「人への投資」が日本の再生を左右する─。「産業構造や教育の方向が変わろうとするときは、学びの見直しが必要で、人の学びも変わらなければならない」と中教審(中央教育審議会)会長を務める渡邉光一郎氏(第一生命ホールディングス会長)。リカレント教育、つまり社会全体での学び直しの必要性が言われ、時代の変化への対応力を高めるリスキリングが説かれる背景には、”縮小日本”という現実がある。1人当たりのGDP(国内総生産)は世界で27位、一人当たり労働生産性で見れば、OECD(経済協力開発機構、38カ国加盟)の中で28位、主要先進国7カ国の中で最下位という状況が続く。国力を担うのは「人」。その「人」が大きく羽ばたき、飛躍していくにはどうすればいいのかという問題意識。「非正規労働」関係者の学び直しを含め、社会全体の学び直しをどう進めていくか。こうした社会課題解決へ向け、「人」の可能性をどう掘り起こしていくか?
【あわせて読みたい】第一生命HD・渡辺光一郎会長「産業構造が大きく変わる今、リスキリング、リカレントなど産学で教育の見直しが必要」
なぜ、今、リカレント教育なのか?
リカレント(recurrent)─。〝回帰する〟、〝循環する〟という意味のリカー(recur)の形容詞。リカレント教育という場合には、社会全体での学び直しを意味する。
1990年代半ばから、急速にインターネット革命が進み、経済領域はもちろん、行政、医療、そして社会制度全体にデジタル化による変革が進む。そうした社会変革の中で、リカレント教育が浮上。
それにしても、なぜ、今、リカレント教育なのか?
「社会改革をDX(デジタルトランスフォーメーション)だけでやろうという話ではなくて、人を中心にして、創造性をもって社会をつくっていこうと。教育改革には、そういう大前提がある」と経団連(日本経済団体連合会)副会長で教育・大学改革推進委員会委員長を務める渡邉光一郎氏(第一生命ホールディングス会長)は語る。
事実、社会は大きく変わろうとしている。
「ええ、サステナブル資本主義や公益資本主義が叫ばれるようになり、そういう時代変化の節目の中で、産業構造が変わるのも、それに併せて教育のほうの構造も変えようと、そういう流れでずっときている」
国連が定めたSDGs(サステナブルな社会、持続性のある社会をつくるための合計17の目標)。そのSDGsを加味して、日本はソサエティ5.0(society5.0)という未来社会のコンセプトを提唱。
人間社会の歴史を遡れば、ソサエティ1.0は狩猟の時代。2.0(農業)、3.0(工業)、4.0(情報)の時代を経て、ソサエティ5.0の時代は、IoT(全てのモノがインターネットにつながる)やAI(人工知能)が社会基盤を支えるという捉え方。
欧州発の第4次産業革命という捉え方もロボット工学、AI、IoT、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、自動運転車など最先端テクノロジーを活用しての新しい社会づくりを目指すもの。第1次産業革命(蒸気=石炭)、第2次(内燃機関=石油)、第3次(情報=コンピュータ)に続く第4次産業革命である。
ソサエティ5.0と第4次産業革命はほぼ同じ社会像、社会のあり方を示すものと言っていい。
そうした社会変革が進む中で、新しい生き方・働き方の追求も進む。
「経団連のバッジには、真ん中にソサエティ5.0が入っており、これはSDGsを示しています。社会課題をイノベーションで変えていく。しかも、それは人間を中心にして、人の創造性をもってイノベーションで変えていこうと。ですから、科学的に合理的に社会課題を解決する。それの行く先はSDGs解決だし、その先はさらにウェルビーイングになる。こういうことだと思います」
ウェルビーイング(well-being、健康・幸福)。つまり、いい生き方・働き方の追求である。
こうした社会変革で人の意識も変わるし、また変えていかなければならないという認識。そこで産業構造の変革と教育のあり方が結び付いてくる。
「産業構造とか教育の方向が変わろうとするときは、学びの見直しがどうしても必要。産業構造が変われば、人の意識もかわらなければいけないし、人の学びも変わらなければいけない。ここでリカレントやリスキリングという考え方が出てきたのは、そういう意味では歴史の必然だと思うんです」
産業を教育の関係はどうあるべきか?
