コロナ禍などでの環境激変、混沌とした状況下で経営のカジ取りをどう進めるべきか─。基本的なことは創業思想に含まれているとして、「創業思想への回帰」が大事と語るのは、ファスナー最大手のYKK社長・大谷裕明氏。コロナ禍1年目の2020年度(決算期は2021年3月期)は減収減益となったが、大谷氏は「こうしたドン底のときこそ、経営体質を見直すとき」として、在庫削減などのコスト低減や製品の納期を早くするプロジェクトを立ち上げて実行。100年に1度の”危機”とされるコロナ禍は誰もが未経験であり、結局は自分たちの頭を使い、自分たちの手と足で対応策を実行していくほかはないという問題意識。売上の95%は海外で、世界5極体制を敷き、日本を含む6つの事業地域体制を展開するYKK。中国・上海工場では今春のロックダウン(都市封
鎖)の際、従業員たちが独自判断で工場に寝泊まりし、工場の生産を守り続けた。こうした自律的な行動を育んできた創業精神『善の巡環』の今日的意義とはー。
本誌主幹
文=村田 博文
コロナ禍でプラス、 マイナスの両面が…
緊張感の続く毎日─。本社(東京都千代田区神田和泉町)と工場や研究開発本部のある富山県黒部市との往来にも人一倍神経を使う。
【あわせて読みたい】【経団連会長・十倉雅和】の「成長戦略、分配戦略につながる人への投資を!」
「きのうPCR検査を受けたばかりです。今日のインタビューでお会いさせていただくのに合わせて受けました。あと黒部に行くときも、PCR検査を必ず受けています。黒部市しか工場がありませんのでね。われわれが行って、万が一感染が広まって、現場が止まったとなると、とんでもない事になりますので、かなり神経質にはしています」
YKK社長・大谷裕明氏は日々の危機管理についてこう語る。緊張感の連続である。
YKKグループはファスナー作りのファスニング事業とAP(建築用プロダクツ)事業を中核に、世界72カ国・地域で事業を展開するグローバル企業。グループ会社数は106社にのぼり、従業員数は4万4410人を数える。
グローバル経営体制の骨子はガバナンス(統治)と事業推進体制を分けていること。
世界を5極に分け、各地域統括会社がその地域内の事業会社に対し、資本管理とガバナンス強化を中心に経営をサポート。
5極とは、東アジア、Americas(北中米、南米地域)、EMEA(欧州、中東、アフリカ地域)、ASAO(ASEAN=東南アジア諸国連合、南アジア、太平洋地域)、中国の5極である。
この5極と日本の計6つの事業地域との対話を重ねるため、コロナ前、大谷氏はしょっちゅう現地を訪ねていた。以前は、毎月の3分の1を本社・東京で過ごし、次の3分の1を『技術の総本山』である黒部事業所(富山)で過ごしていた。
そして、もう3分の1を海外拠点回りに充当。しかし、コロナ禍の発生で事情は一変。海外は訪問しにくい状況が続く。
「それが一番の悩みと言いますかね。なかなか行けなかったんですが、5月にはほぼ3年ぶりに、ASAOの地域統括会社の株主総会に行ってきたんです」
大谷氏は、世界全体を見るYKK社長として、各地域統括会社の取締役も兼ねている。
シンガポールで開催された地域統括会社の株主総会では、久しぶりに各国の会社の首脳と会い、対話してきたという。
「そのときは、地域統括の社長が気を遣ってくれて、全アジアの社長に声をかけて、日本からわたしが行くので、久しぶりだろうから皆で会わないかって。10人前後が集まり、顔を合わせました」
ベトナム、インドネシア、マレーシアなどのASEANやパキスタン、バングラデシュなどの南アジア、太平洋豪州などの地域から12カ国の首脳が集まった。
「3年ぶりの顔合わせでしたが、一安心しました」と大谷氏。
コロナ禍は経営のあり方についても変革を促し、プラスとマイナス、両方の影響を与えている。まず、良い事とは何か?
