今でこそ米グーグルの基本OS(ソフトウエア)である「アンドロイド」が当たり前になっているが、その源流にあるのがオープンソフトウエアの「LINUX(リナックス)」。1990年代の米国でこの可能性にいち早く気付き、日本で広めたのがサイオス社長の喜多伸夫氏だ。オープンソースやクラウド製品の開発を主軸にAIを活用したライフサイエンスにも取り組む同社を起業した喜多氏。創業25年、振り返ると、知らぬ間に母と同じような軌跡を辿っていたという。
左利きを矯正する母
「何やってんねん! 右手で食べんかい」─。母・京子からは、こう言われて怒られていたことが思い出されます。母はあまり優しい人という感じではありません。せっかちな女性なので、こちらがグズグズしていると、「何をしてんねん!」と叱る。厳しい母親だったと思います。
母は昭和5年(1930年)生まれの典型的な昭和の女性です。10代という多感な母の青春時代は太平洋戦争の真っ只中でもありました。母の生まれ故郷は和歌山県でしたが、終戦は満州で迎えたと聞いています。母の父親が満州で一旗あげようと一念発起して満州に渡ったのですが、結果としてそこまで裕福な家庭ではなかったようです。
一方で父の権治は起業家で、大阪府の大阪市で企業調査会社の経営を切り盛りしていました。今で言うところの帝国データバンクや東京商工リサーチのような会社です。もちろん、同社ほどの大企業ではなく、ある特定の企業の財務や経営戦略を調査していました。そんな父と母が結婚して、わたしと弟が生まれました。
父は母より10歳ほど年上の古い人間でしたから仕事一辺倒で、あまり家庭を顧みる人ではありませんでした。ただ、わたしの幼少期は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫を表す「3種の神器」は他の家庭と比べても、早くから家にあったことを覚えています。1964年の東京オリンピックの様子がテレビ画面に流れており、その横で幼少のわたしが写っていた写真を見た記憶があります。
さて、冒頭の台詞が何を意味しているかと言うと、それはわたしに対する躾です。左利きだったわたしを母は右利きに矯正していたのです。中でも常日頃、母から右手を使うように口酸っぱく注意されていたのが箸と鉛筆。食事中や字を書くときになると、わたしに対する母の目が鋭かったことをよく覚えています。時には手を挙げることもありましたから厳しかったです。
食事のメニューが洋食になると使うのはナイフとフォーク。通常は右手にナイフ、左手にフォークですが、これを逆に持ってお肉やライスを食べようとすると、母からは間髪入れずに「逆や!」の声。わたしと違って右利きの弟は母から叱られることはなく平然としていたものです。
今ではこのような躾は考えられないかもしれませんが、昭和初期生まれの母には、左手で箸を持つ姿がどこか行儀悪く見えたのかもしれません。お陰で今では食事をするときも、箸は右利きですし、字を書くときも右。一方で、母に躾けられたのは箸と鉛筆だけでしたので、野球やテニス、ゴルフといったスポーツは全て左利きのままです。取引先の方とゴルフに行くと、プレー中は左利きなのに、昼食になると右利きになる。「あれ、喜多さん、左利きじゃないんですか?」と度々驚かれます。
行儀や作法には厳しかった母ですが、勉学についてはそれほど口を挟みませんでした。父の会社の手伝いをしながら家計を支えてくれていたのですが、どうも母が他の母親とは違ってパワフルな女性だなと感じてきたのは、わたしが小学校3~4年生の頃のこと。というのも、それまで父の会社の仕事を手伝うだけの専業主婦だった母が突然、手芸店を始めたからです。
手芸店やコーヒーショップを経営 まさにゼロからの起業─。子育てが多少なりとも落ち着いてきたこともあり、手芸が得意だったからかもしれませんが、今で言うショッピングモールのような商業施設に自分のお店を出店したのです。お店自体はそこまで儲かっているわけではなかったと思うのですが、そこそこの経営ができていたようです。
ですから、小さい頃はセーターなども母が編んでくれていましたので、母から買ってもらった記憶は全くありません。さらにどこで知恵をつけたのか、自宅を使って洋裁教室も始めました。母が講師を務めるわけではなく、あくまでも場所貸しです。近隣のファンづくりにも抜かりがなかったようです。
つくづく母は逞しい女性だったと思います。例えば、10年ほど続けてきた母の手芸店が入居する商業施設が取り壊されることになりました。そのときに母は特段取り乱す様子もなくコーヒースクールに通い始めました。すると、今度はコーヒーショップを開店。お客様をもてなす母のアウトゴーイング(社交的)な性格もあったと思いますが、どこか起業家としての側面を持っていたように思います。
そんな母ですが、わたしの大阪府立鳳高等学校や京都工芸繊維大学への進学については、何ひとつ口を出しませんでした。大学を卒業して中堅商社の稲畑産業に就職が決まったときは息子が安定した道を進んでくれているとホッとしたようです。
ただ、唯一、母がわたしの進路に対して「そんなに焦らんでも気楽に生きろや」と小言をこぼしたことがありました。それはわたしの起業です。商社のサラリーマンだったわたしが33歳のときに半導体関連の仕事で米シリコンバレーに赴任しました。1993年から98年までのことです。この間に、運命の出会いが起こります。