中曽根内閣以来の教育改革の流れの中で
産業と教育両者の関係に入る前に、日本の教育改革の歴史を辿ると─。
戦後77年余が経つ今、大きな教育改革が行われたのは中曽根康弘内閣(1982―1987)時代。
当時は、敗戦から40年近くが経ち、政治、行政、教育の領域で制度疲労が目立ち、中曽根政権は〝臨調〟(臨時行政調査会)の場で、行財政改革の道筋をつくり、改革を一気に推し進めようとしていた。キーワードは民間活力である。
日本の活力を取り戻すとして、民間活力を引き出すという政治哲学の下、〝3公社〟の民営化を推進。日本電信電話公社はNTTに、日本専売公社はJTとなり(1985)、国鉄(日本国有鉄道)はJR各社に分割民営化された(1987)。
中曽根内閣は教育のあり方も徹底的に見直そうと〝臨教審〟(臨時教育審議会)を設置。
「臨教審の教育改革では国際化、情報化を打ち出したんです。ところが、その方向性とは別に、ゆとり教育が出てきた。これは(本来のあるべき改革の姿から見ると)大きな間違いだったと思う」と渡邉氏。
全体の教育のあり方を根本から見つめ直そうという時に、単純にカリキュラムの3割カットということになってしまった。
〝ゆとり教育〟を有馬朗人氏(元東京大学総長、理化学研究所理事長、文部大臣などを歴任、故人)なども推進した。「碩学の人が言い出したから…」と異論はあまり出ずに、ゆとり教育の流れが出来た。一定の期間が過ぎて、遠山敦子・文科大臣(小泉純一郎内閣時、2001年―2003年在任)の時に見直しが入った。
このゆとり教育見直しの際、教育基本法改正が登場(2006)という経緯。
生涯学習の考えが登場そしてリカレントへ
「教育基本法の改正が出た時に、生涯学習が入った。この生涯学習という概念が生まれてから、リカレントという概念が登場してきました。学び直しです。これは人生百年時代というのと重なっていて、より重要だと捉えられていますね」
渡邉氏はリカレント教育という考え方が生まれてきた時代背景をこう説明し、「ところが」と次のように続ける。
「このリカレントというのは、個人ベースの学び直しと受け止められるような出方だったので、産業界との関係でのリカレントには、どうしても成り得なかった。実際、リカレント習熟者というのは増えていない。それは個人ベースだったからだと思うんです」
そうこうしているうち、産業構造が激しく変化する。産業を支え、社会を支えるのは「人」。その人づくりを担う教育のあり方も変えていかなければという認識が強まっていく。
そして、『令和の世』を迎える(2019)。「全ての子供たちの可能性を引き出す」ことを謳う『令和の日本型学校教育』の答申が中教審から出される。
例えば、GIGAスクール構想もその1つ。GIGAとはGlobal and Innovation Gateway for All(全ての児童・生徒のための世界につながる革新的な扉)の略。
インターネットが産業活動の中に組み込まれ、人々の消費行動をはじめ生活全般にも浸透している中、そうした社会の仕組みを知るために、生徒1人ひとりにデバイスを提供。そのためには学校内のICT(情報通信技術)化を進めよう─というGIGAスクール計画である。
教育を変えるには、教える側、つまり先生の意識も変えなくてはいけない。学校教育のあり方を根本から見直そうという今回の教育改革である。
「これが第3期の教育振興基本計画期間なんですが、第3期に出たソサエティ5.0フォーSDGsの未来志向型というのは、これでほぼ出揃ったので、これを踏まえて、来年から次の教育振興基本計画をまとめようと。これは2023年度中にはまとめられると思います」
渡邉氏は、「これで新しい未来志向型の教育改革ができます」という見方を示す。
産業と大学の連携へ『産学協議会』を設置
ただ、教育は時間のかかる仕事。短兵急にはコトは進まないし、成果が出てくるまでには相当な時間がかかる。
「ええ、教育って、先述のゆとりの影響も10年先、30年先に出ます。ですから、今の改革も10年かかる。学習指導要領が10年単位なんですね。教育振興基本計画は5年単位なんで、教育の変革には時間がかかる。今の非正規の問題にしても、ゆとり世代とか、就職困難期の就職氷河期世代のように今になって影響が出ています」
教育は社会のあり方、引いては『国のカタチ』づくりに直結する。
こうした歴史的経過を踏まえて、渡邉氏はソサエティ5.0フォーSDGsの教育改革、産業構造変革について、「これからの時代を考えれば未来志向型で、産学が一緒になってやっていくという構図だと思うんです」と語る。