「瞬時に遠く離れた海外の責任者とオンラインで会議ができること。これは本当に便利です」
大谷氏はこう感想を述べながら、次のように加える。
「とにかく一対数百の会議もパッとできる。ところが、わたしはそれが苦手。相手の顔とか見ずにしゃべるというのは、本当に難しい。どんな反応をしているのか分かりませんのでね」
「現場」が見えにくいのが一番つらい
ファスナーの最大手、YKKは世界72カ国で事業を展開(2022年3月現在)。全世界で扱うファスナーの95%以上は海外市場で販売している。日本で販売する本数は全体の5%未満でしかない。
世界各地域での販売、生産の現場はどうなっているのか─。世界の現場の状況を常に把握しておかないといけないという大谷氏の思い。
「もし、今までのビジネスモデルでしたら、わたしは毎月、6地域に行かなければいけないわけです。アメリカへ行って、欧州に行き、アジアに行って、中国に行ってと。これは大変ですが、オンラインだと毎月6極の責任者と直接対話ができる。これは大変なメリットです」
大谷氏は〝オンライン対話〟のメリットをこう語りながらも、「ところが、現場が見えてきません。これが一番きつい。いろいろな数字は見えても、費用がたくさんかかっているよねとか、あるいは生産がちょっとおかしいよねというのは、現場を見ないと分からないものなんですが、これが見えない」と強調。
世界5極体制を敷き、6つの地域事業会社制を敷いているのも、各国・地域で民族、文化、嗜好、デザインの好みが違うし、そうした地域性に配慮してのもの。
YKKグループはファスナーのYKKと建材のYKK APを中核に形成。2022年3月期のグループ連結売上高は7970億円、営業利益601億円(営業利益率7・5%)を計上。2021年3月期は売上高6537億円、営業利益263億円(営業利益率4・0%)と苦戦した。
2020年度(2021年3月期)にコロナ禍で消費活動が抑制され、原材料の供給も縮小、購入価格も上昇し、それらはコストアップの要因となった。
どう対応したのか?
大谷氏は、この〝ドン底〟状況を、逆に体質改革の好機にすべきと考えた。ガバナンスの見直しもその1つである。
「ガバナンスというのは、時間をかけてやるものじゃないと思います。誰がそれを決めて、その決定プロセスがしっかりと公正な中で決定されたものかどうかはっきりしておけば、それでいいと思うんです。わたしどもの最終決議機関は取締役会ですから、そこに懸けるべきものと、そうではなくて取締役で決めることができる問題というのを分けているし、その通りにプロセスを踏んでいればいいと」
コロナ禍で厳しい時に経営改革、体質改善を!
1959年(昭和34年)生まれの大谷氏がYKK社長に就任したのは2017年4月。社長就任4年目にコロナ禍に遭遇。 前述の通り、2020年(令和2年)は減収減益で、利益もやっと水面上に顔を出している状況。しかし、その〝ドン底〟のときにこそ、経営改革・体質改善を進めようと考えた。
「ええ、ドン底のときに、いち早くコストを低減するプロジェクトだったり、あるいは納期を早くすることやデジタル化を早くするプロジェクトを1年ほど前倒しで始めました」
その改革が功を奏し、YKK本体の2021年度(2022年3月期)は売上高3481億円(前期比40%増)、営業利益423億円(同600%増)の増収増益となった。
社長就任から5年が経ち、大谷氏はガバナンスを含めた改革に際して、どんな点に留意しているのか?
グループはファスニング事業(グループ会社数67社、従業員数2万6983人)、建材のAP事業(同23社、従業員数1万6788人)、そしてその他事業(不動産、印刷、農牧などで16社、従業員数639人)で構成(2022年3月現在)。グループの中核であるYKKとYKKAPの連携はどう進めるのか? まずガバナンスである。
「YKK株式会社が資本上はYKKAPの親会社ということで、今の相談役(吉田忠裕氏、前会長)が両社の社長及び会長を兼ねて、YKKグループのCEO(最高経営責任者)であるという体制だったときは、1人の人間がどちらも見ないといけなかった。そのときは大変な苦労をしておられたと思うんです。これを今は完全にYKKとYKKAPと事業も、しかも経営も分離しておるんですが、YKKグループということで内部統制であったり、ガバナンスは効かせる必要があるわけですね」
大谷氏はグループ全体としてのコーポレートガバナンスの必要性があると強調し、次のように続ける。
「両社の社長はそれぞれの事業に特化して事業を推進していく。その代わり、会長がおりますので、YKKの会長はYKKAPの取締役を兼任する。YKKAPの会長はYKK株式会社の取締役も兼任する。内部的にはタスキ掛けというんですが、両者の会長が両社の取締役会に参加することによって、しっかりとコーポレートガバナンスを効かせているということです」
「雇用は守る」とのメッセージで… このコロナ禍にあって、各地域会社の幹部、そしてグループ会社の社員には、どんな言葉を投げかけたのか?
