環境激変・困難期に次の成長の種を仕込む─。「これが当社の創業以来のやり方」と日本電産の創業者 会長・永守重信氏。起業は28歳の時で、第1次石油危機が起こった1973年(昭和48年)。産業活動や社会インフラの動力源となるモーター製造を自らの仕事と決め、”困難期”に積極的な投資を展開。石油危機、バブル崩壊、進出先・タイ国の大洪水といった”困難期”の直後に増益・最高益をあげるという永守氏の経営手法。「僕はいつも足下悲観、将来楽観と言っています」という経営観。一代で世界45カ国の事業拠点、総従業員数約13万人のグループを構築。創業50周年を迎えた今、永守氏は何を思い、どう行動しようとしているのか。2030年には今の売上高の約5倍の「10兆円を目指す」として、新たな企業集団づくりに注力。今年4月には社名を、世界的に浸透しているブランドの『ニデック(NIDEC)』に変更。後継者像を含めて、永守氏が考える『世界のNIDEC像』とは─。
石油危機、タイの大洪水と困難期に勝負
「世界一の会社にする」─。
日本電産の創業者であり、会長CEO(最高経営責任者)の永守重信氏は走りに走り続けてきた。
1944年(昭和19年)8月28日生まれの78歳。
創業したのは1973年(昭和48年)7月で、28歳の時。第1次石油危機が起こり、石油の価格が高騰。世界経済が大混乱に陥り、不況に見舞われた。
そうした時の永守氏の起業である。取り組む仕事はモーターづくり。モーター領域では日立製作所、東芝といった大企業がすでに存在し、日本電産は最後発であった。そこで永守氏が狙ったのが精密モーター。
人がやらないことを手がけ、しかも社会に必要なものは何かと考えての精密モーター領域への参入。しかも、「超精密モーターで磨きをかける」という狙い。
今は大型モーターの領域も手がけ、自動車の電動(EV)化に向け、動力装置『イーアクスル(E-Axle)』への一大投資に注力。起業時の精密モーターからこの50年間で事業を進化させてきたということ。
目標は高く、将来に向かって進む─。これは創業以来、「少しも変わっていません」と永守氏は今も強調。
「僕はいつも足下悲観、将来楽観と言っています。僕の経営観でね。ということは、いいこともたくさんあるけど、悪いこともあるということですからね」
永守氏は、経営者にとって大事なことは、「将来が明るい」ということを示すことだとする。
「今がよくても、将来は暗いというのが一番よくない。うちの会社は、ずっと過去をたどっていきますと、困難の時に強い変化をするんですよ」
先述のように、創業は第1次石油危機。1978年、1979年には第2次石油危機が起こり、エネルギー多消費型の産業や事業は大打撃を受けた。危機は人々の意識を変え、新しい産業構造へと覚醒を促す。
第1次・第2次石油危機の後もそうだし、1990年代初めのバブル経済崩壊、そして2011年の東日本大震災、タイ国での大洪水による生産障害と危機や試練は続いた。
危機は常に起きる。売上の中で海外が占める比率は今や9割近くになる。グローバル化が進めば進むほど、事業のリスクは高まる。そうした危機や試練にどう立ち向かってきたのか。
「一カ所に集中することは避けると。いくらその国がよくても、どんなに人件費が安くても、一カ所に集中することは絶対しない。何が起きるか分かりませんもの。タイみたいな、日本ともすごく親しい国で、人件費が安いところですが、大水害(2011年)で工場がほとんど沈みました。あの時は、そこに一極集中しないで、フィリピンと中国に工場を持っていたから、対応できたんです」
常にリスクを勘案しながら、前へ、前へと進んでいく。「これは創業以来、全然変わらない。土の下の根っこは、何も変わっていません」と永守氏は語る。
危機や試練に遭遇しても、マーケットに向かって戦い、挑戦し続ける。こうやって、永守氏は同社を世界45カ国の事業拠点、約13万人の従業員を抱える会社に育てた。売上高も2兆円を超えた。
創業以来の50年を、永守氏が振り返って言う。
