「みんなが正しいと言うことには、どこか疑わしいところがあると思わなければならない」─。17歳に終戦を迎えた元早稲田大学総長でアジア平和貢献センター理事長の西原春夫氏は振り返る。戦後77年が経つ中、米中対立やロシアによるウクライナ侵攻などに対し、日本の舵取りをどうするかの論議は待ったなしの状況だ。西原氏は自身の戦争体験を踏まえ、「自分ができることをやる」と語る。日本の進むべき道、日本人が考えるべきこととは何か?
17歳を機に世の中が変わった
─ 今年は戦後77年の節目。米中対立やロシアのウクライナ侵攻など国際情勢が緊迫している中、日本の舵取りはどうあるべきなのか。まず西原さんの幼少期の日本の生活はどのようなものだったのですか。
西原 昭和3年(1928年)生まれですので、終戦を迎えたのは私が17歳の高校生だったときでした。今でも印象の残っているのが「二・二六事件」です。陸軍の青年将校たちが兵約1500名を率いて起こしたクーデターですが、私が小学校1年生の学期末に起きました。
実はこの二・二六事件で射殺された陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将の娘さん(後の渡辺道子・ノートルダム清心女子学園理事長)が私の通っていた小学校の2学年上で、しかも私の姉と同級生で親しい友達でもあったのです。そんな身近な人が殺されたのですから、子供心にも大ショックでしたね。積もった雪とともに、あの日の朝を鮮やかに覚えています。
─ この事件を境に日中戦争勃発へと進みます。
西原 ええ。翌年の1937年から日中戦争が始まりました。当時の世相もあって私は軍国少年として育ち、日頃から「日本万歳」と叫んでいました。ところが、私が17歳を迎えて終戦。これまでとは打って変わって、日本はとんでもないことをしでかしたと思うようになりました。
戦争には大東亜共栄圏の建設とか、ロシアの南下政策防止の必要といった、いろいろな名目がありました。しかし、現実には日中戦争ではたくさんの中国人、太平洋戦争ではアメリカの将兵、フィリピン、マレーシアなど、東南アジアの人々を日本人が殺したという事実があったわけですから、被害を受けた人々の立場に立ってみると、日本を恨むのは当然ということになる。この想いがその後の私の生き方を決定していったのです。
─ 終戦を契機に、ガラっと考え方が変わったと。
西原 はい。1945年8月15日を境に、今まで正しいと思っていたことが正しくなくなってしまったのです。したがって、今まで先生や親は一体、私に何を教えていたんだと思うようになりました。ですから、もう大人不信です。大人が信頼できないとなったら、今度は自分の意志をしっかりと持たなければならないと考えるようになりました。また、戦争は絶対にいけないものだとも確信しました。
中島飛行機で消防活動に従事 ─ 戦時中の生活はやはり大変なものだったのですね。
西原 例えば、戦時中の1944年の後半、私は中学校の生徒でありながら消防署に駆り出されたことがありました。16歳です。当時住んでいた東京都武蔵野市には日本最大の飛行機工場である中島飛行機の工場があり、6月にサイパン、グアムが陥落した後、米軍の空襲は必至と見られたのですが、消防署員の大部分が兵隊に取られて、お年寄りしか残っていないという状態のようでした。
私が通っていた学校は中島飛行機工場の近くにあったので、武蔵野市の消防署から足の速いスポーツマンを20人くらい出して欲しいという要請があったらしいのです。どういう基準で選んだのかは分かりませんが、私も水泳選手でしたので、その年の夏休みには消防署へ行って訓練を受けました。消防車に乗って火を消す正規の訓練をしっかり受けたのです。
11月に入ってからB29の偵察が始まり、11月24日にB29の大編隊による最初の本格的な空襲がありました。警戒警報が鳴ると消防署に駆けつけて待機し、出動命令が下ると消防車に乗って、それこそ爆弾や焼夷弾が落ちるのをかいくぐって火災現場に向かったのです。