「2020年にコロナが勃発したときは、誰に聞いても、こうしたほうがいいでしょうというアドバイスを出せる人がいないんですよ。百年に一回の危機ですからね」
コロナ禍がパンデミック(世界的大流行)として2年9カ月前登場したとき、どの国も、どの企業も、また誰もが有効な解決策を持ち得ていなかった。ワクチンは開発されたが、手探り状態が今なお続く。
企業はその中を生き抜かなくてはならない。大谷氏はどういうスタンスで臨んだのか?
「わたくしどもの企業精神に立ち返って、とにかく社員の生活の保障と、あと安全を第一に考えるために営利重視からキャッシュフロー重視に変えてくれと」
コロナ1年目から、欧米の主要都市はほとんどロックダウン(都市封鎖)に走った。経済はストップし、オーダー(注文)が入ってこなくなった。
世界72カ国・地域で生産・販売活動を行い、商標登録は177カ国・地域に及ぶYKK。ロックダウンの影響は大きかった。
予想外のパンデミックだが、キャッシュ(現金)の回転をストップさせるわけにはいかない。
必要不可欠な投資は続行するとして、「ただ、不急なものもある。不急なものに関しては、投資の時期、いわゆるキャッシュアウトの時期をできるだけ先延ばしすることと、不要な在庫は持つなと」
多くのグループ会社があり、キャッシュリッチなところもあれば、そうでないところもある。
「スリランカとかフィリピンとか、そうしたところの中小企業の会社はキャッシュをそんなにたくさん持っていませんから、無くなったら、しっかりとグループの中で資金が回るようにグループファイナンスをしています。そういう所をしっかりと見る」と大谷氏。
6つの地域統括会社がグループファイナンス機能も果たす─というガバナンス体制を敷いてきたことが、今回のコロナ禍で効いた。
ロックダウンの上海では工場に寝泊まりして生産 実際、各地域の縫製メーカーは辛くて、厳しい状況にあった。欧州や中国の主要都市ではロックダウン(都市封鎖)が続いた。それが解除され、2021年度にオーダーが回復したときに平常時に合わせた生産再開へ向けて、各国の縫製メーカーは動き出した。
しかし、コロナ禍は長丁場の戦いとなっていった。各国政府も試行錯誤というか、思い切った措置に出るところもあった。
例えば中国・上海市。今年3月下旬から6月1日までロックダウンに踏み切った。感染者の出ている地域は完全に封鎖する─という厳しい措置。
YKKグループの現地工場に勤める従業員も当然、自宅と工場の間を通勤できなくなる。現地の従業員たちはどう行動したのか?
YKKは上海に2つの工場を持ち、従業員数は約1800人。
ロックダウンの約2カ月半、上海の従業員たちは工場内に寝泊まりし、操業を続けた。
「これは強制じゃないんです。そうやったほうがいいと中国人の幹部の方が言ってくれて」
現地法人の幹部としては、工場で寝泊まりして、体でも壊されたら、それこそ本末顚倒になる。簡易ベッドを約1200用意し、睡眠を十分取りながら仕事に当たったという。
食料はどう確保したのか?
