「覚悟を決めてお受けします」─旭化成相談役の伊藤一郎氏は2010年の会長就任時、こう言って受諾した。なぜなら、自身が大病の手術を受けた直後だったからだ。最初は断ったが、「それでも受けて欲しい」と粘る、当時会長の山口信夫氏。その山口氏には後事を託せる体制づくりをしたいという思いがあった。会社組織を持続させるためには、どう行動すべきか。経営者の進退を決めるものとは─。
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2度の大病を経て会長就任の打診が…
─ 今回は、経営者の覚悟と引き際という観点で伊藤さんにお話をお聞きできればと思います。まず伊藤さんは専務時代の2004年に大病で手術を受けるという経験をしましたね。
伊藤 そうです。この時も大手術だったのですが、副社長時代の09年にも再び手術をすることになってしまいました。病院の先生には、次に発症(再再発)した場合の5年後の生存率が5%と言われるほどだったのです。
─ 最初の手術の時はどういう心境でしたか。
伊藤 私は常務時代から副社長まで、経営企画、経理・財務担当の役員でした。2004年当時、アテネオリンピックに弊社から3人の選手が出場することになっており、会社から誰かが応援に行かなければいけないという話になりました。
当時会長の山口(信夫氏)に「誰かが行って元気づけてやらなければ行けませんよね」という話をしたら、「では君が行ってくれ」ということになったんです。ただ、すでにその時には私は自分の病気がわかっており、主治医からは手術が必要だと言われていたんです。
─ それでもオリンピックには行ったんですか。
伊藤 行きました。主治医にも確認をした上でオリンピックに行き、帰国した9月に手術をしようということになりました。
─ 山口さんは伊藤さんの病気を知っていたんですか。
伊藤 知っていました。当時の主要な役員には伝えていたんです。山口さんからは手術前に「君は必要な人材だから、生きて戻ってきてくれ」と言ってもらいましたね。
手術後、1カ月ほど入院して復帰したのですが、術後は順調に思えました。ゴルフも再開できましたしね。
それが09年に2度目の大きな手術をすることになり、先程お伝えしたように、次に発症したら5年後の生存率が5%と言われました。ただ、その時には5年は仮にクリアしても、せいぜい生きられるのは70歳くらいまでかなという思いがありました。ただ、幸いにも、その後は病気と縁が切れて、今もこうして生きています(笑)。
─ そうした大病の後、伊藤さんは会長に就任することになりますね。この経緯は?
伊藤 09年9月に手術をして、10月には仕事に戻りました。体調も問題なく、山口以下、みんな喜んでくれたわけですが、11月末に山口から呼び出されたんです。そこで言われたのが「来年から会長をやって欲しい」ということでした。
正直言って驚きました。そこで山口に「山口さんは本気で言っているんですか?」と聞いたところ「こんな大事な話、本気に決まっている」というので「山口さんが本気なら、私も本気でお断りします」と答えました。
─ なぜ、断ろうと思ったんですか。
伊藤 私は、その3カ月ほど前に手術をしているわけです。しかも、次に発症したら5年生存率は5%だと言われていますから、そういう人間が会長になるのは会社にとってリスクが大きいのではないかと考えたからです。
最悪の事態に備えた人事のあり方
─ 山口さんはどう応じたんですか。
伊藤 明確な返事をしませんでしたね。ただ、私は断ったつもりでいたのですが、1週間ほどしたら、また呼び出しがあって、「先日の話、ぜひ受けて欲しい」と言うんです。
私は「そこまで買っていただけるのはありがたいですが、リスクがありますよ」と言いました。すると山口は「個人情報だから君の了解を得なければいけないが、君の主治医に会わせて欲しい」と言いました。
私は「どうぞお会い下さい。おそらく私と同じことを言うと思いますよ」と答えましたが、山口は本当に会いに行ったんです。主治医の先生からは「山口さんから連絡が来たけど、伊藤さんの病気のことでしょう?」と言われたので「全て事実を話して下さい」と伝えました。
─ 山口さんと主治医の先生はどんな話をしたんですか。
伊藤 山口は私の主治医に「少なくとも1年はもつんでしょうか?」と聞いたそうです。つまり、新会長を選任して1年以内に亡くなっては困るけれども、2、3年ならば許容されると思ったのではないでしょうか。