「この50年間は必死に働いて、他の会社に比べて2倍速で成長してきたわけです。だって、他は売上高2兆円と言ったら、百年近くかかっていますからね」
京都の企業は独創的で、グローバル市場で存在感を示す企業も少なくない。同じ電子部門の領域で京都の企業というと、京セラや村田製作所などがある。売上高で、日本電産は先輩格の京セラや村田製作所を抜くまでになった。
「次は売上の規模ではなくて、もっと強い会社にしなければいけないと。強い会社というのは、賃金も高く払う。かつ有能な人材を集める。要は、高い給料を払ってもビクともしない。そういう会社にするのが次の50年ですね」
《3P人材って何?》日本電産会長CEO・永守重信の「これからは”3P人材”が求められる」
今年4月、社名を『ニデック』に変更
創業50周年を機に、同社は今年4月、社名を変更。新しい社名は『ニデック(NIDEC)』。
「日本だけが日本電産で、ブランドはもう皆『ニデック』になっている。海外は全部NIDECで、仕事も圧倒的に海外が多いです。本体もニデックにする。グループ会社も、今までサンキョーとかコパルとかいっぱいありましたが、そういう会社も過去のブランドは消して、その会社が何をやっているか分かるような名前にする。日本電産サンキョーは『ニデックインスツルメンツ』に変更しますよ」
同社売上高の9割近くが海外での売上だ。
「ソニーも、昔は東京通信工業といった。当社も創業から半世紀経ったので、社名を変えるということですね」と永守氏。
創業期は、日本電気(NEC)と松下電産(現パナソニック)の両社を足したような会社になりたいと思って、『日本電産』という社名にした。それから半世紀が経ち、時代も変わり、新しくスタートを切るという思いでの社名変更である。
永守氏はこの10年間、自らの後継問題について、試行錯誤してきた。
昨年9月、当時の社長・関潤氏(日産自動車出身)が〝車載部門の不振〟、引いてはそれが影響して、予想通りの収益が得られなかったとして、社長を退任するという一幕があった。
外部から、次期社長を選ぼうとして、10年前の2013年、カルソニックカンセイ元社長の呉文精氏をスカウトしたが、呉氏は15年9月に退社。15年3月に入社した吉本浩之氏(米ゼネラル・エレクトリック出身)が18年6月に社長に就任したが、吉本氏も21年5月に退社。関氏は20年1月に招かれ、同年4月社長COO(最高執行責任者)に就任。21年6月にはCEO(最高経営責任者)に昇格したが、翌22年4月、関氏はCEOから外れ、間もなく退任。
何とも慌ただしい外部からの招聘劇だったが、永守氏はこの10年間を次のように総括。
「世の中は、自分が期待しているような経営者はいないなと。さらに見てみたら、社内に人材がちゃんと育っておると。僕もこの10年間を棒に振ったような気がします」。
次の新しい成長を掴むために、自分の後は外部人材をスカウトしてつなぎ、その後をプロパーの後継者にバトンタッチしてもらうという図式を永守氏は描いていた。
この10年間、「人探しで歩いているうちに、何のことはない、内から良い人材が育っていた」という永守氏の心境。これはと思う人物を社内から5人選び、今年4月、副社長に据える。そして、1年後の24年4月、この5人の中から次の社長を選ぶという段取りである。
創業から50年、同社は永守氏の人間力、もっと言えば強烈な個性と指導力で成長、発展してきている。一部に〝ワンマン経営者〟と取られがちだが、先述のように、今や同社は、世界45カ国の事業拠点を構え、従業員数は約13万人の規模に膨れ上がっている。
永守氏自身、「これだけの規模の会社をワンマンではやれません」と語る。
ただ、類まれな指導力、個性でぐいぐいと同社を引っ張ってきた永守氏と違って、次は〝集団指導〟の色彩が濃くなりそうだ。その点は、永守氏も認める。
しかし、集団指導では経営のカジ取りの方向が定まらなくなる可能性もあり得る。そこは次の社長になるトップの指導力、胆力、つまりリーダーシップが求められるということ。
ファーストリテイリング・柳井正の「経営はやはり『人』、人への投資を!」
「お客さんを安心させる哲学」で次の成長を!