ロックダウン中の上海市では、自宅待機者の中には、個人で手当てできにくい状況が続き、〝食料争奪戦〟の様相もあった。
50人以上の人が集まり、集中購買しないと、食料が届かないといった現実。
YKK上海工場でも、集中購買を実施し、これを上海市当局が支援してくれたという経緯。
工場単位でのまとめ買いということだが、これも「日頃から現地法人のトップが社員に対して、しっかりした福利厚生をやっていたし、そういう企業姿勢を示してきていたと。ですから、いざというときに市当局も助けてくれるのかなと思いましたね」と大谷氏は感想を語る。
このほか、ベトナムでも昨年の夏から秋にかけてロックダウンが行われた際、現地の従業員たち(約1000人)が約1カ月間、工場に寝泊まりし、操業を続けた。
こうした海外の現地法人の従業員たちが自発的に、今、自分たちが何をやるべきかを考え、実行に移している現実を目の当たりにして、大谷氏は「うれしいです」と心の内を明かし、「これは創業社長(吉田忠雄氏)がよく言っていた森林経営の1つじゃないかと思います」と語る。
なぜ、今、『森林経営』なのか? 『森林経営』─。創業者・吉田忠雄(1908―1993)は、「YKKは森林です」と語り、「全員が手を携えて、一緒に大きく育っていきます」と説き続けた。
「1つひとつの木々がまんべんなく太陽の恵みを受け、一緒に雨風に立ち向かっていかなければなりません」─。経営幹部と現場で働く人たちとの連携、共生への訴えである。
経験を積んで年輪を重ねた太い木もあれば、若くて細い木もある。会社組織も同じで、人はそれぞれの個性や得意とする能力を発揮し、共に前進していこうという森林経営である。
数字目標にこだわらず大きな経営の方向を
YKKの世界での活動拠点は72カ国に及び、グループ会社数は67にのぼる(2022年3月現在)。1社1社で見れば、売上高で200~300億円という所から、小さい所で数億円という国もある。平均すれば60億円台になる。
「会社の大小の規模にかかわらず、経営者としての心構えは同じです。大きくても小さくても、彼らは、わたしを含めていい経験を2020年、2021年はできたなと思いますね。それは、創業者の『善の巡環』の体験であり、その創業思想に立ち返るしかないということですね」
同社は中期経営計画を4年単位で策定。今の第6次中期経営計画は2021年度から2024年度の期限。コロナ禍の直撃を受けるなど環境は激変した。
実際、コロナ禍1年目の2020年度は前述のように大幅な減収減益。計画は大きく狂った。
「皆がコロナ禍で苦労しているときに、本部は数字が出せるかと。大変な負荷をかけるだけだから、本部は方針だけを決めました。いつもなら、その年の3月に、その次の4年間の中期数値を出し、経営方針説明をするのですが、数字を出さなかった」
大谷氏はこう述べ、経営の方針として、「こうやりたいという方針の中に、創業思想への回帰を盛り込んだ」と語る。
混沌とした状況の中で、自分たちの使命と強みは何か? という自問自答。それは創業(1934年)以来続く営み。
「お客様1人ひとりに合わせたOne to One(ワン・ツー・ワン)対応です。それぞれのお客様が展開する新しいビジネスモデルに対応するために、どこよりも優れた商品、技術を開発していく」
Technology Oriental Value Creation(技術に裏付けられた価値創造)をはじめ、『商品力と提案力』、『技術力と製造力』、『新しい顧客の創造』などの言葉が並ぶ。
「こういうのはすべて創業思想への回帰なんです」と大谷氏。
「事業とは、橋を架けるようなもの」
創業者・吉田忠雄氏は「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」という『善の巡環』を経営思想の根幹に据えた。そして、「事業とは橋を架けるようなもの」と説き続けた。
「わたしは、『善の巡環』にずっと共鳴していたんですが、遂に世の中もそうなるかと思ったのが、サステナビリティ(持続性)の登場です。ちょうど2015年の国連サミットでSDGs(合計17の持続的成長目標)が提唱され、それからサステナビリティ志向の考えが世の中に広まりつつありますね」
