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牛島総合法律事務所代表弁護士 作家・牛島信「生きることとは何かを作家・石原慎太郎氏との交友で考えさせられて」

財界オンライン 2023年4月4日 7時0分

「本当に純粋で、丁寧な方です」と作家・政治家として活躍した故・石原慎太郎氏のことを振り返るのは、自身も弁護士、作家の「二足の草鞋」を履く牛島信氏。その石原氏との交友で語られたのは生きること、死ぬこととは何か、政治家・賀屋興宣の生き様、作家・伊藤整の恋愛観、そして日本人の生き方にまで広がる。2人が語り合った日本の将来像とは─。

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石原慎太郎が『火の島』執筆時に、企業・法律面から助言

 ─ 牛島さんは弁護士であるとともに作家でもありますが、その活動の中で、2022年2月に亡くなられた石原慎太郎とも交流があったそうですね。

 牛島 そうなんです。実はこの4月には石原さんとの交流について書かせていただいた書籍が『我が師 石原慎太郎』というタイトルで発行されます(幻冬舎から近日刊行予定)。

 出会いは1998年11月9日、幻冬舎社長の見城徹さんのご紹介でした。石原さんは私にとっては文学の先生なんです。一番深くお付き合いをさせていただいた時期は、02年から08年頃で、東京都知事を務めておられた時代です。ただし、政治の話は関係ありません。

 ─ 牛島さんは若い頃から、石原さんの作品をかなり読んでいた?

 牛島 ええ。ですから、見城さんから「石原さんに会わないか?」と言われた時には「もちろんお会いしたいです」と即答したくらいです。それ以降、時々お会いするようになりました。

 02年に、これも見城さんから「石原さんが小説を執筆するけれど、企業や法律に関する内容を盛り込んで書きたいとおっしゃっている。アドバイスしてくれないか」と相談されて、「喜んでお手伝いします」ということになりました。

 この時には本の完成まで何度もお会いしましたし、電話では何十回お話したか覚えていないくらい話をしました。食事をご一緒させていただいたのも、いい思い出です。銀座の小さなお店のこともありましたが、とても強い印象として残っています。

 ─ その頃、石原さんから言われた言葉で印象に残っているものはありますか?

 牛島 お会いした最初の頃に、「あなた手練れだね」と言って下さいました。また、「出版社を紹介するから、ぜひ本を書きなさいよ」とも薦めて下さったのは嬉しかったですね。

 ─ 実際に、牛島さんが企業に関する内容をアドバイスした作品は何でしたか。

 牛島 『火の島』(幻冬舎文庫)という大作です。未読であれば、ぜひご一読をお勧めしたい作品ですね。作品を読むと、私が企業に関してアドバイスをさせていただいた部分が結構生きていることがわかりましたね。


「文章の世界にすごい人がいた」

 ─ 牛島さんは政治家であり作家であった石原さんをどのように評価されますか。

 牛島 石原さんは100年後、「文章の世界にすごい人がいた」という形で理解される方ではないかと思います。

 例えば、ドイツのゲーテは詩人、劇作家、小説家として世界の大文豪として知られていますが、ワイマール公国の閣僚、宰相を務めた経験があります。ゲーテが持つ様々な能力のうちの1つが政治で、当時はそちらの方が重要視されたかもしれませんが、今は誰も触れません。

 ですから100年後、200年後に皆さん「石原慎太郎ってすごいね」と言うけれど、「東京都知事も務めていたらしいね」という程度のことになるのではないかと。都知事は、石原さんの経歴において本質的な部分ではないと、人々は思うのではないでしょうか。

 つまり、芥川龍之介が『侏儒の言葉』で触れている明時代の王世貞の言うように、絵や書が残るのは何百年単位だけれども、文は不朽、永劫不変だということです。石原さんは歴史上において、政治家としてではなく作家として、ゲーテのような偉大な人として残るのではないかというのが私の見方です。

