『実るほど頭を垂れる稲穂かな』─人をぐいぐい引っ張る指導力、バイタリティ(活力)を持っている人物で、その振る舞いや所作は実に謙虚という人がいる。
【あわせて読みたい】【追悼】京セラ創業者・稲盛和夫さんを偲ぶ
今年8月末、90歳の生涯を閉じた稲盛和夫さん(京セラ創業者)も芯は強く、謙虚なお人柄。
幼少期は家業の印刷屋の仕事を手伝いながら、懸命に生きた。しかし結核にかかり、療養生活も体験。志望する旧制中学受験に2度失敗し、青春時代はつらい日々。
しかし、逆境にめげないところが稲盛青年の真骨頂。大学を出て就職したところが京都の経営不振のセラミックメーカー。
何事も諦めない稲盛さんの人となりは若き日々の苦境の中で培われたのだとつくづく思う。
危機や困難にひるまず、立ち向かう気質はご本人の努力の蓄積もあろうが、ご本人に聞くと、親の生き方から学んだということ。「特に母親の生き方から影響を受けた」という。
この辺りは、稲盛さんが自叙的に書かれた『君の思いは必ず実現する』(2004年、財界研究所刊、現在16版)にくわしい。
稲盛さんは1932年(昭和7年)、鹿児島市で生を受けた。育ったのは市内を流れる甲突川に面した所。旧薩摩藩士族の家屋が並ぶ一角で、稲盛さんが小学生の頃、通りがかった旧制第七高等学校の学生に理由もなくひっぱたかれたことがあった。
体力的にあらがえず、泣く泣く家に帰ると、母のキミさんは話を聞いてすぐに稲盛少年の手を引いて、その七高生の家に駆けつけ、「小さい者いじめはいけませんよ」と厳しく叱責。
このとき、稲盛少年は母親の着物の裾から顔だけ出して、その光景を見ていたそうだが、理不尽な事は見逃さない母親の生き方に感化されたという。
『母の教え』はその人の人格形成に深く影響するということである。
ちなみに甲突川一帯は鹿児島の郷土の偉人、西郷隆盛や大久保利通などの生家があった所。
下級武士の家に育った西郷、大久保だが、江戸末期、世が混沌とする中、藩政改革に立ち上がる。郷土の歴史的風土、母親の強さと優しさの中で前向きに精神を養っていった稲盛さんの幼少期だ。
幼少期での母の存在は大きい。
古川貞二郎さんの生き方
社会はいろいろな考え、価値観を持った人たちで構成される。時に利害や思惑が対立し、ぶつかり合う中をどうまとめていくか─という課題は常に存在する。
1995年2月、官房副長官になり、2003年9月までの8年7カ月にわたり、官邸の事務方をまとめる要職にあった古川貞二郎さん(1934─2022)は温厚な人柄で霞ヶ関をまとめ上げる人であった。
村山、橋本、小渕、森、小泉内閣と5人の首相に仕え、官邸(首相)と各省庁の連携を進める舞台裏のまとめ役を古川さんは見事にこなされた。
時代の転換期の官邸のカジ取り。自・社・さ連合内閣といわれ、自民党と社会党、そして誕生したばかりの『さきがけ』が連合を組む内閣。その次の橋本龍太郎首相時は行政改革で省庁再編がテーマ。小泉純一郎首相になると郵政改革と戦後日本のオリが溜まった課題の解決が続いた。
難題解決の舞台裏を務めてこられたのも、古川さんの調整力、もっと言えば、人間力が素晴らしかったということ。本誌(2020年11月18日号)で古川さんは、「中立公正。判断基準の中枢にこの考えを据え、物事を進めてきました」と語っておられる。
対話の名手
「各省のトップである次官はある意味で孤独なんです。大臣の下で実質の最終責任は自分にあるというぐらいの覚悟をしている。公式に官邸に上げた後で問題が起きてはいけないので、悩むことも多いんですよ。だから官邸の考えを知ろうとする。忖度とは全く違う話ですよ」
副長官の役割の1つは、「まず総理の考えをきちんと各省庁に伝えること」とし、当時あった事務次官会議でそれを確認。
大事なのは、その後の懇親会で、「自由に意見交換を行い、風通しを良くすることを心掛けた」と古川さんは語っておられた。対話の名手であった。
『母の教え』に…
古川さんは九州大学法学部卒。長崎県庁で2年弱働き、旧厚生省(現厚生労働省)に入省という異色の経歴の持ち主。国のために働きたい─という強い気持ちが、当時の厚生省の採用担当幹部の心に響いたのだと今でも話が伝わる。こうした気質は、どこから生まれるのか?