株主中心主義の経済といわれた米国で、主要百十数社の集まりである『ビジネスラウンドテーブル』が2018年に、企業経営とステークホルダー(利害関係者)との関係を見直した。
「ええ、以前は1番目が株主でした。それを、顧客、従業員、そしてサプライヤー(取引先)、地域社会を掲げたあと、最後に株主だと。これって、われわれが創業以来、言ってきたことと同じことを彼らは言っているんだなと。わたしは内心そう思っているんです」
機械は常に進化する。その機械を最適なやり方で整備できる腕が必要だし、「世界のどこでファスナーを作ろうと、技術者は必要なんです。それを輩出する役割が『技術の総本山』である黒部だと」と大谷氏は語る。
ファスナーの95%以上は海外で使われる。日本から技術者や営業関係者も海外へ派遣されるが、根幹技術の現地での応用となると、「絶対ナショナルスタッフにはかなわないです」と大谷氏。
日本と海外の連携である。
建材のYKKAPを入れたYKKグループ全体の従業員数は約4万7000人。うちファスナーのYKKは約2万7000人(そのうち日本人は約5000人)という従業員構成。
内外の連携強化は絶対に必要。
「今年以降、必ず世界の情勢は厳しくなる。圧倒的なコスト競争力をもう一度磨きあげる」という大谷氏の決意であり、経営者としての覚悟である。
鎖)の際、従業員たちが独自判断で工場に寝泊まりし、工場の生産を守り続けた。こうした自律的な行動を育んできた創業精神『善の巡環』の今日的意義とはー。
本誌主幹
文=村田 博文
コロナ禍でプラス、 マイナスの両面が…
緊張感の続く毎日─。本社(東京都千代田区神田和泉町)と工場や研究開発本部のある富山県黒部市との往来にも人一倍神経を使う。
【あわせて読みたい】【経団連会長・十倉雅和】の「成長戦略、分配戦略につながる人への投資を!」
「きのうPCR検査を受けたばかりです。今日のインタビューでお会いさせていただくのに合わせて受けました。あと黒部に行くときも、PCR検査を必ず受けています。黒部市しか工場がありませんのでね。われわれが行って、万が一感染が広まって、現場が止まったとなると、とんでもない事になりますので、かなり神経質にはしています」
YKK社長・大谷裕明氏は日々の危機管理についてこう語る。緊張感の連続である。
YKKグループはファスナー作りのファスニング事業とAP(建築用プロダクツ)事業を中核に、世界72カ国・地域で事業を展開するグローバル企業。グループ会社数は106社にのぼり、従業員数は4万4410人を数える。
グローバル経営体制の骨子はガバナンス(統治)と事業推進体制を分けていること。
世界を5極に分け、各地域統括会社がその地域内の事業会社に対し、資本管理とガバナンス強化を中心に経営をサポート。
5極とは、東アジア、Americas(北中米、南米地域)、EMEA(欧州、中東、アフリカ地域)、ASAO(ASEAN=東南アジア諸国連合、南アジア、太平洋地域)、中国の5極である。
この5極と日本の計6つの事業地域との対話を重ねるため、コロナ前、大谷氏はしょっちゅう現地を訪ねていた。以前は、毎月の3分の1を本社・東京で過ごし、次の3分の1を『技術の総本山』である黒部事業所(富山)で過ごしていた。
そして、もう3分の1を海外拠点回りに充当。しかし、コロナ禍の発生で事情は一変。海外は訪問しにくい状況が続く。
「それが一番の悩みと言いますかね。なかなか行けなかったんですが、5月にはほぼ3年ぶりに、ASAOの地域統括会社の株主総会に行ってきたんです」
大谷氏は、世界全体を見るYKK社長として、各地域統括会社の取締役も兼ねている。
シンガポールで開催された地域統括会社の株主総会では、久しぶりに各国の会社の首脳と会い、対話してきたという。
「そのときは、地域統括の社長が気を遣ってくれて、全アジアの社長に声をかけて、日本からわたしが行くので、久しぶりだろうから皆で会わないかって。10人前後が集まり、顔を合わせました」
ベトナム、インドネシア、マレーシアなどのASEANやパキスタン、バングラデシュなどの南アジア、太平洋豪州などの地域から12カ国の首脳が集まった。
「3年ぶりの顔合わせでしたが、一安心しました」と大谷氏。
コロナ禍は経営のあり方についても変革を促し、プラスとマイナス、両方の影響を与えている。まず、良い事とは何か?