それがオープンソフトウエアとして誰もが無料で使うことができる基本OS「リナックス」との出会いです。これには衝撃を受けました。当時はマイクロソフトやオラクルのOSが全盛で、それぞれライセンスを得て使うという閉鎖された形が当たり前でした。ところがリナックスは誰もが自由に使えて様々なプログラムを好きなように作れる。可能性を感じました。
米国と日本で仕事を通じて知り合ったメンバー4人のうち日本にいた1人が98年に現在のサイオスの前身となるノーザンライツを設立し、リナックス事業を開始。そして99年にわたしが帰国して社長に就任したという経緯になります。ですから今にして思うと、起業という選択肢を選んでいるところに、父・母と同じ血が自分にも流れているのだなと気づかされます。
ちなみに、そのときの父は反対もせず、「お前の人生や。全ては自己責任。自分で考えろ」。最終的には母も同じような考え方をしていました。わたしから言わせれば、起業も含めて好き勝手やっていた母に何か言われる筋合いはないのだけれど、というのが本心にありましたが(笑)。
バドミントンのシニア大会で入選 そんな母の逞しさや行動力はその後も留まることを知りませんでした。商売に続いて今度はスポーツにも励みだしたのです。40代になると、体力づくりの一環として地元の体育館に通っていたそうですが、そこでバドミントンに出会ったのです。それからというもの、母はバドミントン三昧の生活を送ります。
そして練習もさることながら、大会にも出場していました。しかも70代になってもシニア大会に出場し、今から10年ほど前の全日本シニアバドミントン選手権大会では全国3位の成績を収めたのです。さらには79歳での最高齢選手賞も受賞。これには大変驚きました。
その後、母に言われて母が出場する試合を見に行くと、とにかく母は有名人。「喜多京子さんですよね?」と言われて一緒に写真撮影をしていました。地元・堺市の市長から賞状も贈られており、マスコミに取り上げられることもしばしば。あちこち興味を覚える一方、これだと思ったことには一途に取り組むのが母の性分なのでしょう。
母は現在92歳。父は他界していますが、相変わらずのせっかちな性分は変わらず、実家に帰るときに、そのスケジュールを伝えると「はよ帰りね」とつつかれる。そんな母の血がわたしの中で脈々と流れているのだなと感じている今日この頃です。
きた・のぶお
1959年大阪府生まれ。京都工芸繊維大学工学部卒業。82年稲畑産業入社。90年代の米国赴任中にLINUXと出会い、帰国後の99年にノーザンライツコンピュータ社長に就任。2002年テンアートニとの合併に伴い、新生・テンアートニ社長(現サイオス)に就任。17年持ち株会社移行により現職。Web DINO Japan理事などを務める。
左利きを矯正する母
「何やってんねん! 右手で食べんかい」─。母・京子からは、こう言われて怒られていたことが思い出されます。母はあまり優しい人という感じではありません。せっかちな女性なので、こちらがグズグズしていると、「何をしてんねん!」と叱る。厳しい母親だったと思います。
母は昭和5年(1930年)生まれの典型的な昭和の女性です。10代という多感な母の青春時代は太平洋戦争の真っ只中でもありました。母の生まれ故郷は和歌山県でしたが、終戦は満州で迎えたと聞いています。母の父親が満州で一旗あげようと一念発起して満州に渡ったのですが、結果としてそこまで裕福な家庭ではなかったようです。
一方で父の権治は起業家で、大阪府の大阪市で企業調査会社の経営を切り盛りしていました。今で言うところの帝国データバンクや東京商工リサーチのような会社です。もちろん、同社ほどの大企業ではなく、ある特定の企業の財務や経営戦略を調査していました。そんな父と母が結婚して、わたしと弟が生まれました。
父は母より10歳ほど年上の古い人間でしたから仕事一辺倒で、あまり家庭を顧みる人ではありませんでした。ただ、わたしの幼少期は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫を表す「3種の神器」は他の家庭と比べても、早くから家にあったことを覚えています。1964年の東京オリンピックの様子がテレビ画面に流れており、その横で幼少のわたしが写っていた写真を見た記憶があります。
さて、冒頭の台詞が何を意味しているかと言うと、それはわたしに対する躾です。左利きだったわたしを母は右利きに矯正していたのです。中でも常日頃、母から右手を使うように口酸っぱく注意されていたのが箸と鉛筆。食事中や字を書くときになると、わたしに対する母の目が鋭かったことをよく覚えています。時には手を挙げることもありましたから厳しかったです。
食事のメニューが洋食になると使うのはナイフとフォーク。通常は右手にナイフ、左手にフォークですが、これを逆に持ってお肉やライスを食べようとすると、母からは間髪入れずに「逆や!」の声。わたしと違って右利きの弟は母から叱られることはなく平然としていたものです。
