―― 久保利さんは1967年に東京大学法学部4年の在学中に司法試験に合格しましたね。久保利さんが弁護士を志した理由は何だったのですか。
【内部通報制度が形骸化した理由は何ですか?】日比谷パーク法律事務所代表:久保利 英明弁護士
久保利 日本に正義と真の民主主義をもたらせたいという思いですね。人間は不正義によりプライドや尊厳が傷つけられ、命にも関わります。だからこそ、その根本である人権を守りたいと思ったのです。皆が生きたいように生きられる国にするために弁護士を選びました。
弁護士の中には貧困を撲滅したいという志から弁護士になった方もいらっしゃいます。私の場合は貧しい・豊かという問題よりも、組織や権力が犯す不正義が許せなかったのです。
―― 企業でも不祥事が相次ぎ、経営トップはもちろん、社員一人ひとりの正義感が求められる時代になっています。
久保利 ところが、正義感のある人間が減っています。正義感を発揮すると損だという、教育のせいではないでしょうか。同調圧力に流され、みんな同じが良いことという流れができた中で、「それはおかしい」と言う人は「嫌な奴だ」と総スカンを喰う社会になりました。
皆と同じように振る舞い、皆と同じことを同じようにやることが正しいと小学校から高校まで教育されて個性を失い、目立つことを恐れるからです。そうすると、人並みが幅をきかせ、正義感、我が道を行く強い心は養われず、基本軸がないために信念も正義も忘れて自己保身に堕してしまう。
―― 正義という言葉もあまり言葉が使われませんね。
久保利 ええ。裁判官も判決文の中で「正義に反する」といった言葉を言いませんからね。アメリカの連邦最高裁判事だったR・B・ギンズバーグは「正義、正義」と言い続けました。
―― 久保利さんが弁護士になった頃はどうでしたか。
久保利 むしろ、人権とか正義を言う人ばかりでした。そもそも私が弁護士になった頃は、特攻隊で生き残ったり、敗戦後もインドネシアでオランダと戦闘を続けた軍人が復員して弁護士になっていました。特に私の印象に残っているのが戸田謙先生です。
特攻隊員だった弁護士、墓から遺体を掘り出した弁護士
―― どのような人ですか。
久保利 戸田先生は帝国軍人で、戦時中は陸軍機のパイロットでした。終戦間際に出撃命令を受けて敵地に向かって飛び出したのですが、飛行機の不具合により、そのまま飛行場に墜落して全身火だるまになりました。一晩、死体置き場に置かれたのが奇跡的に一命をとりとめたものの、顔面全体にケロイドが残り、火傷のため両手が引きつっていました。
その後、戸田先生は軍人としての自分は間違えていた。人権が大事なんだと考えて弁護士になります。日教組顧問として「岩教組学テ事件」を担当されました。地方公務員労働組合のストライキに対する刑事罰からの解放や教育権を巡る訴訟を担当するなど人権と民主主義のために奮闘されました。
―― 不正義をなくそうと社会が燃えている時代でしたね。
久保利 そうですね。でも、不正義は今も形を変えて残っています。戸田先生は私より20歳ぐらい先輩ですが、同年輩でインドネシア解放のため戦い続けた柳沼八郎先生は他の兵隊よりずっと遅れて復員し、刑事弁護士として被疑者への接見妨害と一生戦い続けました。私も加わったスモン訴訟では、その薬害被害者弁護団の団長も務められました。
そしてもう1人、私に影響を与えた大先輩弁護士が正木ひろし先生です。正木先生は私より50歳ほど年上ですが、私の生まれた1944年に警察官による被疑者に対する拷問による暴行致死を告発し、隠蔽されていた真相を暴き出すために「首なし事件」を掘り起こし、告発しました。
この事件は茨城県で発生し、闇物資横流し等の嫌疑で拘引された被疑者が、警察署で取調べ中に死亡し、警察は病死として処理して土葬してしまったのです。拷問が原因ではないかという疑いを持った正木先生は既に高名な民事弁護士でしたが、正義感から行動し始めました。
正木先生は解剖助手を連れて自ら墓地に赴き、埋葬されていた遺体を掘り出したのです。正木先生は掘り出した死体から首を切断させ、頭部だけを東京帝国大学(当時)の法医学教室に持ち込み、教授に鑑定を依頼しました。
すると、脳の側頭部に出血があり、死因は警察の鑑定による脳溢血などではなく、脳に加えられた外傷による死亡と鑑定されたのです。その結果を受けた正木先生は警察署の巡査部長と死亡直後に司法解剖を行った警察医の2人を告発しました。
―― その逸話を直接、正木先生から聞いたのですか。
久保利 修習中か弁護士になってすぐの頃の弁護士会館での講演会でした。これを聞いて「これこそが正義だ」と奮い立ったことを覚えています。まさか、死体を掘り起こして首を切るとは。そのこと自体が罪に問われる可能性もありました。それでも正木先生は弁護士として「これは許せない。不正義だ」と怒ったのでしょう。
事件に関わったとき先生は48歳の民事弁護士でした。自らの身など顧みず、正義のためにこれは真相を究明し、告発しなければいけないと考えたのです。かつての司法の世界には、戸田先生や正木先生のようなすごい弁護士がゴロゴロいたのです。