その後、山口から「君は半年や1年ではおそらく亡くならないと先生が言っている。会長をやって欲しい。君が受けてくれないと、全体の人事が固まらない」と言われたんです。
私は「そこまで言われるならば覚悟してお受けします。ただ、山口さんが期待されているように2、3年もつかはわかりません」と言って、会長をお引き受けしました。
この時に私が副社長から会長に、社長には、やはり副社長から藤原健嗣さんが就任し、山口は名誉会長に就いたのです。10年4月のことです。
─ この時、山口さんは名誉会長ながら代表権があるということで話題になりましたね。
伊藤 ええ。この時の記者会見には藤原と私が出席して、山口は出なかったのですが、記者の方々からは、山口の役割について、いろいろと聞かれましたね(笑)。
─ 山口さんはなぜ、伊藤さんの会長就任に強くこだわったんでしょうか。
伊藤 後から思えば、山口も体調に不安があったのではないでしょうか。実際、10年4月に名誉会長に就き、9月には亡くなりました。
10年8月に、山口から「今年の夏休みは少し長めに取らせてもらうよ」と言われたので「ぜひ、ゆっくり休んで下さい。いい機会ですから、体調の検査もしてもらったらどうですか」と言って送り出したのですが、1カ月しても戻って来ない。
そうしたら9月中旬のある日、夜の11時頃に帰宅して、お風呂から出たら自宅に当時の秘書室長から電話がかかってきて、「伊藤さん、山口さんが危篤です」と言うんです。慌てて着替えて病院に向かいましたが、すでに意識不明の状態で、日付をまたいだ夜中の1時半くらいに亡くなりました。
山口は自分自身がそういう状況だったので、いざという時のための体制を整えておかないといけないと考えていたのだと思います。最悪、自分がいなくなった時のことを考えた人事をやったということだと思います。
「言うべきことを言う」と心に決めて…
─ 率直に伺いますが、伊藤さんは山口さんに直接意見具申をした方ですか。
伊藤 そうだったと思います。例えば役員の定年制の問題など、なかなかみんなが山口に言えないようなことを言いに行っていましたからね。ですから取締役に就任したときから、私は常に日付の入っていない辞表を用意しておりました。
─ 山口さんは会長在任19年と長期にわたりましたが、かつては宮崎輝さんが約30年にわたってトップに就いていた時代がありましたね。
伊藤 旭化成は1922年に創業して100年が経ちましたが、そのうち31年間は宮崎が社長、会長を務め、19年間は山口が会長という形でしたから、2人で50年です。今の旭化成の役員で、山口と話をした人間はまだいますが、宮崎と直接話をした人間は私以外には残っていません。
─ 宮崎さんも山口さんも旭化成を飛躍させた経営者ですが、伊藤さんの目から見て共通点はありますか。
伊藤 私が言うのは僭越ですが、2人とも頭がいいというか、頭が切れましたね。経営者としての手腕は皆さんご存知の通りです。
ただ、私は2人が80歳を過ぎてまでお付き合いしましたが、人間80歳を超えてくると、なかなか人の言うことを聞けなくなってしまうものだなということも実感しました。
また私自身、山口と大事なことを話す時に決めていたのは、言わなければいけないことは言おうということです。それでダメならばクビにしてもらえばいいと。ただ、別に日頃から揉めていたというわけではなく仲がいい方でしたが、会社の重要事項となると話は別ですからね。
─ 結果的に宮崎さんも山口さんも、代表権を持った現役役員のまま亡くなりましたね。
伊藤 ええ。思うのは、人間引き際というものがあるのだということです。どうしても、現役の代表取締役が亡くなると、会社はバタバタしますから。
宮崎も山口も、人事権を持って会社を掌握していたわけですが、自分が社長などに選んだ人間に対しては優しいところがあって、辞めた後でも10年ほど相談役や顧問として処遇していたんです。
ただ、役員定年制を導入したのに加えて、社長、会長経験者を相談役として処遇する制度についても内規年齢制限を加えるなどの改定を実施しました。
こうしたルールを決めておけば、今の社長、会長が「伊藤さんいつ辞めるんだろう?」と心配しなくていいわけです(笑)。
面と向かって話さなければ人間はわかり合えない
─ 一般論として、企業によっては経営者が長期にわたって経営に携わる企業もありますが、こうした事例をどう見ていますか。
伊藤 私は会社がうまく回り、業績が上がっているのであれば、それでいいと思うんです。ただし、やはり後継者を決めておかないと後の人達が困りますから、これは大事な点だと思います。
─ 伊藤さん自身、会長としてのご自身の役割をどう決めて動いていましたか。