「瞬時に遠く離れた海外の責任者とオンラインで会議ができること。これは本当に便利です」
大谷氏はこう感想を述べながら、次のように加える。
「とにかく一対数百の会議もパッとできる。ところが、わたしはそれが苦手。相手の顔とか見ずにしゃべるというのは、本当に難しい。どんな反応をしているのか分かりませんのでね」
「現場」が見えにくいのが一番つらい
ファスナーの最大手、YKKは世界72カ国で事業を展開(2022年3月現在)。全世界で扱うファスナーの95%以上は海外市場で販売している。日本で販売する本数は全体の5%未満でしかない。
世界各地域での販売、生産の現場はどうなっているのか─。世界の現場の状況を常に把握しておかないといけないという大谷氏の思い。
「もし、今までのビジネスモデルでしたら、わたしは毎月、6地域に行かなければいけないわけです。アメリカへ行って、欧州に行き、アジアに行って、中国に行ってと。これは大変ですが、オンラインだと毎月6極の責任者と直接対話ができる。これは大変なメリットです」
大谷氏は〝オンライン対話〟のメリットをこう語りながらも、「ところが、現場が見えてきません。これが一番きつい。いろいろな数字は見えても、費用がたくさんかかっているよねとか、あるいは生産がちょっとおかしいよねというのは、現場を見ないと分からないものなんですが、これが見えない」と強調。
世界5極体制を敷き、6つの地域事業会社制を敷いているのも、各国・地域で民族、文化、嗜好、デザインの好みが違うし、そうした地域性に配慮してのもの。
YKKグループはファスナーのYKKと建材のYKK APを中核に形成。2022年3月期のグループ連結売上高は7970億円、営業利益601億円(営業利益率7・5%)を計上。2021年3月期は売上高6537億円、営業利益263億円(営業利益率4・0%)と苦戦した。
2020年度(2021年3月期)にコロナ禍で消費活動が抑制され、原材料の供給も縮小、購入価格も上昇し、それらはコストアップの要因となった。
どう対応したのか?
大谷氏は、この〝ドン底〟状況を、逆に体質改革の好機にすべきと考えた。ガバナンスの見直しもその1つである。
「ガバナンスというのは、時間をかけてやるものじゃないと思います。誰がそれを決めて、その決定プロセスがしっかりと公正な中で決定されたものかどうかはっきりしておけば、それでいいと思うんです。わたしどもの最終決議機関は取締役会ですから、そこに懸けるべきものと、そうではなくて取締役で決めることができる問題というのを分けているし、その通りにプロセスを踏んでいればいいと」
コロナ禍で厳しい時に経営改革、体質改善を!
1959年(昭和34年)生まれの大谷氏がYKK社長に就任したのは2017年4月。社長就任4年目にコロナ禍に遭遇。 前述の通り、2020年(令和2年)は減収減益で、利益もやっと水面上に顔を出している状況。しかし、その〝ドン底〟のときにこそ、経営改革・体質改善を進めようと考えた。
「ええ、ドン底のときに、いち早くコストを低減するプロジェクトだったり、あるいは納期を早くすることやデジタル化を早くするプロジェクトを1年ほど前倒しで始めました」
その改革が功を奏し、YKK本体の2021年度(2022年3月期)は売上高3481億円(前期比40%増)、営業利益423億円(同600%増)の増収増益となった。
社長就任から5年が経ち、大谷氏はガバナンスを含めた改革に際して、どんな点に留意しているのか?
グループはファスニング事業(グループ会社数67社、従業員数2万6983人)、建材のAP事業(同23社、従業員数1万6788人)、そしてその他事業(不動産、印刷、農牧などで16社、従業員数639人)で構成(2022年3月現在)。グループの中核であるYKKとYKKAPの連携はどう進めるのか? まずガバナンスである。
「YKK株式会社が資本上はYKKAPの親会社ということで、今の相談役(吉田忠裕氏、前会長)が両社の社長及び会長を兼ねて、YKKグループのCEO(最高経営責任者)であるという体制だったときは、1人の人間がどちらも見ないといけなかった。そのときは大変な苦労をしておられたと思うんです。これを今は完全にYKKとYKKAPと事業も、しかも経営も分離しておるんですが、YKKグループということで内部統制であったり、ガバナンスは効かせる必要があるわけですね」
大谷氏はグループ全体としてのコーポレートガバナンスの必要性があると強調し、次のように続ける。
「両社の社長はそれぞれの事業に特化して事業を推進していく。その代わり、会長がおりますので、YKKの会長はYKKAPの取締役を兼任する。YKKAPの会長はYKK株式会社の取締役も兼任する。内部的にはタスキ掛けというんですが、両者の会長が両社の取締役会に参加することによって、しっかりとコーポレートガバナンスを効かせているということです」
「雇用は守る」とのメッセージで… このコロナ禍にあって、各地域会社の幹部、そしてグループ会社の社員には、どんな言葉を投げかけたのか?