─ 東京大空襲は45年3月10日。それ以前に空襲の経験をしたということですね。
西原 はい。米軍は都市よりも先に軍需工場を狙ったのです。消防署の隣には防空壕があり、私はいつもその出入り口あたりで、小学校以来の親しい友達と一緒に「ああ、B29が来た」と言って眺めていました。その友達とは配属された消防車が違いました。
ある空襲の日、私の消防車に先に出動命令が下ったので、私はその友達に「お先に行くよ」と言って消防車に向かって走って行ったのです。まさにその時、爆弾の落下音が鳴り響きました。爆弾の落ちる音は電車が走行中のガードの下で聞こえるような音でした。ガァァ! ダァァ! という轟音と共に、砂ボコりがブワッと舞い上がったので、すぐさま私は消防車の下に潜り込んで避難。それでも消防車には泥がザアーとかぶさってきました。
私はそのまま消防車に乗って出動し、各所で消火活動を行った後に無事、署へ帰ったのですが、驚いたのは、さっきの爆弾は防空壕の隣の自転車置き場に落下し、何と私共のいた防空壕の出入り口は完全に埋まってしまったのです。しかも私とともに出入り口にいた私の友達は土に埋もれ、幸運にも一命は取り留めましたが、大腿骨骨折の大怪我をしたというのです。
─ まさに生死を分ける体験をしたことになりますね。
西原 本当にその通りです。もし私の消防車への出動命令が30秒遅れていたら、私は瓦礫に埋もれて死んでいたかもしれません。またはもし爆弾の落下地点が10㍍ずれていたら、消防自動車に向かって走っていた私は爆弾の直撃を受けていたかもしれません。
─ 亡くなった人もいた?
西原 いいえ。幸い1人の死者も出ませんでした。友達が骨折しただけで済んだのです。1人も死ななかった。幸いその友達も骨折だけで済んだとも言える。それでも爆撃の威力をまざまざと感じました。
現場を見ると、爆弾の落ちた自転車置き場にはスリバチ型の大穴があき、そこにあった自転車は全て吹き飛んでいました。自転車で消防署に来ていた友達の自転車がどこを探してもないと言うのです。そこでみんなで探し回るとありました。
自転車は爆風で飛ばされて、何と20㍍先の家の屋根の上に乗っかっていたのです。ハンドルも直角に曲がっていました。私は戦場には行っていませんが、こういった戦争体験は直接しているのです。
通説でも疑問を抱く感覚 ─ 自ら体験したからこそ、戦争の悲惨さを身に染みて知っており、戦争は絶対に避けなくてはならないと思うのですね。
西原 ええ。私には6歳下の弟がいたのですが、彼は埼玉県のお寺に集団疎開しました。当時の話を聞いてみると、東京や浦和、大宮などが空襲を受けた夜など、南の空が真っ赤になっているのが見えたそうです。
子供たちはみんなお寺の外に出て、黙ってじっと赤く染まった南の空を見ていたと言っていました。もう自分の親がどうなっているかも分からない。疎開児の悲しみや恐ろしさは言葉にできませんね。
─ 戦争体験があったからこそ根付いた考えはありますか。
西原 先ほども申し上げましたが、戦争を経た愛国少年の心には、大人は結果として自分たちに真実を教えなかったという受け取り方をしました。ですから、大人は信用できないという感覚を持ちましたね。それから、みんなが正しいと思うことには必ずどこか疑わしいところがあると思わなければならないと。そんな観念ができましたね。
その後、私は刑法学者の道を歩むことになったのですが、この観念は私の学者としての研究態度にも表れました。つまり、多くの学者が信ずる「通説」にも、どこか疑わしいところがあるはずなので、その点を注意しようということになったのです。これは私に終戦体験があったからでしょうね。現に私の刑法学は通説批判から形成されていきました。
─ 西原さんは1960年代、70年代にわたってドイツに留学しましたね。ドイツも日本と同じ敗戦国。ドイツの学者で西原さんと同じような考え方を持つ人はいたのですか。
西原 いいえ、あまり感じませんでした。戦前、ドイツ人はみんながナチズムでした。そのナチスがひどいことをしたのだから、それだけ罪を償い、謝罪しなければいけないという意識は日本人よりはるかに深かったように思います。だからこそドイツは戦後、平和国家として生き返れたのです。
