米FRBは金利引き上げに動き、インフレ抑制へ。一方、日本銀行はデフレ脱却、そして現在の景気を壊さないために超低金利策を維持。そのために急激なドル高円安が生まれ、金融市場を揺さぶる。不安や混乱が生まれる中をどう生き抜くか。「大きな変化の起きる時、視座を変えればチャンスも生まれる」と清田瞭氏は説く。
なぜ、デフレは30年続くのか
GAFAがなぜ、日本で育たないのか─という声がよく聞かれる。グーグルやアマゾンのようにリスクを取って新しいことに挑戦していく気概、意欲が日本は弱いのではないかという問い掛けである。
【あわせて読みたい】日本取引所グループ・清田瞭CEO「企業の稼ぐ力を上げるために必要な3つのこと」
コロナ禍、ウクライナ危機と、世界的に大変な状況が続く中、先行きに希望をもたらすのは新事業の創出であり、それによる経済の活性化であろう。
リスクとリターンの兼ね合いを測りながら、投資には慎重さも求められるが、日本の場合は欧米と比べて、リスクの取り方があまりにもひ弱ということが長年指摘されてきた。
日本の企業には技術力、人的資本、そして資金力も十分ある。それなのになぜ、力を発揮できないのかという課題である。
イーロン・マスク氏がテスラを起こし、EV(電気自動車)で急成長し、それにとどまらずロケット開発・宇宙開発にも興味を示し、打ち切りになったもののツイッター買収に乗り出した経緯などを見ても、米国の起業家の挑戦意欲は実に旺盛。
このイーロン・マスク氏ほどの大胆さは別にしても、「いでよ、起業家」という声があちこちから聞かれるようになった。
「失われた30年」と言われて久しい。デフレが定着したのは1990年代後半。1997年、98年と大手金融機関の破綻が相次ぎ、日本は金融危機に見舞われた。以来、デフレが続く。
日本の成長を生み出すのは新しい事業の創出、新しい企業の誕生(アントレプレナーの登場)である。日本取引所グループは今年4月、市場区分見直しを行い、プライム、スタンダード、グロースの各市場を整備。
プライム市場は高い流動性と、ガバナンス水準を備え、グローバルな投資家との建設的な対話を中心に据えた企業向けの市場。スタンダード市場は、公開された市場における投資対象として、十分な流動性とガバナンスを備えた企業向けの市場。
そしてグロース市場は高い成長可能性を有する企業向けの市場という区分である。
プライム市場は株式流動比率35%以上、流通時価総額は100億円以上といった条件が付く。旧東証1部企業の大半は、このプライム市場を選択したが、中には流通時価総額100億円を遥かに凌ぐ企業でスタンダード市場を選択したところもある。
大正製薬ホールディングス、日本オラクルのような優良企業がスタンダード市場を選んでいるように同市場の中にも、立派な業績を上げているところは少なくない。今後、各市場のよさを発揮し、その企業のますますの成長を期待したい。
新しい視座を持って
コロナ禍、ウクライナ危機に加えて、米FRB(連邦準備制度理事会)の金利引き上げで米ドル高騰、その裏返しとしての大幅な円安などの為替波乱も加わり、先行き不安感も漂う。
しかし、時代が大きく変化する時というのは新しい視座を持つ時。また違った新しい可能性も出てくるということである。
確かに、金利と株価の関係で見れば、米国の動向からもうかがえるように、金利が上がれば株価は下がるという動きになる。しかし、新しい環境に対応する手立てはないのかという命題。
金利に関する商品開発ということで言えば、私には強烈な体験がある。私は1969年(昭和44年)、大学を卒業して大和証券(現大和証券グループ本社)に入社、債券部に配属となった。
その頃の債券市場は、まだまだ流動性が低く、電力債・電話債・金融債などが取引されている程度。戦後の、日本は1960年代頃から高度成長を遂げてきたが、成長に必要な資金の手当に苦労する時期も続いた。
1965年(昭和40年)は旧山一證券が1回目の経営破綻に追い込まれ、山陽特殊製鋼も更生法の適用を受けるという事態。山一救済にあたっては日銀特融が行われたほどである。
この年、戦後初めての国債が発行され、財政資金として充当されるようになった。
当時はまだ国債流通市場が未発達で、大量に発行された〝ロクイチ国債〟が第二次オイルショック後の金融引締めにより大暴落した。ロクイチ国債とは表面利率6.1%の国債のこと。ゼロ金利時代の今から考えれば、かなり高い利率に思えるが、その当時は超低利率。
そのロクイチ国債の10年物が、1980年(昭和55年)に額面100円の価額が70円台まで急落した。70円台というのは利回りで見ると12%から13%の水準で、他の類似の期間の7%から8%台の利率の国債利回りが9%台で取引されている中では、突出した高利回りまで売り込まれていた。私はこの超割安のロクイチ国債を組み入れた債券型の投資信託として生まれ変わらせる道はないかと連日考え、商品設計図を作成して当時の上司に相談した。
その上司は大蔵省(現財務省)に粘り強く交渉してくれ新商品の認可をもらったのである。当時、信託財産内での償還差益の利益計上の「アキュミュレーション処理」を初めて認めた全く新しいタイプの債券投信で、キャッシュフローの組み替えによって、低利率の債券を高配当の商品へと組成したのである。これらは当時約2500億円の販売額となった。今で言えば2兆円くらいであろうか。
その時、「新国債ファンド」として8.8%固定の予定配当で売り出したところ、まさに瞬間蒸発という状態。投資家の皆さんには大いに歓迎され、追随した他の証券会社の同型のファンドを含めると約1兆円の大型商品となった。
