で働く方々は「高齢者を支えたい」という極めて強い思いを持っています。でも、我々はその方々の強い思いに甘えてきたのではないかと。

 その意味で、処遇改善、地位向上、負担軽減なくして介護なしということで、教育の充実や処遇の改善に、今回SOMPOホールディングスの介護・シニア事業オーナーに就いた、SOMPOケア前社長の遠藤健とともに取り組んできました。これは私にとって非常に大きな経験となっています。

 日本の課題は世界の将来の課題とほぼ同じです。ですから、ビジネスの観点でも、効率的かつ品質の高い介護を我々が実現できれば、世界が今後直面する課題の解決に資するのではないかと考えています。

 ─ 現在、日本の介護業界の中での位置づけは?

 奥村 シェアでは2位、居室数では1位となっています。

 我々のグループ会社には生命保険会社もあり、「お客様の健康を応援していこう」というコンセプトで事業を進めています。少し先の話ですが、これを推し進めていくと、おそらく健康寿命が延びます。その後、どこかで介護が必要になるとSOMPOケアの出番となるわけです。

 この2つの事業のデータをつなげていくと、例えば介護に至る前、認知症になる前に、どのような予防、運動をしたらいいのかということが見えてくる可能性があります。それを我々の保険のサービス、商品に組み込んだり、インセンティブを付けていくことで、将来は事業と事業をつなげていくことが可能になるのではと考えています。

 ─ まさに時代の転換期の社長就任ですね。

 奥村 毎年様々なことが起きていますから、今年だけが特別ではないと思いますが、短期的な変化と同時に長期的なメガトレンドの2つを見極めながら、変えなければいけないものと、変えずにブレずにやっていくものを見定めて経営していきたいと思います。

 ─ 社内にはどのようなメッセージを出していますか。

 奥村 我々はお客様、社会のニーズにしっかり応えていくことが大事だということです。ですから、同業他社ではなく、変化し続けるお客様のニーズがライバルで、ここにきちんと応えていくことができるかが最大のポイントです。

 そして社員1人ひとりがやりがいを持って仕事ができ、プロフェッショナルとして切磋琢磨し、学び合えるような職場環境、企業文化をつくっていきたい。私は執行の責任者として先頭に立って、その努力をしていきたいという話をしています。

投資銀行に身を置き資本市場の厳しさを経験
 ─ ところで奥村さんは2006年に一度会社を辞めて、投資銀行に転職しましたね。この時の思いを聞かせて下さい。

 奥村 そこにつながった1つのきっかけは01年9月の米同時多発テロです。それ以降、米国の事業再建に取り組んだ後、日本に帰国して経営企画部の課長に就きました。

 その頃、日本の人口減少が進んでいましたから、海外に出て行くのが合理的だと考えていたのですが、当時の中期経営計画では、その結論に持って行くことができませんでした。会社の方向性と私の思いに少しギャップがあり、悶々とした思いを抱える中でご縁があり、3年間投資銀行に身を置きました。

 ─ この投資銀行での経験はどう生きていますか。

 奥村 その3年間がなければ、私は今、ここにいないと思います。全ての経験、そこで出会った方々は、今につながっているのだと思います。その投資銀行は上場していましたが、従業員は数十人でしたから、経営の意思決定の速さは、私がそれまで経験したことのないものでした。

 一方で、在職中にリーマンショックが起き、その前後で全く違う事業環境になりました。転職して1年くらいは全く問題なくできていたのが、リーマンショックが起きた瞬間、お金がさーっと消えました。資本市場の怖さ、激しさのようなものを経験することができました。

 ─ この時に、損保ジャパンに帰って来いという人がいたということですか。

 奥村 本当にそこは感謝しなければいけないと思っています。投資銀行の方からも温かく送り出していただきました。

 その時、SOMPOグループも新しいマネジメント体制になっていましたが、リーマンショックで資本市場からお金が消えていく中、もう一度海外事業に注力するという方針を打ち出していました。その第1弾が、先程お話したブラジルの保険会社買収だったんです。

 ─ 奥村さんは学生時代にもブラジルに留学したことがあったとか。

 奥村 そうです。学生時代に留学しました。安田火災に入社後、若手時代に南米安田保険という子会社に赴任しましたから、ブラジルは3度目でした。

 ─ ブラジルとは縁があるんですね。サッカー留学はいつ頃ですか。

 奥村 1987年のことです。私は当時、筑波大学でサッカーをしていたのですが、1年間働きながらブラジルを学ぶという日本とブラジルの青少年を育成する団体の留学制度に応募しました。日本にはまだJリーグがない時代でしたが、ブラジルではサッカーは職業でもあります。そこでサッカーをしながら語学の勉強をしたのです。

 サッカーは全然通用せず、怪我もしましたが、非常に大きな経験となりました。ブラジルには約150万人の日系人の方々がおられ、最大のコミュニティを形成しています。

 その日系人の方々がブラジルに行かれた歴史的背景やご苦労、彼らが築かれた基盤によって、私達日本人が現地で高い評価をいただけていることなどに関心を持ちました。帰国して就職する際の判断基準の1つに、ブラジルで働けることを置いており、それが安田火災を志望する動機にもなりました。

 ─ サッカーは奥村さんの原点になっていますね。高校はどちらだったんですか。

 奥村 埼玉県立大宮高校です。当時は浦和勢が強く、私も浦和の高校に行きたかったのですが、私が入学する前に筑波大学サッカー部の1期生で、キャプテンを務めて大学院を出た方が大宮高校に赴任してきたんです。その方が非常に科学的な指導をするということを知り、土壇場で志望校を変更しました。

 高校時代にも何度か大きな怪我をしたのですが、どうしても日本一になりたいと思っていました。当時、大学で強かったのは筑波大学と早稲田大学で、先生に相談したところ、母校である筑波がいいと。同期には名古屋グランパス監督の長谷川健太、後輩には柏レイソルヘッドコーチの井原正巳、ジュビロ磐田コーチの中山雅史がいます。

 ただ、大学でも怪我が治らず、先程お話したようにブラジルでも怪我をしましたから、少し残念な形での帰国となりましたが、それらが全てご縁としてつながって、この会社でお世話になることになりました。

データを扱うのも「人」
 ─ 改めて、SOMPOグループをどのような会社にしていきたいという思いを持っていますか。

 奥村 保険を祖業、主業としてやってきていますが、お客様から信頼いただくことは、今後も大事にしていきたいですね。

 一方で、お客様のニーズ、社会の変化に柔軟に対応して、そのご期待に応え続ける会社でありたいと思っています。常に進化し続けて、その結果、社会からも「この会社は必要だ」という会社であり続けたいのです。

 ─ データを生かしていくというお話でしたが、データと「人」の関係をどう考えますか。

 奥村 私はデータを使うのも「人」だと考えています。主業である保険は「安心」という無形のものをお届けする商品です。そこではデータでできること、デジタルテクノロジーでお客様とつながる機会は、さらに増えていくと思います。

 ただ、最後はやはりお客様の表情を見て、不安なのか、喜んでおられるのか、ご理解されているのか、納得されているのかといったことを判断する上で、代理店様も含めた、我々グループの「人」の役割は非常に大きいと思っています。グループの中でデータも信用も大事ですが、それを使うのは「人」ですから、人材は最大のアセットだと思っています。

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