経団連は、中西宏明・前会長時代に『産学協議会』を設置。中西氏(故人)は日立製作所の再生を成し遂げた後、経団連会長に就任(2018)。ソサエティ5.0を生き抜く人材教育に熱心だった中西氏。同氏は、産業界が求める人材像を大学側に伝え、また国公私立の大学側は雇用面で産業界に何を要望するのかを率直に意見交換しようということで、『産学協議会』を設置した。
中西氏は残念ながら2021年病魔に倒れ、その遺志は現在の十倉雅和会長に受け継がれている。十倉氏は『産学協議会』の共同座長を大学側の代表と共に務め、協議を重ねている。
気になる若者の〝士気低下〟
なぜ、GAFAのような存在が日本には生まれないのか? こうした思いや問題意識を抱える経済人や大学関係者は少なくない。
米グーグルやアップル、フェイスブック(現メタ)、アマゾンなどのように、IoTやAIを駆使し、新しい産業を興すスタートアップ。社会の活性化を促すスタートアップをどう生み出し、また支援していくかはまさに国家的課題。
本来、国富を生み出す産業界と、その産業界に人材を送り出す大学側は相協力して人材を創り出す間柄のはずだが、これまでウマく噛み合っていなかったのは事実。
有力な新進企業が数多く誕生する米国では博士号取得者が企業にもどしどし入るし、自ら業を興していく。日本の企業はなかなか博士号取得者を入れてこなかったし、むしろ敬遠ぎみの面もある。学部卒を入れて、自社内で鍛え、育て上げるという即戦力育成のやり方であった。
これは、人材育成という意味で、産業、大学の双方に責任がある。共通の目標に向かって、産業と大学の双方が手を携えることが大事ということである。
もう1つ、最近の学生の〝士気低下〟ということにどう対応していくかという課題。
現に、日本人学生の間で海外留学への熱意が激減していることに危機感を抱く向きは多い。
ピークには年間12万人の若者が海外留学へ向かったが、今はコロナ禍が加わったとはいえ、約1500人台と激減している。また、アジアなど海外から日本への留学を志望する人たちが減少しているのも気懸りだ。
昨今の就職状況を聞いていて、某大手商社に内定が決まった学生の母親がその商社幹部を訪ねて、「うちの息子を海外に出さないでください」という〝要望〟を出したという話もあった。
ウクライナ危機や各地の紛争もあり、海外勤務は危険という思い込みでそうした話が出てくるのかもしれないが、〝リスクを余りにも取らない日本〟になってはいないかという反省課題。
コロナ禍、ウクライナ危機で得た教訓、そして日本の課題
産業界、教育界双方が抱く危機感は政府の『教育未来創造会議』(議長・岸田文雄現首相)が2022年5月と9月に出した提言にも現れている。
GDPで見た国力でいえば、2020年時点で世界のGDPに占める各国の比率は米国が23.6%、中国は17.9%であるのに対し、日本は5.4%。2060年には中国が26.1%、米国15.4%と中国が米国を抜き去り、日本は2.7%にまで低下すると予測される。
就業者1人当たりの労働生産性は7万8655ドル(当時の為替レートで約809万円)で米国の58%の水準。OECD加盟国38カ国の中では28位で、先進国の間で最下位クラス。
社会課題の解決へ向かって、国や社会の現状を変えていこうという覇気、使命感を持つ者が日本は相対的に少ない─との指摘もある。
こうした現状を変え、1人ひとりが生き甲斐と使命感を持つようにしていくためのリカレント(学び直し)である。
教育未来創造会議は、具体的にデジタル人材の不足も挙げる。日本のデジタル競争力は29位(国際経営開発研究所調べ。ちなみに1位はデンマークで韓国は8位、英国16位、中国17位、ドイツ19位の順)。
そこで同会議は、〝デジタル推進人材〟(データサイエンティストなど)を2024年度までに年間45万人を育成する体制を整えるとしている。
「産業界も教育界も、自分たちの目の前にそういう現実があるのだということに気づきましょうと。気がついたとすれば、イノベーションをこれからやって構造を変えていかなくてはならない。そうすると、高度人材が不足しているから、高度人材をつくらなくてはいけない。イノベーションを進めるには、スタートアップの大学のいろいろなシーズをどんどん社会実装していかなくてはならない。そのためには産・学・官連携が必要だと。それで産学協議会の重要性も高まった」
渡邉氏は、「産・学・官がベクトルで一致したというのは、歴史始まって以来ではないかと思います」と感慨深げに語る。
リカレント教育で、産業界の果たすべき役割とは何か?