今ではこのような躾は考えられないかもしれませんが、昭和初期生まれの母には、左手で箸を持つ姿がどこか行儀悪く見えたのかもしれません。お陰で今では食事をするときも、箸は右利きですし、字を書くときも右。一方で、母に躾けられたのは箸と鉛筆だけでしたので、野球やテニス、ゴルフといったスポーツは全て左利きのままです。取引先の方とゴルフに行くと、プレー中は左利きなのに、昼食になると右利きになる。「あれ、喜多さん、左利きじゃないんですか?」と度々驚かれます。
行儀や作法には厳しかった母ですが、勉学についてはそれほど口を挟みませんでした。父の会社の手伝いをしながら家計を支えてくれていたのですが、どうも母が他の母親とは違ってパワフルな女性だなと感じてきたのは、わたしが小学校3~4年生の頃のこと。というのも、それまで父の会社の仕事を手伝うだけの専業主婦だった母が突然、手芸店を始めたからです。
手芸店やコーヒーショップを経営 まさにゼロからの起業─。子育てが多少なりとも落ち着いてきたこともあり、手芸が得意だったからかもしれませんが、今で言うショッピングモールのような商業施設に自分のお店を出店したのです。お店自体はそこまで儲かっているわけではなかったと思うのですが、そこそこの経営ができていたようです。
ですから、小さい頃はセーターなども母が編んでくれていましたので、母から買ってもらった記憶は全くありません。さらにどこで知恵をつけたのか、自宅を使って洋裁教室も始めました。母が講師を務めるわけではなく、あくまでも場所貸しです。近隣のファンづくりにも抜かりがなかったようです。
つくづく母は逞しい女性だったと思います。例えば、10年ほど続けてきた母の手芸店が入居する商業施設が取り壊されることになりました。そのときに母は特段取り乱す様子もなくコーヒースクールに通い始めました。すると、今度はコーヒーショップを開店。お客様をもてなす母のアウトゴーイング(社交的)な性格もあったと思いますが、どこか起業家としての側面を持っていたように思います。
そんな母ですが、わたしの大阪府立鳳高等学校や京都工芸繊維大学への進学については、何ひとつ口を出しませんでした。大学を卒業して中堅商社の稲畑産業に就職が決まったときは息子が安定した道を進んでくれているとホッとしたようです。
ただ、唯一、母がわたしの進路に対して「そんなに焦らんでも気楽に生きろや」と小言をこぼしたことがありました。それはわたしの起業です。商社のサラリーマンだったわたしが33歳のときに半導体関連の仕事で米シリコンバレーに赴任しました。1993年から98年までのことです。この間に、運命の出会いが起こります。
それがオープンソフトウエアとして誰もが無料で使うことができる基本OS「リナックス」との出会いです。これには衝撃を受けました。当時はマイクロソフトやオラクルのOSが全盛で、それぞれライセンスを得て使うという閉鎖された形が当たり前でした。ところがリナックスは誰もが自由に使えて様々なプログラムを好きなように作れる。可能性を感じました。
米国と日本で仕事を通じて知り合ったメンバー4人のうち日本にいた1人が98年に現在のサイオスの前身となるノーザンライツを設立し、リナックス事業を開始。そして99年にわたしが帰国して社長に就任したという経緯になります。ですから今にして思うと、起業という選択肢を選んでいるところに、父・母と同じ血が自分にも流れているのだなと気づかされます。
ちなみに、そのときの父は反対もせず、「お前の人生や。全ては自己責任。自分で考えろ」。最終的には母も同じような考え方をしていました。わたしから言わせれば、起業も含めて好き勝手やっていた母に何か言われる筋合いはないのだけれど、というのが本心にありましたが(笑)。
バドミントンのシニア大会で入選 そんな母の逞しさや行動力はその後も留まることを知りませんでした。商売に続いて今度はスポーツにも励みだしたのです。40代になると、体力づくりの一環として地元の体育館に通っていたそうですが、そこでバドミントンに出会ったのです。それからというもの、母はバドミントン三昧の生活を送ります。
そして練習もさることながら、大会にも出場していました。しかも70代になってもシニア大会に出場し、今から10年ほど前の全日本シニアバドミントン選手権大会では全国3位の成績を収めたのです。さらには79歳での最高齢選手賞も受賞。これには大変驚きました。
その後、母に言われて母が出場する試合を見に行くと、とにかく母は有名人。「喜多京子さんですよね?」と言われて一緒に写真撮影をしていました。地元・堺市の市長から賞状も贈られており、マスコミに取り上げられることもしばしば。あちこち興味を覚える一方、これだと思ったことには一途に取り組むのが母の性分なのでしょう。
母は現在92歳。父は他界していますが、相変わらずのせっかちな性分は変わらず、実家に帰るときに、そのスケジュールを伝えると「はよ帰りね」とつつかれる。そんな母の血がわたしの中で脈々と流れているのだなと感じている今日この頃です。
きた・のぶお
1959年大阪府生まれ。京都工芸繊維大学工学部卒業。82年稲畑産業入社。90年代の米国赴任中にLINUXと出会い、帰国後の99年にノーザンライツコンピュータ社長に就任。2002年テンアートニとの合併に伴い、新生・テンアートニ社長(現サイオス)に就任。17年持ち株会社移行により現職。Web DINO Japan理事などを務める。