ただドイツと日本の比較についてよく聞く話があります。「日本は『ドイツに比べて』謝罪が足りないので国際社会から認められていない」という指摘ですね。私も確かに反省が十分外に表れていないという面はあると思っています。「村山談話」や「河野談話」という形でしか出しておらず、何となく迫力がないなという感じはしています。
ただそれをドイツとの比較で言われることには違和感があります。ナチスはユダヤ人大虐殺という、とてつもないことをしでかしました。第2次世界大戦を引き起こしたのもナチスですから、ドイツとしては目立つユダヤ人大虐殺を謝罪すれば、大戦そのものへの謝罪も済んでしまうという側面があります。
本来であれば、ナチスのポーランド侵攻やロシア進軍、フランス侵入といった行動を生んだ「帝国主義自体」を反省して謝罪しなければならない。しかしそれには長い歴史などが絡むので、一概にやりにくい。これに反し、ユダヤ人大虐殺はナチス独特の価値観から出てきたもので、批判しやすい。
ですからドイツの首相がやったのは、ことごとくユダヤ人大虐殺への謝罪なのです。しかしそれをやることによってドイツは第二次世界大戦全体についての謝罪が終わったとみられるようになった。
─ 日本に求められている謝罪の形とは一線を画しますね。
西原 その通りです。日本軍も戦場における大規模殺人は犯しました。しかし、民族謀殺という性格を持つユダヤ人大虐殺のようなものはありませんでした。したがって、日本の場合は、戦争全体について謝罪したわけではないのに謝罪が済んだと思われるようなことがドイツに比べてなかったことは事実です。ドイツとは事情が違うのです。
もちろん、ドイツが戦争全体に対する謝罪を十分していないから日本もしなくて良いと言っているわけでは全くありません。私個人としては不十分だと感じています。ただドイツと日本を比較した場合に、そういった指摘が出てくることには違和感があるということです。
台湾進攻の懸念がある中で ─ その中で中国による台湾進攻が懸念されています。
西原 おそらく習近平国家主席は、もし台湾が独立を指向するようであれば武力行使も辞さないという考えを持っていると思われます。つまり台湾問題を武力で解決するという道も否定していないのです。ところがその一方で、習近平国家主席は「世界から敬愛される国になろう」という号令もかけているのです(2021年5月)。武力行使をしながら世界から敬愛されることなどあり得ませんから、両者はある意味で矛盾に見えます。
しかし、中国からすれば矛盾とは考えていないのです。両方とも本気だと思います。私は矛盾であってもその一方を重視すべきだという考えを持っています。「中国人が世界から敬愛されるためには、武力行使や覇権など絶対に避けてください。あなた方の国は立派な国になる素地を持っているのですから」と言い続けたいと考えています。
─ 一方的な批判や非難ではない新たな解決法ですね。
西原 その通りです。「中国は共産主義というある意味での理想社会を目指す社会主義国だから、それに向かって常に変化することを本質とする国と言える。ぜひそういう方向で努力して頂きたい」。それを根気よく訴えていくことの方が、批判、非難して武力行使や覇権をやめさせようとするよりも効果的だと考えているのです。
私は1982年6月から中国訪問を始め、コロナ禍になる2019年まで計89回、中国を訪問し、学術交流を深め、中国の方々の信頼感を得てきました。中国の人々にとって「あの人が言うのであれば」と受け取って頂けるような状況になったと自負しております。詳しくは、「財界」の10月5日号のインタビュー記事をご覧ください。
もしそのような私にできることが出てきたら、それこそ人生94年、日中関係40年の総決算としてそれをやり遂げよう、そう考えている昨今です。
にしはら・はるお