「新しい産業構造に円滑な労働移動もできる。かつてのようなリストラではなくて、構造変化をしながら、そこに新しい人、スキルアップした人を移動させていくという考え方です」
産業界では、雇用制度も従来の終身雇用、年功序列的なメンバーシップ型から脱し、職務内容や本人の能力に応じて賃金を決めるジョブ型の要素を取り入れるなどの流れも強まる。
また、副業・兼業を認めるとか、リモートワークなど多様な働き方が登場。「こうした試みや条件整理が整ってリカレント教育が大きな流れになっていく」という渡邉氏の考え。
改めてリカレントの〝定義〟をすると、「リカレントは広い概念で、リスキリングはその中の部分的な概念として出ているという整理のほうが分かりやすいと思います。政府がリカレント教育と出したのは、リスキリングを包括する概念だと理解すればいいと思います」と渡邉氏。
大学側にとっても、構造変化の波が押し寄せる影響は大きい。少子化の流れの中で、18歳人口は今後10年間で112万人(2022年)から102万人(2032年)と9%減る。
高卒の18歳人口だけを入学の対象にしていれば縮小均衡は避けられない。これに対し、社会人を教育したり、留学生をもっと受け入れる方策を取ることは、「大学経営の視点から考えても、これはリカレントに結びつく社会人教育になる」と渡邉氏。
リカレントという学び直しの概念は大学経営にとっても必要だということである。
新しい『国のカタチ』を
日本の近代化は明治維新(1868)から始まった。西欧に追い付き、追い越せと『殖産興業』、『富国強兵』の旗印の下、日本は踏ん張ってきた。しかし、太平洋戦争で敗戦(1945)。維新から77年経ったときの敗戦である。
米国をはじめとする戦勝国は日本を占領し、GHQ(連合国軍総司令部)を置き、憲法制定、教育、産業政策の根幹を次々と決めていった。
GHQが置かれた場所は、第一生命ホールディングスのある東京都千代田区有楽町である。渡邉氏が中教審会長を務め、今また新たに日本の教育の骨格づくりに参加していることは何か歴史の因縁めいたものを感じる。戦後日本がサンフランシスコ講和会議で独立を果たし、主権を回復するのは1952年(昭和27年)のこと。
明治維新時はまだ〝半人前〟の国ながら、主権国家として憲法を制定し、教育の基本骨格をつくった。敗戦で民主国家の形態を取ったものの、GHQの意向の下で─という色彩は残る。
「民主的ないい教育をするという理想像と、日本の国力をどう弱くするかという弱体論が重なっている時期」(某経済人)という指摘もある。
肝腎の米国はどうか?
米国自身は産学連携を強力に進める国柄。そこへ、ドイツをはじめ欧州系や世界各地から優秀な留学生が押し寄せ、イノベーション国家となっていった。また、それだけ人を惹きつける国柄ということでもある。
そうした流れを踏まえて、「日本はタテ型社会になり、義務教育のところでは広い教育がされていますが、高校になると文理がだんだん分かれていく。そのまま大学に行くと、文理で完全に分かれた形で、ずっとタテ型になっていく」と渡邉氏。
この構図だと、人材も自らの領域を規定し、それだけで生きようとする〝I型人材〟になる。企業はもっと多様な能力を持ち、柔軟に新たな課題に対応できる〝T型〟や〝π型〟の人材を求めるのだが、産業と教育も噛み合ってこなかった。
「従来の考え方にいったん区切りをつける。十倉・経団連会長がいま進めている新成長戦略(『。新成長戦略』)という言葉の前にピリオドが打たれています。従来の生き方に区切りを付けて、新しい構造をつくりましょうという意味合いを込めているんですね」と渡邉氏。
サステナブル資本主義を打ち出す経済人と大学関係者との連携を軸に、産・学・官連携を実りあるものにしていけるかどうか、2023年はその真価が問われる年になりそうだ。
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なぜ、今、リカレント教育なのか?