古川さんが本誌連載『母の教え』で、母ヨネさんのことを振り返り、「厳しいけれど優しい母で、困っている人を見ると何かとよく手を差し伸べていました」と語っておられる。
実家は農家。幼少期の昭和10年代、日本はまだまだ貧しく、故郷・佐賀で幼子を連れた若い女性が近くの天満宮で一夜の宿を取っていたときのこと。
畑仕事からの帰途、それを見た母ヨネさんは家に帰って、おにぎりを握り、「あの男の子にこれを届けてきてね」と古川さんに持っていかせた。
当時、浮浪者とされる人たちの姿を見て、母ヨネさんは「自分の出来る事は…」という気持ちを抱く人であった。
のちに、古川青年が一心不乱に国の業務に打ち込むようになったのも、こうした母親の生きる姿が土台になっているのではないかと思う。
「母のポジティブ思考は、困難を乗り越える原動力にもなっています」と古川さんは笑顔で述懐されていた。その姿が今でも筆者の目に浮かんでくる。
自立・自律の精神で、互いに助け合う社会づくりへ─。
クラウドファンディングのREADYFORのCEO(最高経営責任者)・米良はるかさん(1987年生まれ)が新たに『社会貢献型寄付事業』を検討している。
資産形成をどう図るかという事業は既存の金融機関にあっても、資産を未来にどう役立てるか─といった時に、相談できる所が少ないという日本の現状。
例えば、困った人たちを支援する時に、国に何とか助成してほしいとか、税金でまかなってほしいというのはよくある話。そうではなく、「資産を持っている方が少しでも社会貢献の領域にお金を出してもらえたら」という発想である。
〝遺贈寄付サポート〟という新しいビジネス。資産が出来上がったときに、社会に役立てたいという気持ちを持つ人は少なくない。
国民の間で支え合う社会づくりの第一歩になる。個人金融資産の活用という意味でも注目される。
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今年8月末、90歳の生涯を閉じた稲盛和夫さん(京セラ創業者)も芯は強く、謙虚なお人柄。
幼少期は家業の印刷屋の仕事を手伝いながら、懸命に生きた。しかし結核にかかり、療養生活も体験。志望する旧制中学受験に2度失敗し、青春時代はつらい日々。
しかし、逆境にめげないところが稲盛青年の真骨頂。大学を出て就職したところが京都の経営不振のセラミックメーカー。
何事も諦めない稲盛さんの人となりは若き日々の苦境の中で培われたのだとつくづく思う。
危機や困難にひるまず、立ち向かう気質はご本人の努力の蓄積もあろうが、ご本人に聞くと、親の生き方から学んだということ。「特に母親の生き方から影響を受けた」という。
この辺りは、稲盛さんが自叙的に書かれた『君の思いは必ず実現する』(2004年、財界研究所刊、現在16版)にくわしい。
稲盛さんは1932年(昭和7年)、鹿児島市で生を受けた。育ったのは市内を流れる甲突川に面した所。旧薩摩藩士族の家屋が並ぶ一角で、稲盛さんが小学生の頃、通りがかった旧制第七高等学校の学生に理由もなくひっぱたかれたことがあった。
体力的にあらがえず、泣く泣く家に帰ると、母のキミさんは話を聞いてすぐに稲盛少年の手を引いて、その七高生の家に駆けつけ、「小さい者いじめはいけませんよ」と厳しく叱責。
このとき、稲盛少年は母親の着物の裾から顔だけ出して、その光景を見ていたそうだが、理不尽な事は見逃さない母親の生き方に感化されたという。
『母の教え』はその人の人格形成に深く影響するということである。
ちなみに甲突川一帯は鹿児島の郷土の偉人、西郷隆盛や大久保利通などの生家があった所。
下級武士の家に育った西郷、大久保だが、江戸末期、世が混沌とする中、藩政改革に立ち上がる。郷土の歴史的風土、母親の強さと優しさの中で前向きに精神を養っていった稲盛さんの幼少期だ。
幼少期での母の存在は大きい。
古川貞二郎さんの生き方