1928年3月東京生まれ。49年早稲田大学第一法学部卒業。56年同大学院法学研究科修士・博士課程修了、62年法学博士、67年早稲田大学教授、72年法学部長、82年総長に就任。88年全私学連合代表、98年国士館理事長などを経て、2005年アジア平和貢献センター理事長。2007年瑞宝大綬章。
17歳を機に世の中が変わった
─ 今年は戦後77年の節目。米中対立やロシアのウクライナ侵攻など国際情勢が緊迫している中、日本の舵取りはどうあるべきなのか。まず西原さんの幼少期の日本の生活はどのようなものだったのですか。
西原 昭和3年(1928年)生まれですので、終戦を迎えたのは私が17歳の高校生だったときでした。今でも印象の残っているのが「二・二六事件」です。陸軍の青年将校たちが兵約1500名を率いて起こしたクーデターですが、私が小学校1年生の学期末に起きました。
実はこの二・二六事件で射殺された陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将の娘さん(後の渡辺道子・ノートルダム清心女子学園理事長)が私の通っていた小学校の2学年上で、しかも私の姉と同級生で親しい友達でもあったのです。そんな身近な人が殺されたのですから、子供心にも大ショックでしたね。積もった雪とともに、あの日の朝を鮮やかに覚えています。
─ この事件を境に日中戦争勃発へと進みます。
西原 ええ。翌年の1937年から日中戦争が始まりました。当時の世相もあって私は軍国少年として育ち、日頃から「日本万歳」と叫んでいました。ところが、私が17歳を迎えて終戦。これまでとは打って変わって、日本はとんでもないことをしでかしたと思うようになりました。
戦争には大東亜共栄圏の建設とか、ロシアの南下政策防止の必要といった、いろいろな名目がありました。しかし、現実には日中戦争ではたくさんの中国人、太平洋戦争ではアメリカの将兵、フィリピン、マレーシアなど、東南アジアの人々を日本人が殺したという事実があったわけですから、被害を受けた人々の立場に立ってみると、日本を恨むのは当然ということになる。この想いがその後の私の生き方を決定していったのです。
─ 終戦を契機に、ガラっと考え方が変わったと。
西原 はい。1945年8月15日を境に、今まで正しいと思っていたことが正しくなくなってしまったのです。したがって、今まで先生や親は一体、私に何を教えていたんだと思うようになりました。ですから、もう大人不信です。大人が信頼できないとなったら、今度は自分の意志をしっかりと持たなければならないと考えるようになりました。また、戦争は絶対にいけないものだとも確信しました。
中島飛行機で消防活動に従事 ─ 戦時中の生活はやはり大変なものだったのですね。
西原 例えば、戦時中の1944年の後半、私は中学校の生徒でありながら消防署に駆り出されたことがありました。16歳です。当時住んでいた東京都武蔵野市には日本最大の飛行機工場である中島飛行機の工場があり、6月にサイパン、グアムが陥落した後、米軍の空襲は必至と見られたのですが、消防署員の大部分が兵隊に取られて、お年寄りしか残っていないという状態のようでした。
私が通っていた学校は中島飛行機工場の近くにあったので、武蔵野市の消防署から足の速いスポーツマンを20人くらい出して欲しいという要請があったらしいのです。どういう基準で選んだのかは分かりませんが、私も水泳選手でしたので、その年の夏休みには消防署へ行って訓練を受けました。消防車に乗って火を消す正規の訓練をしっかり受けたのです。
11月に入ってからB29の偵察が始まり、11月24日にB29の大編隊による最初の本格的な空襲がありました。警戒警報が鳴ると消防署に駆けつけて待機し、出動命令が下ると消防車に乗って、それこそ爆弾や焼夷弾が落ちるのをかいくぐって火災現場に向かったのです。
─ 東京大空襲は45年3月10日。それ以前に空襲の経験をしたということですね。
西原 はい。米軍は都市よりも先に軍需工場を狙ったのです。消防署の隣には防空壕があり、私はいつもその出入り口あたりで、小学校以来の親しい友達と一緒に「ああ、B29が来た」と言って眺めていました。その友達とは配属された消防車が違いました。