伊藤 私は自分がカリスマ性のある人間だとは思いません。
ただ、幸いにして、私が役員に就任した頃売上高1兆2000億円だった会社は、2兆円を超えるまでに成長できました。
会長としては、執行の細かいところには口は出しませんでしたが、ある程度中身を見るようにしていました。また、取締役会議長は務めていましたが、予算のヒアリングなどは出席しておらず、執行は社長に任せていました。
─ 役員や部長に意見を言わせるなど、環境づくりには気を配っていたと。
伊藤 はい。私はみんなにものを言ってもらうようにしたつもりです。ですから、私を怖がっていた人間はあまりいないと思いますよ。
ある役員経験者が退任した後、記者に聞かれて、「『北風と太陽』という寓話がありますが、それで言えば伊藤は太陽ですね」と言ってくれたと聞きました。そう受け止めてくれたのはありがたかったですね。
─ 改めて「経営は人なり」と言いますが、人の有り様、人格も含めて問われますね。
伊藤 ええ。それと「人生」でしょうね。先程お話した、私が会長になった時の経緯もそうですが、人と人との出会いの重要性を感じます。私が山口と出会っていなければ、会長にも何もなっていなかったかもしれませんから。
それと、面と向かって話をしなければ、人間はわかり合えないということも、仕事を通じて痛感しています。
例えば、私は山口と仲がいい方だと申し上げましたが、怖いとは思っていませんでした。しかし社内には山口のことを怖いと思っている人が結構いたんです。
それではいけないということで、新しく役員になった人間には、できるだけ山口のところに行く用事をつくって話をさせるようにしていました。実際に話をすると、想像していたのとは違うことが多いですからね。
─ 会社のために正しいことを言う、新しい事業を発想していくために意見を言える環境を整えるというのは非常に大事なことですね。
伊藤 大事ですね。私は会社で新しいものを生み出す、クリエイトする「創造力」と、物事を想像する、イマジネーションする「想像力」という2つの力が大事だと言ってきました。
「想像力」があれば、それをベースにして「創造力」を発揮して新しい商品を開発したり、新たなビジネスモデルを構築することもできると思います。その力を育てるためにも、自由に意見が言える環境が非常に大事だと思っています。
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2度の大病を経て会長就任の打診が…
─ 今回は、経営者の覚悟と引き際という観点で伊藤さんにお話をお聞きできればと思います。まず伊藤さんは専務時代の2004年に大病で手術を受けるという経験をしましたね。
伊藤 そうです。この時も大手術だったのですが、副社長時代の09年にも再び手術をすることになってしまいました。病院の先生には、次に発症(再再発)した場合の5年後の生存率が5%と言われるほどだったのです。
─ 最初の手術の時はどういう心境でしたか。
伊藤 私は常務時代から副社長まで、経営企画、経理・財務担当の役員でした。2004年当時、アテネオリンピックに弊社から3人の選手が出場することになっており、会社から誰かが応援に行かなければいけないという話になりました。
当時会長の山口(信夫氏)に「誰かが行って元気づけてやらなければ行けませんよね」という話をしたら、「では君が行ってくれ」ということになったんです。ただ、すでにその時には私は自分の病気がわかっており、主治医からは手術が必要だと言われていたんです。
─ それでもオリンピックには行ったんですか。
伊藤 行きました。主治医にも確認をした上でオリンピックに行き、帰国した9月に手術をしようということになりました。
─ 山口さんは伊藤さんの病気を知っていたんですか。
伊藤 知っていました。当時の主要な役員には伝えていたんです。山口さんからは手術前に「君は必要な人材だから、生きて戻ってきてくれ」と言ってもらいましたね。
手術後、1カ月ほど入院して復帰したのですが、術後は順調に思えました。ゴルフも再開できましたしね。
それが09年に2度目の大きな手術をすることになり、先程お伝えしたように、次に発症したら5年後の生存率が5%と言われました。ただ、その時には5年は仮にクリアしても、せいぜい生きられるのは70歳くらいまでかなという思いがありました。ただ、幸いにも、その後は病気と縁が切れて、今もこうして生きています(笑)。
─ そうした大病の後、伊藤さんは会長に就任することになりますね。この経緯は?