リカレント(recurrent)─。〝回帰する〟、〝循環する〟という意味のリカー(recur)の形容詞。リカレント教育という場合には、社会全体での学び直しを意味する。
1990年代半ばから、急速にインターネット革命が進み、経済領域はもちろん、行政、医療、そして社会制度全体にデジタル化による変革が進む。そうした社会変革の中で、リカレント教育が浮上。
それにしても、なぜ、今、リカレント教育なのか?
「社会改革をDX(デジタルトランスフォーメーション)だけでやろうという話ではなくて、人を中心にして、創造性をもって社会をつくっていこうと。教育改革には、そういう大前提がある」と経団連(日本経済団体連合会)副会長で教育・大学改革推進委員会委員長を務める渡邉光一郎氏(第一生命ホールディングス会長)は語る。
事実、社会は大きく変わろうとしている。
「ええ、サステナブル資本主義や公益資本主義が叫ばれるようになり、そういう時代変化の節目の中で、産業構造が変わるのも、それに併せて教育のほうの構造も変えようと、そういう流れでずっときている」
国連が定めたSDGs(サステナブルな社会、持続性のある社会をつくるための合計17の目標)。そのSDGsを加味して、日本はソサエティ5.0(society5.0)という未来社会のコンセプトを提唱。
人間社会の歴史を遡れば、ソサエティ1.0は狩猟の時代。2.0(農業)、3.0(工業)、4.0(情報)の時代を経て、ソサエティ5.0の時代は、IoT(全てのモノがインターネットにつながる)やAI(人工知能)が社会基盤を支えるという捉え方。
欧州発の第4次産業革命という捉え方もロボット工学、AI、IoT、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、自動運転車など最先端テクノロジーを活用しての新しい社会づくりを目指すもの。第1次産業革命(蒸気=石炭)、第2次(内燃機関=石油)、第3次(情報=コンピュータ)に続く第4次産業革命である。
ソサエティ5.0と第4次産業革命はほぼ同じ社会像、社会のあり方を示すものと言っていい。
そうした社会変革が進む中で、新しい生き方・働き方の追求も進む。
「経団連のバッジには、真ん中にソサエティ5.0が入っており、これはSDGsを示しています。社会課題をイノベーションで変えていく。しかも、それは人間を中心にして、人の創造性をもってイノベーションで変えていこうと。ですから、科学的に合理的に社会課題を解決する。それの行く先はSDGs解決だし、その先はさらにウェルビーイングになる。こういうことだと思います」
ウェルビーイング(well-being、健康・幸福)。つまり、いい生き方・働き方の追求である。
こうした社会変革で人の意識も変わるし、また変えていかなければならないという認識。そこで産業構造の変革と教育のあり方が結び付いてくる。
「産業構造とか教育の方向が変わろうとするときは、学びの見直しがどうしても必要。産業構造が変われば、人の意識もかわらなければいけないし、人の学びも変わらなければいけない。ここでリカレントやリスキリングという考え方が出てきたのは、そういう意味では歴史の必然だと思うんです」
産業を教育の関係はどうあるべきか?