 ─ 石原さんはいろいろな方とお付き合いをされていましたが、親しい人というと10人くらいだったのではないかと。

 牛島 実は私は53歳の時に胆石を患って胆のうを摘出するために慶應病院に入院したことがあります。20年ほど前ですが、石原さんが見城さんと一緒にお見舞いに来て下さったんです。

 当日、私は麻酔が残っていて頭がボーっとしており、お見舞いに来て下さった石原さんに「今日はあまりお話もできないのですが……」と申し上げたら「いや、大丈夫。今は大変だろうから」と言って下さいました。

 つい最近まで、見城さんが石原さんを引っ張ってきたと思っていたのですが、今回本を書くに際してよく考えてみたら、見城さんが「行きましょう」と言って来るような方ではないということに思い至りました。

 その意味で、石原さんという方は、世の中から誤解されている面もありますが、本当に丁寧で、純粋な方だと思います。しかし、純粋過ぎて、議員内閣制の中では総理大臣にはなれなかった。

 ─ 都知事に就任した頃の首相は小渕恵三さんでしたが、国に先行して新政策を打ち出す石原さんと小渕さんを対比して、「石原は首相になれないが、小渕は都知事になれない」と評価されたこともありましたね。

 牛島 そうですね。石原さんが亡くなられた直後に、ある自民党の大物政治家の方と食事をする機会がありました。石原さんが亡くなられたことをどうおっしゃるかなと伺いましたら、「何か、勝手なことをいろいろ言っていたね」との一言でした。


田中角栄氏とのゴルフ場でのエピソード

 ─ 石原さんは16年に田中角栄元首相について書いた小説『天才』(幻冬舎)を発行しましたね。この本については、何を感じましたか。

 牛島 1つは、石原さんがあの本を書かれる前に、田中角栄のことを私に話したことがあるんです。私から政治家の話をすることはないのですが、この時は石原さんから「田中角栄は大きな人間だ」ということを話し始めたんです。

 エピソードとして、例えばゴルフ場の「スリーハンドレッドクラブ」に石原さんが行くと、その日は田中さんも来ていた。その直前、石原さんは『文藝春秋』に田中さんを批判する「君、国売り給うことなかれ」という論文を書いており、何も言わずに通り過ぎようとしたら田中さんが「おい、石原くん」と石原さんを呼び止めたというんです。

 ─ 田中さんから、声をかけたと。

 牛島 田中さんは石原さんに「まあ、座れよ」といってビールを1杯ご馳走したそうです。そして石原さんが「いろいろご迷惑をおかけしています」といった主旨のことを言ったら、田中さんは「お互いに政治家なんだから、そんなことは気にするな」と答えたそうです。それだけ度量のある方だったようです。

 ─ 2人の間には共感するものがあったのかもしれませんね。他に石原さんが認めた政治家は聞いたことがありますか。

 牛島 石原さんが認めた政治家として第一に挙げられるのは、東條内閣などで大蔵大臣を務めた賀屋興宣です。2人は共著も出版していますし、石原さんは賀屋さんをモデルに『公人』という短編小説を書いています。

 また、実現はしませんでしたが賀屋さんの選挙区(当時の東京3区、目黒区・世田谷区)を継ぐという話も出たほどだそうです。

 ─ お互いに認め合う間柄だったと。

 牛島 ええ。そして賀屋さんが亡くなる直前に秘書から連絡が入り、石原さんはお見舞いに行きます。

 その時に石原さんが「死ぬというのはどういう感じですか?」と聞いたところ、賀屋さんは「暗いトンネルを1人でトボトボ歩いていく感じだ」と答えたそうです。

 歩いていくうちに、家族も友人も自分のことを忘れてしまう。それでも歩き続けていくと、そのうちに自分で自分のことも忘れてしまう。賀屋さんは「死ぬというのは、つまらないね」とおっしゃっていたそうです。石原さんは、死の直前、自分について考える時に賀屋さんと全く同じように考えたと書いています。