社会はいろいろな考え、価値観を持った人たちで構成される。時に利害や思惑が対立し、ぶつかり合う中をどうまとめていくか─という課題は常に存在する。
1995年2月、官房副長官になり、2003年9月までの8年7カ月にわたり、官邸の事務方をまとめる要職にあった古川貞二郎さん(1934─2022)は温厚な人柄で霞ヶ関をまとめ上げる人であった。
村山、橋本、小渕、森、小泉内閣と5人の首相に仕え、官邸(首相)と各省庁の連携を進める舞台裏のまとめ役を古川さんは見事にこなされた。
時代の転換期の官邸のカジ取り。自・社・さ連合内閣といわれ、自民党と社会党、そして誕生したばかりの『さきがけ』が連合を組む内閣。その次の橋本龍太郎首相時は行政改革で省庁再編がテーマ。小泉純一郎首相になると郵政改革と戦後日本のオリが溜まった課題の解決が続いた。
難題解決の舞台裏を務めてこられたのも、古川さんの調整力、もっと言えば、人間力が素晴らしかったということ。本誌(2020年11月18日号)で古川さんは、「中立公正。判断基準の中枢にこの考えを据え、物事を進めてきました」と語っておられる。
対話の名手
「各省のトップである次官はある意味で孤独なんです。大臣の下で実質の最終責任は自分にあるというぐらいの覚悟をしている。公式に官邸に上げた後で問題が起きてはいけないので、悩むことも多いんですよ。だから官邸の考えを知ろうとする。忖度とは全く違う話ですよ」
副長官の役割の1つは、「まず総理の考えをきちんと各省庁に伝えること」とし、当時あった事務次官会議でそれを確認。
大事なのは、その後の懇親会で、「自由に意見交換を行い、風通しを良くすることを心掛けた」と古川さんは語っておられた。対話の名手であった。
『母の教え』に…
古川さんは九州大学法学部卒。長崎県庁で2年弱働き、旧厚生省(現厚生労働省)に入省という異色の経歴の持ち主。国のために働きたい─という強い気持ちが、当時の厚生省の採用担当幹部の心に響いたのだと今でも話が伝わる。こうした気質は、どこから生まれるのか?
古川さんが本誌連載『母の教え』で、母ヨネさんのことを振り返り、「厳しいけれど優しい母で、困っている人を見ると何かとよく手を差し伸べていました」と語っておられる。
実家は農家。幼少期の昭和10年代、日本はまだまだ貧しく、故郷・佐賀で幼子を連れた若い女性が近くの天満宮で一夜の宿を取っていたときのこと。
畑仕事からの帰途、それを見た母ヨネさんは家に帰って、おにぎりを握り、「あの男の子にこれを届けてきてね」と古川さんに持っていかせた。
当時、浮浪者とされる人たちの姿を見て、母ヨネさんは「自分の出来る事は…」という気持ちを抱く人であった。
のちに、古川青年が一心不乱に国の業務に打ち込むようになったのも、こうした母親の生きる姿が土台になっているのではないかと思う。
「母のポジティブ思考は、困難を乗り越える原動力にもなっています」と古川さんは笑顔で述懐されていた。その姿が今でも筆者の目に浮かんでくる。
自立・自律の精神で、互いに助け合う社会づくりへ─。
クラウドファンディングのREADYFORのCEO(最高経営責任者)・米良はるかさん(1987年生まれ)が新たに『社会貢献型寄付事業』を検討している。
資産形成をどう図るかという事業は既存の金融機関にあっても、資産を未来にどう役立てるか─といった時に、相談できる所が少ないという日本の現状。
例えば、困った人たちを支援する時に、国に何とか助成してほしいとか、税金でまかなってほしいというのはよくある話。そうではなく、「資産を持っている方が少しでも社会貢献の領域にお金を出してもらえたら」という発想である。
〝遺贈寄付サポート〟という新しいビジネス。資産が出来上がったときに、社会に役立てたいという気持ちを持つ人は少なくない。
国民の間で支え合う社会づくりの第一歩になる。個人金融資産の活用という意味でも注目される。