「2020年にコロナが勃発したときは、誰に聞いても、こうしたほうがいいでしょうというアドバイスを出せる人がいないんですよ。百年に一回の危機ですからね」
コロナ禍がパンデミック(世界的大流行)として2年9カ月前登場したとき、どの国も、どの企業も、また誰もが有効な解決策を持ち得ていなかった。ワクチンは開発されたが、手探り状態が今なお続く。
企業はその中を生き抜かなくてはならない。大谷氏はどういうスタンスで臨んだのか?
「わたくしどもの企業精神に立ち返って、とにかく社員の生活の保障と、あと安全を第一に考えるために営利重視からキャッシュフロー重視に変えてくれと」
コロナ1年目から、欧米の主要都市はほとんどロックダウン(都市封鎖)に走った。経済はストップし、オーダー(注文)が入ってこなくなった。
世界72カ国・地域で生産・販売活動を行い、商標登録は177カ国・地域に及ぶYKK。ロックダウンの影響は大きかった。
予想外のパンデミックだが、キャッシュ(現金)の回転をストップさせるわけにはいかない。
必要不可欠な投資は続行するとして、「ただ、不急なものもある。不急なものに関しては、投資の時期、いわゆるキャッシュアウトの時期をできるだけ先延ばしすることと、不要な在庫は持つなと」
多くのグループ会社があり、キャッシュリッチなところもあれば、そうでないところもある。
「スリランカとかフィリピンとか、そうしたところの中小企業の会社はキャッシュをそんなにたくさん持っていませんから、無くなったら、しっかりとグループの中で資金が回るようにグループファイナンスをしています。そういう所をしっかりと見る」と大谷氏。
6つの地域統括会社がグループファイナンス機能も果たす─というガバナンス体制を敷いてきたことが、今回のコロナ禍で効いた。
ロックダウンの上海では工場に寝泊まりして生産 実際、各地域の縫製メーカーは辛くて、厳しい状況にあった。欧州や中国の主要都市ではロックダウン(都市封鎖)が続いた。それが解除され、2021年度にオーダーが回復したときに平常時に合わせた生産再開へ向けて、各国の縫製メーカーは動き出した。
しかし、コロナ禍は長丁場の戦いとなっていった。各国政府も試行錯誤というか、思い切った措置に出るところもあった。
例えば中国・上海市。今年3月下旬から6月1日までロックダウンに踏み切った。感染者の出ている地域は完全に封鎖する─という厳しい措置。
YKKグループの現地工場に勤める従業員も当然、自宅と工場の間を通勤できなくなる。現地の従業員たちはどう行動したのか?
YKKは上海に2つの工場を持ち、従業員数は約1800人。
ロックダウンの約2カ月半、上海の従業員たちは工場内に寝泊まりし、操業を続けた。
「これは強制じゃないんです。そうやったほうがいいと中国人の幹部の方が言ってくれて」
現地法人の幹部としては、工場で寝泊まりして、体でも壊されたら、それこそ本末顚倒になる。簡易ベッドを約1200用意し、睡眠を十分取りながら仕事に当たったという。
食料はどう確保したのか?