中曽根内閣以来の教育改革の流れの中で
産業と教育両者の関係に入る前に、日本の教育改革の歴史を辿ると─。
戦後77年余が経つ今、大きな教育改革が行われたのは中曽根康弘内閣(1982―1987)時代。
当時は、敗戦から40年近くが経ち、政治、行政、教育の領域で制度疲労が目立ち、中曽根政権は〝臨調〟(臨時行政調査会)の場で、行財政改革の道筋をつくり、改革を一気に推し進めようとしていた。キーワードは民間活力である。
日本の活力を取り戻すとして、民間活力を引き出すという政治哲学の下、〝3公社〟の民営化を推進。日本電信電話公社はNTTに、日本専売公社はJTとなり(1985)、国鉄(日本国有鉄道)はJR各社に分割民営化された(1987)。
中曽根内閣は教育のあり方も徹底的に見直そうと〝臨教審〟(臨時教育審議会)を設置。
「臨教審の教育改革では国際化、情報化を打ち出したんです。ところが、その方向性とは別に、ゆとり教育が出てきた。これは(本来のあるべき改革の姿から見ると)大きな間違いだったと思う」と渡邉氏。
全体の教育のあり方を根本から見つめ直そうという時に、単純にカリキュラムの3割カットということになってしまった。
〝ゆとり教育〟を有馬朗人氏(元東京大学総長、理化学研究所理事長、文部大臣などを歴任、故人)なども推進した。「碩学の人が言い出したから…」と異論はあまり出ずに、ゆとり教育の流れが出来た。一定の期間が過ぎて、遠山敦子・文科大臣(小泉純一郎内閣時、2001年―2003年在任)の時に見直しが入った。
このゆとり教育見直しの際、教育基本法改正が登場(2006)という経緯。
生涯学習の考えが登場そしてリカレントへ
「教育基本法の改正が出た時に、生涯学習が入った。この生涯学習という概念が生まれてから、リカレントという概念が登場してきました。学び直しです。これは人生百年時代というのと重なっていて、より重要だと捉えられていますね」
渡邉氏はリカレント教育という考え方が生まれてきた時代背景をこう説明し、「ところが」と次のように続ける。
「このリカレントというのは、個人ベースの学び直しと受け止められるような出方だったので、産業界との関係でのリカレントには、どうしても成り得なかった。実際、リカレント習熟者というのは増えていない。それは個人ベースだったからだと思うんです」
そうこうしているうち、産業構造が激しく変化する。産業を支え、社会を支えるのは「人」。その人づくりを担う教育のあり方も変えていかなければという認識が強まっていく。
そして、『令和の世』を迎える(2019)。「全ての子供たちの可能性を引き出す」ことを謳う『令和の日本型学校教育』の答申が中教審から出される。
例えば、GIGAスクール構想もその1つ。GIGAとはGlobal and Innovation Gateway for All(全ての児童・生徒のための世界につながる革新的な扉)の略。
インターネットが産業活動の中に組み込まれ、人々の消費行動をはじめ生活全般にも浸透している中、そうした社会の仕組みを知るために、生徒1人ひとりにデバイスを提供。そのためには学校内のICT(情報通信技術)化を進めよう─というGIGAスクール計画である。
教育を変えるには、教える側、つまり先生の意識も変えなくてはいけない。学校教育のあり方を根本から見直そうという今回の教育改革である。
「これが第3期の教育振興基本計画期間なんですが、第3期に出たソサエティ5.0フォーSDGsの未来志向型というのは、これでほぼ出揃ったので、これを踏まえて、来年から次の教育振興基本計画をまとめようと。これは2023年度中にはまとめられると思います」
渡邉氏は、「これで新しい未来志向型の教育改革ができます」という見方を示す。
産業と大学の連携へ『産学協議会』を設置
ただ、教育は時間のかかる仕事。短兵急にはコトは進まないし、成果が出てくるまでには相当な時間がかかる。
「ええ、教育って、先述のゆとりの影響も10年先、30年先に出ます。ですから、今の改革も10年かかる。学習指導要領が10年単位なんですね。教育振興基本計画は5年単位なんで、教育の変革には時間がかかる。今の非正規の問題にしても、ゆとり世代とか、就職困難期の就職氷河期世代のように今になって影響が出ています」
教育は社会のあり方、引いては『国のカタチ』づくりに直結する。
こうした歴史的経過を踏まえて、渡邉氏はソサエティ5.0フォーSDGsの教育改革、産業構造変革について、「これからの時代を考えれば未来志向型で、産学が一緒になってやっていくという構図だと思うんです」と語る。