変化の時ほど、物事を悲観的に見るのではなく、その変化を活かす商品開発やサービスはできるものだという体験をさせてもらった。
今はまさに日本の潜在力、人の知恵を発揮する時だと思う。
なぜ、デフレは30年続くのか
GAFAがなぜ、日本で育たないのか─という声がよく聞かれる。グーグルやアマゾンのようにリスクを取って新しいことに挑戦していく気概、意欲が日本は弱いのではないかという問い掛けである。
【あわせて読みたい】日本取引所グループ・清田瞭CEO「企業の稼ぐ力を上げるために必要な3つのこと」
コロナ禍、ウクライナ危機と、世界的に大変な状況が続く中、先行きに希望をもたらすのは新事業の創出であり、それによる経済の活性化であろう。
リスクとリターンの兼ね合いを測りながら、投資には慎重さも求められるが、日本の場合は欧米と比べて、リスクの取り方があまりにもひ弱ということが長年指摘されてきた。
日本の企業には技術力、人的資本、そして資金力も十分ある。それなのになぜ、力を発揮できないのかという課題である。
イーロン・マスク氏がテスラを起こし、EV(電気自動車)で急成長し、それにとどまらずロケット開発・宇宙開発にも興味を示し、打ち切りになったもののツイッター買収に乗り出した経緯などを見ても、米国の起業家の挑戦意欲は実に旺盛。
このイーロン・マスク氏ほどの大胆さは別にしても、「いでよ、起業家」という声があちこちから聞かれるようになった。
「失われた30年」と言われて久しい。デフレが定着したのは1990年代後半。1997年、98年と大手金融機関の破綻が相次ぎ、日本は金融危機に見舞われた。以来、デフレが続く。
日本の成長を生み出すのは新しい事業の創出、新しい企業の誕生(アントレプレナーの登場)である。日本取引所グループは今年4月、市場区分見直しを行い、プライム、スタンダード、グロースの各市場を整備。
プライム市場は高い流動性と、ガバナンス水準を備え、グローバルな投資家との建設的な対話を中心に据えた企業向けの市場。スタンダード市場は、公開された市場における投資対象として、十分な流動性とガバナンスを備えた企業向けの市場。
そしてグロース市場は高い成長可能性を有する企業向けの市場という区分である。
プライム市場は株式流動比率35%以上、流通時価総額は100億円以上といった条件が付く。旧東証1部企業の大半は、このプライム市場を選択したが、中には流通時価総額100億円を遥かに凌ぐ企業でスタンダード市場を選択したところもある。
大正製薬ホールディングス、日本オラクルのような優良企業がスタンダード市場を選んでいるように同市場の中にも、立派な業績を上げているところは少なくない。今後、各市場のよさを発揮し、その企業のますますの成長を期待したい。
新しい視座を持って
コロナ禍、ウクライナ危機に加えて、米FRB(連邦準備制度理事会)の金利引き上げで米ドル高騰、その裏返しとしての大幅な円安などの為替波乱も加わり、先行き不安感も漂う。
しかし、時代が大きく変化する時というのは新しい視座を持つ時。また違った新しい可能性も出てくるということである。
確かに、金利と株価の関係で見れば、米国の動向からもうかがえるように、金利が上がれば株価は下がるという動きになる。しかし、新しい環境に対応する手立てはないのかという命題。
金利に関する商品開発ということで言えば、私には強烈な体験がある。私は1969年(昭和44年)、大学を卒業して大和証券(現大和証券グループ本社)に入社、債券部に配属となった。
その頃の債券市場は、まだまだ流動性が低く、電力債・電話債・金融債などが取引されている程度。戦後の、日本は1960年代頃から高度成長を遂げてきたが、成長に必要な資金の手当に苦労する時期も続いた。
1965年(昭和40年)は旧山一證券が1回目の経営破綻に追い込まれ、山陽特殊製鋼も更生法の適用を受けるという事態。山一救済にあたっては日銀特融が行われたほどである。
この年、戦後初めての国債が発行され、財政資金として充当されるようになった。
当時はまだ国債流通市場が未発達で、大量に発行された〝ロクイチ国債〟が第二次オイルショック後の金融引締めにより大暴落した。ロクイチ国債とは表面利率6.1%の国債のこと。ゼロ金利時代の今から考えれば、かなり高い利率に思えるが、その当時は超低利率。
そのロクイチ国債の10年物が、1980年(昭和55年)に額面100円の価額が70円台まで急落した。70円台というのは利回りで見ると12%から13%の水準で、他の類似の期間の7%から8%台の利率の国債利回りが9%台で取引されている中では、突出した高利回りまで売り込まれていた。私はこの超割安のロクイチ国債を組み入れた債券型の投資信託として生まれ変わらせる道はないかと連日考え、商品設計図を作成して当時の上司に相談した。
その上司は大蔵省(現財務省)に粘り強く交渉してくれ新商品の認可をもらったのである。当時、信託財産内での償還差益の利益計上の「アキュミュレーション処理」を初めて認めた全く新しいタイプの債券投信で、キャッシュフローの組み替えによって、低利率の債券を高配当の商品へと組成したのである。これらは当時約2500億円の販売額となった。今で言えば2兆円くらいであろうか。
その時、「新国債ファンド」として8.8%固定の予定配当で売り出したところ、まさに瞬間蒸発という状態。投資家の皆さんには大いに歓迎され、追随した他の証券会社の同型のファンドを含めると約1兆円の大型商品となった。
変化の時ほど、物事を悲観的に見るのではなく、その変化を活かす商品開発やサービスはできるものだという体験をさせてもらった。
今はまさに日本の潜在力、人の知恵を発揮する時だと思う。