来年4月には、新しい社長が誕生し、自らは「おそらく将来はファウンダー(創業者)とか、名誉会長といった名称の後見人のポジションになると思います」と永守氏は語る。CEOやCOOといった権限からは離れることになるが、「株主としての立場から言わせてもらう」ということである。
そして、永守氏は、「2030年度に売上10兆円」という目標を掲げる。あと8年で売上を今の5倍に引き上げるというアグレッシブな目標。
同社の成長は、事業のターゲット(目標)をモーターとその周辺分野に絞った戦略が功を奏したのだということ。
「例えば、ロボットはつくらないけれども、ロボットの重要な部品は全部やっていると。工作機械はやってますが、基本はモーターが中心です。車はつくらへんけど、車(の駆動)に使う重要なモーターをやる」
この永守氏の言葉に、同社の成功の秘訣がある。つまり、「わたしは、お客さん(販売先)と競合するものはやらない」という基本方針を創業以来、徹底してやってきているということ。
車の電動化を進める上で、その中核になる駆動装置『イーアクスル』は今、同社が最も注力する投資分野である。
「ええ、電気自動車の部品に出ていってます。これは全く新しい分野ですが、われわれは車はつくりません。あくまでも、電気自動車の部品をつくる。これが成長の元です。全てのお客さんがわれわれのお客さんになってもらえる。競合しませんからね。大事なのは哲学です」
お客さんを安心させる─。この基本哲学は今後も維持していきたいとする永守氏である。
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「世界一の会社にする」─。
日本電産の創業者であり、会長CEO(最高経営責任者)の永守重信氏は走りに走り続けてきた。
1944年(昭和19年)8月28日生まれの78歳。
創業したのは1973年(昭和48年)7月で、28歳の時。第1次石油危機が起こり、石油の価格が高騰。世界経済が大混乱に陥り、不況に見舞われた。
そうした時の永守氏の起業である。取り組む仕事はモーターづくり。モーター領域では日立製作所、東芝といった大企業がすでに存在し、日本電産は最後発であった。そこで永守氏が狙ったのが精密モーター。
人がやらないことを手がけ、しかも社会に必要なものは何かと考えての精密モーター領域への参入。しかも、「超精密モーターで磨きをかける」という狙い。
今は大型モーターの領域も手がけ、自動車の電動(EV)化に向け、動力装置『イーアクスル(E-Axle)』への一大投資に注力。起業時の精密モーターからこの50年間で事業を進化させてきたということ。
目標は高く、将来に向かって進む─。これは創業以来、「少しも変わっていません」と永守氏は今も強調。
「僕はいつも足下悲観、将来楽観と言っています。僕の経営観でね。ということは、いいこともたくさんあるけど、悪いこともあるということですからね」
永守氏は、経営者にとって大事なことは、「将来が明るい」ということを示すことだとする。
「今がよくても、将来は暗いというのが一番よくない。うちの会社は、ずっと過去をたどっていきますと、困難の時に強い変化をするんですよ」
先述のように、創業は第1次石油危機。1978年、1979年には第2次石油危機が起こり、エネルギー多消費型の産業や事業は大打撃を受けた。危機は人々の意識を変え、新しい産業構造へと覚醒を促す。
第1次・第2次石油危機の後もそうだし、1990年代初めのバブル経済崩壊、そして2011年の東日本大震災、タイ国での大洪水による生産障害と危機や試練は続いた。
危機は常に起きる。売上の中で海外が占める比率は今や9割近くになる。グローバル化が進めば進むほど、事業のリスクは高まる。そうした危機や試練にどう立ち向かってきたのか。
「一カ所に集中することは避けると。いくらその国がよくても、どんなに人件費が安くても、一カ所に集中することは絶対しない。何が起きるか分かりませんもの。タイみたいな、日本ともすごく親しい国で、人件費が安いところですが、大水害(2011年)で工場がほとんど沈みました。あの時は、そこに一極集中しないで、フィリピンと中国に工場を持っていたから、対応できたんです」
常にリスクを勘案しながら、前へ、前へと進んでいく。「これは創業以来、全然変わらない。土の下の根っこは、何も変わっていません」と永守氏は語る。
危機や試練に遭遇しても、マーケットに向かって戦い、挑戦し続ける。こうやって、永守氏は同社を世界45カ国の事業拠点、約13万人の従業員を抱える会社に育てた。売上高も2兆円を超えた。
創業以来の50年を、永守氏が振り返って言う。
「この50年間は必死に働いて、他の会社に比べて2倍速で成長してきたわけです。だって、他は売上高2兆円と言ったら、百年近くかかっていますからね」
京都の企業は独創的で、グローバル市場で存在感を示す企業も少なくない。同じ電子部門の領域で京都の企業というと、京セラや村田製作所などがある。売上高で、日本電産は先輩格の京セラや村田製作所を抜くまでになった。
「次は売上の規模ではなくて、もっと強い会社にしなければいけないと。強い会社というのは、賃金も高く払う。かつ有能な人材を集める。要は、高い給料を払ってもビクともしない。そういう会社にするのが次の50年ですね」