伊藤 09年9月に手術をして、10月には仕事に戻りました。体調も問題なく、山口以下、みんな喜んでくれたわけですが、11月末に山口から呼び出されたんです。そこで言われたのが「来年から会長をやって欲しい」ということでした。
正直言って驚きました。そこで山口に「山口さんは本気で言っているんですか?」と聞いたところ「こんな大事な話、本気に決まっている」というので「山口さんが本気なら、私も本気でお断りします」と答えました。
─ なぜ、断ろうと思ったんですか。
伊藤 私は、その3カ月ほど前に手術をしているわけです。しかも、次に発症したら5年生存率は5%だと言われていますから、そういう人間が会長になるのは会社にとってリスクが大きいのではないかと考えたからです。
最悪の事態に備えた人事のあり方
─ 山口さんはどう応じたんですか。
伊藤 明確な返事をしませんでしたね。ただ、私は断ったつもりでいたのですが、1週間ほどしたら、また呼び出しがあって、「先日の話、ぜひ受けて欲しい」と言うんです。
私は「そこまで買っていただけるのはありがたいですが、リスクがありますよ」と言いました。すると山口は「個人情報だから君の了解を得なければいけないが、君の主治医に会わせて欲しい」と言いました。
私は「どうぞお会い下さい。おそらく私と同じことを言うと思いますよ」と答えましたが、山口は本当に会いに行ったんです。主治医の先生からは「山口さんから連絡が来たけど、伊藤さんの病気のことでしょう?」と言われたので「全て事実を話して下さい」と伝えました。
─ 山口さんと主治医の先生はどんな話をしたんですか。
伊藤 山口は私の主治医に「少なくとも1年はもつんでしょうか?」と聞いたそうです。つまり、新会長を選任して1年以内に亡くなっては困るけれども、2、3年ならば許容されると思ったのではないでしょうか。
その後、山口から「君は半年や1年ではおそらく亡くならないと先生が言っている。会長をやって欲しい。君が受けてくれないと、全体の人事が固まらない」と言われたんです。
私は「そこまで言われるならば覚悟してお受けします。ただ、山口さんが期待されているように2、3年もつかはわかりません」と言って、会長をお引き受けしました。
この時に私が副社長から会長に、社長には、やはり副社長から藤原健嗣さんが就任し、山口は名誉会長に就いたのです。10年4月のことです。
─ この時、山口さんは名誉会長ながら代表権があるということで話題になりましたね。
伊藤 ええ。この時の記者会見には藤原と私が出席して、山口は出なかったのですが、記者の方々からは、山口の役割について、いろいろと聞かれましたね(笑)。
─ 山口さんはなぜ、伊藤さんの会長就任に強くこだわったんでしょうか。
伊藤 後から思えば、山口も体調に不安があったのではないでしょうか。実際、10年4月に名誉会長に就き、9月には亡くなりました。
10年8月に、山口から「今年の夏休みは少し長めに取らせてもらうよ」と言われたので「ぜひ、ゆっくり休んで下さい。いい機会ですから、体調の検査もしてもらったらどうですか」と言って送り出したのですが、1カ月しても戻って来ない。
そうしたら9月中旬のある日、夜の11時頃に帰宅して、お風呂から出たら自宅に当時の秘書室長から電話がかかってきて、「伊藤さん、山口さんが危篤です」と言うんです。慌てて着替えて病院に向かいましたが、すでに意識不明の状態で、日付をまたいだ夜中の1時半くらいに亡くなりました。
山口は自分自身がそういう状況だったので、いざという時のための体制を整えておかないといけないと考えていたのだと思います。最悪、自分がいなくなった時のことを考えた人事をやったということだと思います。
「言うべきことを言う」と心に決めて…
─ 率直に伺いますが、伊藤さんは山口さんに直接意見具申をした方ですか。
伊藤 そうだったと思います。例えば役員の定年制の問題など、なかなかみんなが山口に言えないようなことを言いに行っていましたからね。ですから取締役に就任したときから、私は常に日付の入っていない辞表を用意しておりました。
─ 山口さんは会長在任19年と長期にわたりましたが、かつては宮崎輝さんが約30年にわたってトップに就いていた時代がありましたね。
伊藤 旭化成は1922年に創業して100年が経ちましたが、そのうち31年間は宮崎が社長、会長を務め、19年間は山口が会長という形でしたから、2人で50年です。今の旭化成の役員で、山口と話をした人間はまだいますが、宮崎と直接話をした人間は私以外には残っていません。