ある空襲の日、私の消防車に先に出動命令が下ったので、私はその友達に「お先に行くよ」と言って消防車に向かって走って行ったのです。まさにその時、爆弾の落下音が鳴り響きました。爆弾の落ちる音は電車が走行中のガードの下で聞こえるような音でした。ガァァ! ダァァ! という轟音と共に、砂ボコりがブワッと舞い上がったので、すぐさま私は消防車の下に潜り込んで避難。それでも消防車には泥がザアーとかぶさってきました。
私はそのまま消防車に乗って出動し、各所で消火活動を行った後に無事、署へ帰ったのですが、驚いたのは、さっきの爆弾は防空壕の隣の自転車置き場に落下し、何と私共のいた防空壕の出入り口は完全に埋まってしまったのです。しかも私とともに出入り口にいた私の友達は土に埋もれ、幸運にも一命は取り留めましたが、大腿骨骨折の大怪我をしたというのです。
─ まさに生死を分ける体験をしたことになりますね。
西原 本当にその通りです。もし私の消防車への出動命令が30秒遅れていたら、私は瓦礫に埋もれて死んでいたかもしれません。またはもし爆弾の落下地点が10㍍ずれていたら、消防自動車に向かって走っていた私は爆弾の直撃を受けていたかもしれません。
─ 亡くなった人もいた?
西原 いいえ。幸い1人の死者も出ませんでした。友達が骨折しただけで済んだのです。1人も死ななかった。幸いその友達も骨折だけで済んだとも言える。それでも爆撃の威力をまざまざと感じました。
現場を見ると、爆弾の落ちた自転車置き場にはスリバチ型の大穴があき、そこにあった自転車は全て吹き飛んでいました。自転車で消防署に来ていた友達の自転車がどこを探してもないと言うのです。そこでみんなで探し回るとありました。
自転車は爆風で飛ばされて、何と20㍍先の家の屋根の上に乗っかっていたのです。ハンドルも直角に曲がっていました。私は戦場には行っていませんが、こういった戦争体験は直接しているのです。
通説でも疑問を抱く感覚 ─ 自ら体験したからこそ、戦争の悲惨さを身に染みて知っており、戦争は絶対に避けなくてはならないと思うのですね。
西原 ええ。私には6歳下の弟がいたのですが、彼は埼玉県のお寺に集団疎開しました。当時の話を聞いてみると、東京や浦和、大宮などが空襲を受けた夜など、南の空が真っ赤になっているのが見えたそうです。
子供たちはみんなお寺の外に出て、黙ってじっと赤く染まった南の空を見ていたと言っていました。もう自分の親がどうなっているかも分からない。疎開児の悲しみや恐ろしさは言葉にできませんね。
─ 戦争体験があったからこそ根付いた考えはありますか。
西原 先ほども申し上げましたが、戦争を経た愛国少年の心には、大人は結果として自分たちに真実を教えなかったという受け取り方をしました。ですから、大人は信用できないという感覚を持ちましたね。それから、みんなが正しいと思うことには必ずどこか疑わしいところがあると思わなければならないと。そんな観念ができましたね。
その後、私は刑法学者の道を歩むことになったのですが、この観念は私の学者としての研究態度にも表れました。つまり、多くの学者が信ずる「通説」にも、どこか疑わしいところがあるはずなので、その点を注意しようということになったのです。これは私に終戦体験があったからでしょうね。現に私の刑法学は通説批判から形成されていきました。
─ 西原さんは1960年代、70年代にわたってドイツに留学しましたね。ドイツも日本と同じ敗戦国。ドイツの学者で西原さんと同じような考え方を持つ人はいたのですか。
西原 いいえ、あまり感じませんでした。戦前、ドイツ人はみんながナチズムでした。そのナチスがひどいことをしたのだから、それだけ罪を償い、謝罪しなければいけないという意識は日本人よりはるかに深かったように思います。だからこそドイツは戦後、平和国家として生き返れたのです。