 ─ 石原さんは賀屋さんのどんな点を尊敬していたのでしょうか。

 牛島 賀屋さんは戦時中、大蔵大臣として財政政策を担いましたが、戦後、石原さんに、「こんな貧乏な国が3年間も戦争できたのは、私の財政のおかげだよ」と話しておられたそうです。

 また、戦時中に財政政策を担ったことからA級戦犯に指定されましたが、BC級戦犯に指定された人々を救うために大蔵省の後輩達に指示を出して奔走していたそうです。そして約10年、巣鴨プリズンで服役しましたが「戦争に負けたのだから殴られ役が必要」として泰然としていたんです。

 ─ 天下国家を考え続けた「国士」とも言えますね。

 牛島 そうだと思います。だからこそ、石原さんと波長が合ったのだと思うんです。

 石原さんは作家として『太陽の季節』で世に出ましたが、それは全体像ではないと思います。石原さんはシャイで純粋で、そして誰と接するにしても対等なんです。

 例えば、筋が通らないことがあるとタクシーの運転手さんとも喧嘩して「表に出ろ」となってしまうこともあったそうですが、それは誰とでも対等な感覚だからだと。私もそう思います。

 ただ、石原さんは私との関係では非常に丁寧でした。未だ固定電話の時代、秘書を通してではなく、常にご自分で電話をしてこられました。そして、先程お話した『火の島』のことで電話をして来られて、私が出られずに折り返すと、「待たせてしまうから」と一度電話を切って、石原さんからかけ直して下さるんです。


「プラザ合意」の年に独立を果たして…

 ─ 世上伝わる石原像とは違う一面をのぞかせる話ですが、作家である牛島さんに対するアドバイスはなかったんですか。

 牛島 ある時、突然電話をして来られて「君は伊藤整の『変容』(岩波書店)という小説を読んでいるか?」と聞かれたので「大好きな小説です」と答えました。この小説は老人の性について描いた作品です。

 石原さんは私と話すと、二言目にはいつも「牛島さん、この世は男と女しかいないんだから、恋愛小説を書きなさい」とおっしゃっていました。私が「そうかもしれませんが、私は個人と組織に関心を持っています」と言うと、「でも、読者は君が書いた恋愛小説が読みたいんだよ」と随分諭されました。

 ─ そうした小説を書かれる予定はある?

 牛島 今、この瞬間、書きたいと強く思っています。それはなぜかと言うと、私は1949年(昭和24年)に生まれて、高度経済成長とともに育ち、85年(昭和60年)の「プラザ合意」で屈折した日本を生きてきました。実は私はプラザ合意の年に弁護士として独立しています。

 私自身の事務所はうまくいきましたが、日本は「失われた30年」に入って現在に至ります。日本が戦後復興から成長していった過程は何であったか。その後にバブル経済があり、崩壊した後の日本は何であったか。その場にいた人間として経験をしているわけです。

 石原さんは、吉田茂内閣の「軽武装、経済成長国家」路線によって「独立」を失ったという考えを持たれていました。

 私見ですが、現在の米中対立の中で、日本はアメリカから頼られる立場になっています。アメリカは日米同盟で中国に対抗し、台湾を守らなければいけないと考えている。大きく言えば、私はついに日本が「独立」できる時が来たのではないかと思うんです。

 プラザ合意の時、なぜ日本は唯々諾々と従い、その後の中国はそうはならなかったのか。日本と中国との差は何だったのか。それは結局、独立心を取り戻すことができなかったからではないかと考えています。

 ─ 今は、日本全体で日本のあり方を考える時ではないかと。

 牛島 ええ。独立と言っても、アメリカと対立といった話ではなく、日米同盟は基盤となります。その上で日本が対等のパートナーとしての、日米関係の新たな局面が目の前に訪れつつあるのではないかと考えます。

 現在の岸田文雄首相は、自民党総裁選において胆力を見せて下さいました。やる時にはやるという方ではないかと思うんです。また、今の日本の若者が日本に対して悲観しているという声もありますが、人は環境によって成長すると私は思っています。必要な時には日本に「吉田松陰」が出てくるというのが、私の持論です。

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