─ 宮崎さんも山口さんも旭化成を飛躍させた経営者ですが、伊藤さんの目から見て共通点はありますか。
伊藤 私が言うのは僭越ですが、2人とも頭がいいというか、頭が切れましたね。経営者としての手腕は皆さんご存知の通りです。
ただ、私は2人が80歳を過ぎてまでお付き合いしましたが、人間80歳を超えてくると、なかなか人の言うことを聞けなくなってしまうものだなということも実感しました。
また私自身、山口と大事なことを話す時に決めていたのは、言わなければいけないことは言おうということです。それでダメならばクビにしてもらえばいいと。ただ、別に日頃から揉めていたというわけではなく仲がいい方でしたが、会社の重要事項となると話は別ですからね。
─ 結果的に宮崎さんも山口さんも、代表権を持った現役役員のまま亡くなりましたね。
伊藤 ええ。思うのは、人間引き際というものがあるのだということです。どうしても、現役の代表取締役が亡くなると、会社はバタバタしますから。
宮崎も山口も、人事権を持って会社を掌握していたわけですが、自分が社長などに選んだ人間に対しては優しいところがあって、辞めた後でも10年ほど相談役や顧問として処遇していたんです。
ただ、役員定年制を導入したのに加えて、社長、会長経験者を相談役として処遇する制度についても内規年齢制限を加えるなどの改定を実施しました。
こうしたルールを決めておけば、今の社長、会長が「伊藤さんいつ辞めるんだろう?」と心配しなくていいわけです(笑)。
面と向かって話さなければ人間はわかり合えない
─ 一般論として、企業によっては経営者が長期にわたって経営に携わる企業もありますが、こうした事例をどう見ていますか。
伊藤 私は会社がうまく回り、業績が上がっているのであれば、それでいいと思うんです。ただし、やはり後継者を決めておかないと後の人達が困りますから、これは大事な点だと思います。
─ 伊藤さん自身、会長としてのご自身の役割をどう決めて動いていましたか。
伊藤 私は自分がカリスマ性のある人間だとは思いません。
ただ、幸いにして、私が役員に就任した頃売上高1兆2000億円だった会社は、2兆円を超えるまでに成長できました。
会長としては、執行の細かいところには口は出しませんでしたが、ある程度中身を見るようにしていました。また、取締役会議長は務めていましたが、予算のヒアリングなどは出席しておらず、執行は社長に任せていました。
─ 役員や部長に意見を言わせるなど、環境づくりには気を配っていたと。
伊藤 はい。私はみんなにものを言ってもらうようにしたつもりです。ですから、私を怖がっていた人間はあまりいないと思いますよ。
ある役員経験者が退任した後、記者に聞かれて、「『北風と太陽』という寓話がありますが、それで言えば伊藤は太陽ですね」と言ってくれたと聞きました。そう受け止めてくれたのはありがたかったですね。
─ 改めて「経営は人なり」と言いますが、人の有り様、人格も含めて問われますね。
伊藤 ええ。それと「人生」でしょうね。先程お話した、私が会長になった時の経緯もそうですが、人と人との出会いの重要性を感じます。私が山口と出会っていなければ、会長にも何もなっていなかったかもしれませんから。
それと、面と向かって話をしなければ、人間はわかり合えないということも、仕事を通じて痛感しています。
例えば、私は山口と仲がいい方だと申し上げましたが、怖いとは思っていませんでした。しかし社内には山口のことを怖いと思っている人が結構いたんです。
それではいけないということで、新しく役員になった人間には、できるだけ山口のところに行く用事をつくって話をさせるようにしていました。実際に話をすると、想像していたのとは違うことが多いですからね。
─ 会社のために正しいことを言う、新しい事業を発想していくために意見を言える環境を整えるというのは非常に大事なことですね。
伊藤 大事ですね。私は会社で新しいものを生み出す、クリエイトする「創造力」と、物事を想像する、イマジネーションする「想像力」という2つの力が大事だと言ってきました。
「想像力」があれば、それをベースにして「創造力」を発揮して新しい商品を開発したり、新たなビジネスモデルを構築することもできると思います。その力を育てるためにも、自由に意見が言える環境が非常に大事だと思っています。