経団連は、中西宏明・前会長時代に『産学協議会』を設置。中西氏(故人)は日立製作所の再生を成し遂げた後、経団連会長に就任(2018)。ソサエティ5.0を生き抜く人材教育に熱心だった中西氏。同氏は、産業界が求める人材像を大学側に伝え、また国公私立の大学側は雇用面で産業界に何を要望するのかを率直に意見交換しようということで、『産学協議会』を設置した。
中西氏は残念ながら2021年病魔に倒れ、その遺志は現在の十倉雅和会長に受け継がれている。十倉氏は『産学協議会』の共同座長を大学側の代表と共に務め、協議を重ねている。
気になる若者の〝士気低下〟
なぜ、GAFAのような存在が日本には生まれないのか? こうした思いや問題意識を抱える経済人や大学関係者は少なくない。
米グーグルやアップル、フェイスブック(現メタ)、アマゾンなどのように、IoTやAIを駆使し、新しい産業を興すスタートアップ。社会の活性化を促すスタートアップをどう生み出し、また支援していくかはまさに国家的課題。
本来、国富を生み出す産業界と、その産業界に人材を送り出す大学側は相協力して人材を創り出す間柄のはずだが、これまでウマく噛み合っていなかったのは事実。
有力な新進企業が数多く誕生する米国では博士号取得者が企業にもどしどし入るし、自ら業を興していく。日本の企業はなかなか博士号取得者を入れてこなかったし、むしろ敬遠ぎみの面もある。学部卒を入れて、自社内で鍛え、育て上げるという即戦力育成のやり方であった。
これは、人材育成という意味で、産業、大学の双方に責任がある。共通の目標に向かって、産業と大学の双方が手を携えることが大事ということである。
もう1つ、最近の学生の〝士気低下〟ということにどう対応していくかという課題。
現に、日本人学生の間で海外留学への熱意が激減していることに危機感を抱く向きは多い。
ピークには年間12万人の若者が海外留学へ向かったが、今はコロナ禍が加わったとはいえ、約1500人台と激減している。また、アジアなど海外から日本への留学を志望する人たちが減少しているのも気懸りだ。
昨今の就職状況を聞いていて、某大手商社に内定が決まった学生の母親がその商社幹部を訪ねて、「うちの息子を海外に出さないでください」という〝要望〟を出したという話もあった。
ウクライナ危機や各地の紛争もあり、海外勤務は危険という思い込みでそうした話が出てくるのかもしれないが、〝リスクを余りにも取らない日本〟になってはいないかという反省課題。
コロナ禍、ウクライナ危機で得た教訓、そして日本の課題
産業界、教育界双方が抱く危機感は政府の『教育未来創造会議』(議長・岸田文雄現首相)が2022年5月と9月に出した提言にも現れている。
GDPで見た国力でいえば、2020年時点で世界のGDPに占める各国の比率は米国が23.6%、中国は17.9%であるのに対し、日本は5.4%。2060年には中国が26.1%、米国15.4%と中国が米国を抜き去り、日本は2.7%にまで低下すると予測される。
就業者1人当たりの労働生産性は7万8655ドル(当時の為替レートで約809万円)で米国の58%の水準。OECD加盟国38カ国の中では28位で、先進国の間で最下位クラス。
社会課題の解決へ向かって、国や社会の現状を変えていこうという覇気、使命感を持つ者が日本は相対的に少ない─との指摘もある。
こうした現状を変え、1人ひとりが生き甲斐と使命感を持つようにしていくためのリカレント(学び直し)である。
教育未来創造会議は、具体的にデジタル人材の不足も挙げる。日本のデジタル競争力は29位(国際経営開発研究所調べ。ちなみに1位はデンマークで韓国は8位、英国16位、中国17位、ドイツ19位の順)。
そこで同会議は、〝デジタル推進人材〟(データサイエンティストなど)を2024年度までに年間45万人を育成する体制を整えるとしている。
「産業界も教育界も、自分たちの目の前にそういう現実があるのだということに気づきましょうと。気がついたとすれば、イノベーションをこれからやって構造を変えていかなくてはならない。そうすると、高度人材が不足しているから、高度人材をつくらなくてはいけない。イノベーションを進めるには、スタートアップの大学のいろいろなシーズをどんどん社会実装していかなくてはならない。そのためには産・学・官連携が必要だと。それで産学協議会の重要性も高まった」
渡邉氏は、「産・学・官がベクトルで一致したというのは、歴史始まって以来ではないかと思います」と感慨深げに語る。
リカレント教育で、産業界の果たすべき役割とは何か?