以下、本誌にて
【内部通報制度が形骸化した理由は何ですか?】日比谷パーク法律事務所代表:久保利 英明弁護士
久保利 日本に正義と真の民主主義をもたらせたいという思いですね。人間は不正義によりプライドや尊厳が傷つけられ、命にも関わります。だからこそ、その根本である人権を守りたいと思ったのです。皆が生きたいように生きられる国にするために弁護士を選びました。
弁護士の中には貧困を撲滅したいという志から弁護士になった方もいらっしゃいます。私の場合は貧しい・豊かという問題よりも、組織や権力が犯す不正義が許せなかったのです。
―― 企業でも不祥事が相次ぎ、経営トップはもちろん、社員一人ひとりの正義感が求められる時代になっています。
久保利 ところが、正義感のある人間が減っています。正義感を発揮すると損だという、教育のせいではないでしょうか。同調圧力に流され、みんな同じが良いことという流れができた中で、「それはおかしい」と言う人は「嫌な奴だ」と総スカンを喰う社会になりました。
皆と同じように振る舞い、皆と同じことを同じようにやることが正しいと小学校から高校まで教育されて個性を失い、目立つことを恐れるからです。そうすると、人並みが幅をきかせ、正義感、我が道を行く強い心は養われず、基本軸がないために信念も正義も忘れて自己保身に堕してしまう。
―― 正義という言葉もあまり言葉が使われませんね。
久保利 ええ。裁判官も判決文の中で「正義に反する」といった言葉を言いませんからね。アメリカの連邦最高裁判事だったR・B・ギンズバーグは「正義、正義」と言い続けました。
―― 久保利さんが弁護士になった頃はどうでしたか。
久保利 むしろ、人権とか正義を言う人ばかりでした。そもそも私が弁護士になった頃は、特攻隊で生き残ったり、敗戦後もインドネシアでオランダと戦闘を続けた軍人が復員して弁護士になっていました。特に私の印象に残っているのが戸田謙先生です。
特攻隊員だった弁護士、墓から遺体を掘り出した弁護士
―― どのような人ですか。
久保利 戸田先生は帝国軍人で、戦時中は陸軍機のパイロットでした。終戦間際に出撃命令を受けて敵地に向かって飛び出したのですが、飛行機の不具合により、そのまま飛行場に墜落して全身火だるまになりました。一晩、死体置き場に置かれたのが奇跡的に一命をとりとめたものの、顔面全体にケロイドが残り、火傷のため両手が引きつっていました。
その後、戸田先生は軍人としての自分は間違えていた。人権が大事なんだと考えて弁護士になります。日教組顧問として「岩教組学テ事件」を担当されました。地方公務員労働組合のストライキに対する刑事罰からの解放や教育権を巡る訴訟を担当するなど人権と民主主義のために奮闘されました。
―― 不正義をなくそうと社会が燃えている時代でしたね。
久保利 そうですね。でも、不正義は今も形を変えて残っています。戸田先生は私より20歳ぐらい先輩ですが、同年輩でインドネシア解放のため戦い続けた柳沼八郎先生は他の兵隊よりずっと遅れて復員し、刑事弁護士として被疑者への接見妨害と一生戦い続けました。私も加わったスモン訴訟では、その薬害被害者弁護団の団長も務められました。
そしてもう1人、私に影響を与えた大先輩弁護士が正木ひろし先生です。正木先生は私より50歳ほど年上ですが、私の生まれた1944年に警察官による被疑者に対する拷問による暴行致死を告発し、隠蔽されていた真相を暴き出すために「首なし事件」を掘り起こし、告発しました。
この事件は茨城県で発生し、闇物資横流し等の嫌疑で拘引された被疑者が、警察署で取調べ中に死亡し、警察は病死として処理して土葬してしまったのです。拷問が原因ではないかという疑いを持った正木先生は既に高名な民事弁護士でしたが、正義感から行動し始めました。
正木先生は解剖助手を連れて自ら墓地に赴き、埋葬されていた遺体を掘り出したのです。正木先生は掘り出した死体から首を切断させ、頭部だけを東京帝国大学(当時)の法医学教室に持ち込み、教授に鑑定を依頼しました。
すると、脳の側頭部に出血があり、死因は警察の鑑定による脳溢血などではなく、脳に加えられた外傷による死亡と鑑定されたのです。その結果を受けた正木先生は警察署の巡査部長と死亡直後に司法解剖を行った警察医の2人を告発しました。
―― その逸話を直接、正木先生から聞いたのですか。
久保利 修習中か弁護士になってすぐの頃の弁護士会館での講演会でした。これを聞いて「これこそが正義だ」と奮い立ったことを覚えています。まさか、死体を掘り起こして首を切るとは。そのこと自体が罪に問われる可能性もありました。それでも正木先生は弁護士として「これは許せない。不正義だ」と怒ったのでしょう。
事件に関わったとき先生は48歳の民事弁護士でした。自らの身など顧みず、正義のためにこれは真相を究明し、告発しなければいけないと考えたのです。かつての司法の世界には、戸田先生や正木先生のようなすごい弁護士がゴロゴロいたのです。
以下、本誌にて