ただドイツと日本の比較についてよく聞く話があります。「日本は『ドイツに比べて』謝罪が足りないので国際社会から認められていない」という指摘ですね。私も確かに反省が十分外に表れていないという面はあると思っています。「村山談話」や「河野談話」という形でしか出しておらず、何となく迫力がないなという感じはしています。
ただそれをドイツとの比較で言われることには違和感があります。ナチスはユダヤ人大虐殺という、とてつもないことをしでかしました。第2次世界大戦を引き起こしたのもナチスですから、ドイツとしては目立つユダヤ人大虐殺を謝罪すれば、大戦そのものへの謝罪も済んでしまうという側面があります。
本来であれば、ナチスのポーランド侵攻やロシア進軍、フランス侵入といった行動を生んだ「帝国主義自体」を反省して謝罪しなければならない。しかしそれには長い歴史などが絡むので、一概にやりにくい。これに反し、ユダヤ人大虐殺はナチス独特の価値観から出てきたもので、批判しやすい。
ですからドイツの首相がやったのは、ことごとくユダヤ人大虐殺への謝罪なのです。しかしそれをやることによってドイツは第二次世界大戦全体についての謝罪が終わったとみられるようになった。
─ 日本に求められている謝罪の形とは一線を画しますね。
西原 その通りです。日本軍も戦場における大規模殺人は犯しました。しかし、民族謀殺という性格を持つユダヤ人大虐殺のようなものはありませんでした。したがって、日本の場合は、戦争全体について謝罪したわけではないのに謝罪が済んだと思われるようなことがドイツに比べてなかったことは事実です。ドイツとは事情が違うのです。
もちろん、ドイツが戦争全体に対する謝罪を十分していないから日本もしなくて良いと言っているわけでは全くありません。私個人としては不十分だと感じています。ただドイツと日本を比較した場合に、そういった指摘が出てくることには違和感があるということです。
台湾進攻の懸念がある中で ─ その中で中国による台湾進攻が懸念されています。
西原 おそらく習近平国家主席は、もし台湾が独立を指向するようであれば武力行使も辞さないという考えを持っていると思われます。つまり台湾問題を武力で解決するという道も否定していないのです。ところがその一方で、習近平国家主席は「世界から敬愛される国になろう」という号令もかけているのです(2021年5月)。武力行使をしながら世界から敬愛されることなどあり得ませんから、両者はある意味で矛盾に見えます。
しかし、中国からすれば矛盾とは考えていないのです。両方とも本気だと思います。私は矛盾であってもその一方を重視すべきだという考えを持っています。「中国人が世界から敬愛されるためには、武力行使や覇権など絶対に避けてください。あなた方の国は立派な国になる素地を持っているのですから」と言い続けたいと考えています。
─ 一方的な批判や非難ではない新たな解決法ですね。
西原 その通りです。「中国は共産主義というある意味での理想社会を目指す社会主義国だから、それに向かって常に変化することを本質とする国と言える。ぜひそういう方向で努力して頂きたい」。それを根気よく訴えていくことの方が、批判、非難して武力行使や覇権をやめさせようとするよりも効果的だと考えているのです。
私は1982年6月から中国訪問を始め、コロナ禍になる2019年まで計89回、中国を訪問し、学術交流を深め、中国の方々の信頼感を得てきました。中国の人々にとって「あの人が言うのであれば」と受け取って頂けるような状況になったと自負しております。詳しくは、「財界」の10月5日号のインタビュー記事をご覧ください。
もしそのような私にできることが出てきたら、それこそ人生94年、日中関係40年の総決算としてそれをやり遂げよう、そう考えている昨今です。
にしはら・はるお
1928年3月東京生まれ。49年早稲田大学第一法学部卒業。56年同大学院法学研究科修士・博士課程修了、62年法学博士、67年早稲田大学教授、72年法学部長、82年総長に就任。88年全私学連合代表、98年国士館理事長などを経て、2005年アジア平和貢献センター理事長。2007年瑞宝大綬章。