「新しい産業構造に円滑な労働移動もできる。かつてのようなリストラではなくて、構造変化をしながら、そこに新しい人、スキルアップした人を移動させていくという考え方です」
産業界では、雇用制度も従来の終身雇用、年功序列的なメンバーシップ型から脱し、職務内容や本人の能力に応じて賃金を決めるジョブ型の要素を取り入れるなどの流れも強まる。
また、副業・兼業を認めるとか、リモートワークなど多様な働き方が登場。「こうした試みや条件整理が整ってリカレント教育が大きな流れになっていく」という渡邉氏の考え。
改めてリカレントの〝定義〟をすると、「リカレントは広い概念で、リスキリングはその中の部分的な概念として出ているという整理のほうが分かりやすいと思います。政府がリカレント教育と出したのは、リスキリングを包括する概念だと理解すればいいと思います」と渡邉氏。
大学側にとっても、構造変化の波が押し寄せる影響は大きい。少子化の流れの中で、18歳人口は今後10年間で112万人(2022年)から102万人(2032年)と9%減る。
高卒の18歳人口だけを入学の対象にしていれば縮小均衡は避けられない。これに対し、社会人を教育したり、留学生をもっと受け入れる方策を取ることは、「大学経営の視点から考えても、これはリカレントに結びつく社会人教育になる」と渡邉氏。
リカレントという学び直しの概念は大学経営にとっても必要だということである。
新しい『国のカタチ』を
日本の近代化は明治維新(1868)から始まった。西欧に追い付き、追い越せと『殖産興業』、『富国強兵』の旗印の下、日本は踏ん張ってきた。しかし、太平洋戦争で敗戦(1945)。維新から77年経ったときの敗戦である。
米国をはじめとする戦勝国は日本を占領し、GHQ(連合国軍総司令部)を置き、憲法制定、教育、産業政策の根幹を次々と決めていった。
GHQが置かれた場所は、第一生命ホールディングスのある東京都千代田区有楽町である。渡邉氏が中教審会長を務め、今また新たに日本の教育の骨格づくりに参加していることは何か歴史の因縁めいたものを感じる。戦後日本がサンフランシスコ講和会議で独立を果たし、主権を回復するのは1952年(昭和27年)のこと。
明治維新時はまだ〝半人前〟の国ながら、主権国家として憲法を制定し、教育の基本骨格をつくった。敗戦で民主国家の形態を取ったものの、GHQの意向の下で─という色彩は残る。
「民主的ないい教育をするという理想像と、日本の国力をどう弱くするかという弱体論が重なっている時期」(某経済人)という指摘もある。
肝腎の米国はどうか?
米国自身は産学連携を強力に進める国柄。そこへ、ドイツをはじめ欧州系や世界各地から優秀な留学生が押し寄せ、イノベーション国家となっていった。また、それだけ人を惹きつける国柄ということでもある。
そうした流れを踏まえて、「日本はタテ型社会になり、義務教育のところでは広い教育がされていますが、高校になると文理がだんだん分かれていく。そのまま大学に行くと、文理で完全に分かれた形で、ずっとタテ型になっていく」と渡邉氏。
この構図だと、人材も自らの領域を規定し、それだけで生きようとする〝I型人材〟になる。企業はもっと多様な能力を持ち、柔軟に新たな課題に対応できる〝T型〟や〝π型〟の人材を求めるのだが、産業と教育も噛み合ってこなかった。
「従来の考え方にいったん区切りをつける。十倉・経団連会長がいま進めている新成長戦略(『。新成長戦略』)という言葉の前にピリオドが打たれています。従来の生き方に区切りを付けて、新しい構造をつくりましょうという意味合いを込めているんですね」と渡邉氏。
サステナブル資本主義を打ち出す経済人と大学関係者との連携を軸に、産・学・官連携を実りあるものにしていけるかどうか、2023年はその真価が問われる年になりそうだ。