ロックダウン中の上海市では、自宅待機者の中には、個人で手当てできにくい状況が続き、〝食料争奪戦〟の様相もあった。
50人以上の人が集まり、集中購買しないと、食料が届かないといった現実。
YKK上海工場でも、集中購買を実施し、これを上海市当局が支援してくれたという経緯。
工場単位でのまとめ買いということだが、これも「日頃から現地法人のトップが社員に対して、しっかりした福利厚生をやっていたし、そういう企業姿勢を示してきていたと。ですから、いざというときに市当局も助けてくれるのかなと思いましたね」と大谷氏は感想を語る。
このほか、ベトナムでも昨年の夏から秋にかけてロックダウンが行われた際、現地の従業員たち(約1000人)が約1カ月間、工場に寝泊まりし、操業を続けた。
こうした海外の現地法人の従業員たちが自発的に、今、自分たちが何をやるべきかを考え、実行に移している現実を目の当たりにして、大谷氏は「うれしいです」と心の内を明かし、「これは創業社長(吉田忠雄氏)がよく言っていた森林経営の1つじゃないかと思います」と語る。
なぜ、今、『森林経営』なのか? 『森林経営』─。創業者・吉田忠雄(1908―1993)は、「YKKは森林です」と語り、「全員が手を携えて、一緒に大きく育っていきます」と説き続けた。
「1つひとつの木々がまんべんなく太陽の恵みを受け、一緒に雨風に立ち向かっていかなければなりません」─。経営幹部と現場で働く人たちとの連携、共生への訴えである。
経験を積んで年輪を重ねた太い木もあれば、若くて細い木もある。会社組織も同じで、人はそれぞれの個性や得意とする能力を発揮し、共に前進していこうという森林経営である。
数字目標にこだわらず大きな経営の方向を
YKKの世界での活動拠点は72カ国に及び、グループ会社数は67にのぼる(2022年3月現在)。1社1社で見れば、売上高で200~300億円という所から、小さい所で数億円という国もある。平均すれば60億円台になる。
「会社の大小の規模にかかわらず、経営者としての心構えは同じです。大きくても小さくても、彼らは、わたしを含めていい経験を2020年、2021年はできたなと思いますね。それは、創業者の『善の巡環』の体験であり、その創業思想に立ち返るしかないということですね」
同社は中期経営計画を4年単位で策定。今の第6次中期経営計画は2021年度から2024年度の期限。コロナ禍の直撃を受けるなど環境は激変した。
実際、コロナ禍1年目の2020年度は前述のように大幅な減収減益。計画は大きく狂った。
「皆がコロナ禍で苦労しているときに、本部は数字が出せるかと。大変な負荷をかけるだけだから、本部は方針だけを決めました。いつもなら、その年の3月に、その次の4年間の中期数値を出し、経営方針説明をするのですが、数字を出さなかった」
大谷氏はこう述べ、経営の方針として、「こうやりたいという方針の中に、創業思想への回帰を盛り込んだ」と語る。
混沌とした状況の中で、自分たちの使命と強みは何か? という自問自答。それは創業(1934年)以来続く営み。
「お客様1人ひとりに合わせたOne to One(ワン・ツー・ワン)対応です。それぞれのお客様が展開する新しいビジネスモデルに対応するために、どこよりも優れた商品、技術を開発していく」
Technology Oriental Value Creation(技術に裏付けられた価値創造)をはじめ、『商品力と提案力』、『技術力と製造力』、『新しい顧客の創造』などの言葉が並ぶ。
「こういうのはすべて創業思想への回帰なんです」と大谷氏。
「事業とは、橋を架けるようなもの」
創業者・吉田忠雄氏は「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」という『善の巡環』を経営思想の根幹に据えた。そして、「事業とは橋を架けるようなもの」と説き続けた。
「わたしは、『善の巡環』にずっと共鳴していたんですが、遂に世の中もそうなるかと思ったのが、サステナビリティ(持続性)の登場です。ちょうど2015年の国連サミットでSDGs(合計17の持続的成長目標)が提唱され、それからサステナビリティ志向の考えが世の中に広まりつつありますね」
株主中心主義の経済といわれた米国で、主要百十数社の集まりである『ビジネスラウンドテーブル』が2018年に、企業経営とステークホルダー(利害関係者)との関係を見直した。
「ええ、以前は1番目が株主でした。それを、顧客、従業員、そしてサプライヤー(取引先)、地域社会を掲げたあと、最後に株主だと。これって、われわれが創業以来、言ってきたことと同じことを彼らは言っているんだなと。わたしは内心そう思っているんです」
機械は常に進化する。その機械を最適なやり方で整備できる腕が必要だし、「世界のどこでファスナーを作ろうと、技術者は必要なんです。それを輩出する役割が『技術の総本山』である黒部だと」と大谷氏は語る。
ファスナーの95%以上は海外で使われる。日本から技術者や営業関係者も海外へ派遣されるが、根幹技術の現地での応用となると、「絶対ナショナルスタッフにはかなわないです」と大谷氏。
日本と海外の連携である。
建材のYKKAPを入れたYKKグループ全体の従業員数は約4万7000人。うちファスナーのYKKは約2万7000人(そのうち日本人は約5000人)という従業員構成。
内外の連携強化は絶対に必要。
「今年以降、必ず世界の情勢は厳しくなる。圧倒的なコスト競争力をもう一度磨きあげる」という大谷氏の決意であり、経営者としての覚悟である。