《3P人材って何?》日本電産会長CEO・永守重信の「これからは”3P人材”が求められる」
今年4月、社名を『ニデック』に変更
創業50周年を機に、同社は今年4月、社名を変更。新しい社名は『ニデック(NIDEC)』。
「日本だけが日本電産で、ブランドはもう皆『ニデック』になっている。海外は全部NIDECで、仕事も圧倒的に海外が多いです。本体もニデックにする。グループ会社も、今までサンキョーとかコパルとかいっぱいありましたが、そういう会社も過去のブランドは消して、その会社が何をやっているか分かるような名前にする。日本電産サンキョーは『ニデックインスツルメンツ』に変更しますよ」
同社売上高の9割近くが海外での売上だ。
「ソニーも、昔は東京通信工業といった。当社も創業から半世紀経ったので、社名を変えるということですね」と永守氏。
創業期は、日本電気(NEC)と松下電産(現パナソニック)の両社を足したような会社になりたいと思って、『日本電産』という社名にした。それから半世紀が経ち、時代も変わり、新しくスタートを切るという思いでの社名変更である。
永守氏はこの10年間、自らの後継問題について、試行錯誤してきた。
昨年9月、当時の社長・関潤氏(日産自動車出身)が〝車載部門の不振〟、引いてはそれが影響して、予想通りの収益が得られなかったとして、社長を退任するという一幕があった。
外部から、次期社長を選ぼうとして、10年前の2013年、カルソニックカンセイ元社長の呉文精氏をスカウトしたが、呉氏は15年9月に退社。15年3月に入社した吉本浩之氏(米ゼネラル・エレクトリック出身)が18年6月に社長に就任したが、吉本氏も21年5月に退社。関氏は20年1月に招かれ、同年4月社長COO(最高執行責任者)に就任。21年6月にはCEO(最高経営責任者)に昇格したが、翌22年4月、関氏はCEOから外れ、間もなく退任。
何とも慌ただしい外部からの招聘劇だったが、永守氏はこの10年間を次のように総括。
「世の中は、自分が期待しているような経営者はいないなと。さらに見てみたら、社内に人材がちゃんと育っておると。僕もこの10年間を棒に振ったような気がします」。
次の新しい成長を掴むために、自分の後は外部人材をスカウトしてつなぎ、その後をプロパーの後継者にバトンタッチしてもらうという図式を永守氏は描いていた。
この10年間、「人探しで歩いているうちに、何のことはない、内から良い人材が育っていた」という永守氏の心境。これはと思う人物を社内から5人選び、今年4月、副社長に据える。そして、1年後の24年4月、この5人の中から次の社長を選ぶという段取りである。
創業から50年、同社は永守氏の人間力、もっと言えば強烈な個性と指導力で成長、発展してきている。一部に〝ワンマン経営者〟と取られがちだが、先述のように、今や同社は、世界45カ国の事業拠点を構え、従業員数は約13万人の規模に膨れ上がっている。
永守氏自身、「これだけの規模の会社をワンマンではやれません」と語る。
ただ、類まれな指導力、個性でぐいぐいと同社を引っ張ってきた永守氏と違って、次は〝集団指導〟の色彩が濃くなりそうだ。その点は、永守氏も認める。
しかし、集団指導では経営のカジ取りの方向が定まらなくなる可能性もあり得る。そこは次の社長になるトップの指導力、胆力、つまりリーダーシップが求められるということ。
ファーストリテイリング・柳井正の「経営はやはり『人』、人への投資を!」
「お客さんを安心させる哲学」で次の成長を!
来年4月には、新しい社長が誕生し、自らは「おそらく将来はファウンダー(創業者)とか、名誉会長といった名称の後見人のポジションになると思います」と永守氏は語る。CEOやCOOといった権限からは離れることになるが、「株主としての立場から言わせてもらう」ということである。
そして、永守氏は、「2030年度に売上10兆円」という目標を掲げる。あと8年で売上を今の5倍に引き上げるというアグレッシブな目標。
同社の成長は、事業のターゲット(目標)をモーターとその周辺分野に絞った戦略が功を奏したのだということ。
「例えば、ロボットはつくらないけれども、ロボットの重要な部品は全部やっていると。工作機械はやってますが、基本はモーターが中心です。車はつくらへんけど、車(の駆動)に使う重要なモーターをやる」
この永守氏の言葉に、同社の成功の秘訣がある。つまり、「わたしは、お客さん(販売先)と競合するものはやらない」という基本方針を創業以来、徹底してやってきているということ。
車の電動化を進める上で、その中核になる駆動装置『イーアクスル』は今、同社が最も注力する投資分野である。
「ええ、電気自動車の部品に出ていってます。これは全く新しい分野ですが、われわれは車はつくりません。あくまでも、電気自動車の部品をつくる。これが成長の元です。全てのお客さんがわれわれのお客さんになってもらえる。競合しませんからね。大事なのは哲学です」
お客さんを安心させる─。この基本哲学は今後も維持していきたいとする永守氏である。
AGC・島村琢哉会長 「ポジションによって待遇、報酬を変える『日本型ジョブ型制度』も一つの道」