「『この道でよかった』と両親に思ってもらいたい」─ソフトウェアの世界で「つなぐ」をキーワードに成長するアステリア。創業者で社長の平野氏は、大学を中退してソフトウェア開発の道に進んだ。父・喜啓さんからは勘当されたが、平野さんを心配した母・博美さんは密かに連絡をくれていた。常に平野氏を信頼してくれた母の思いとは─。
芯が強く、存在感のある母
私の母・博美は1936年(昭和11年)11月、熊本県宇土郡三角町(現宇城市)で3姉妹の長女として生まれました。実家はみかん農家を営んでいました。
【あわせて読みたい】アステリア・平野洋一郎社長CEO「『ソフトウェアのソニーになろう』 という思いで起業をしました」
平野というのは母方の姓です。父・喜啓は同じ町内の隣山で、やはりみかん農家を営む家の長男として生まれましたが、平野家に婿養子として入りました。
当時は結婚すると女性が家を出る時代でしたが、母方の祖母が「平野家が絶えることは許さん」として、結婚したいならば婿に入ることを父に要求したのです。父は長男でしたが、弟がいましたから家は続くということで親を説得し、平野家に来たという経緯です。
母は表には出ないけれども芯の強い人です。親戚などの集まりでも、声が大きいのは他の人でしたが、何となくそこにいるだけで存在感がありました。
祖母と両親でみかん農家を営んでいましたが、3人の子供を育てるには収入が足りないため父が外でも働く兼業農家でした。
両親は仕事が忙しく、どちらかと言えば放任主義でした。ただ、それは我が家に限ったことではありません。周囲はみんな農家ですから同じ環境で、いつも近隣の子供達で集まって、山に行って「アジト」を作ったり、池でイカダ作りをしたりして遊んでいました。
時に怪我をして帰ることもありましたが、母は怒ることなく、黙って手当てをしてくれました。振り返れば、母からは怒られた記憶はほとんどありません。いつも私のやることを受け入れてくれる感じです。
母は「勉強しなさい」などと言うタイプではありませんでしたが、テストで良い点を取ると母が喜ぶのが嬉しくて、自発的に勉強していました。
中学2年の時、父の兼業先が、熊本市の北側に移転し通勤に時間がかかり過ぎるということで、家族で熊本市に引っ越しました。
しかし、みかん畑は三角町にありますから両親は熊本市と三角町を往復する生活を送っていました。ただ、稼ぐために熊本市内に引っ越したのに、家賃や生活費が高く、家計は苦しくなっていたようです。
月に1回は家族で外食をしていましたが、子供は男3人ですから非常によく食べるわけです。そんな時、私たちがトンカツやカレーライスを食べている横で、母はできるだけ食費を抑えようと素うどんを食べていました。「私はこれが一番好きだけん」と言う母を見て、子供なりに心が痛かったことを思い出します。
ただ、私は熊本市に出たことで、一気に世界が広がり、楽しく過ごすことができました。
学級新聞づくりで全国1位に
中学校は西原中学校という新設校に通いました。3年生がいませんから、私達の学年が2年間、最上級だったのです。しかも、校歌も校則も運動場もありませんでしたから、生徒みんなで創り上げていったのです。この時、何もないところから自分達で生み出していくという経験は、私の中で非常に大きかったと感じています。
2年生の時、私はクジ引きで学級新聞をつくる班に入りました。編集長でしたが、他のクラスが月1回発行のところ週刊にしたり、時に毎日発行、さらには夕刊や号外を出すこともありました。こうした取り組みが他にないということで認められて、何と「全国新聞コンクール」で最優秀賞に輝いたのです。
この経験は、「頑張れば日本一に手が届く」という実感を得ることができ、私の「自信」のベースになりました。必死に努力をしたというより、自分達がやりたいことを、人よりも2、3割増しで頑張ったという感じでしたが、この2、3割の差の継続によって、後から大きな差になって表れるということを実感しました。
母は褒めるのが好きな人でしたから、何かと赤飯を炊いてお祝いをしてくれました。母から褒めてもらえるのが嬉しくて、先程お話したような勉強を含め、学校の活動を頑張っていました。
ただ、中学3年の時に友達に誘われてバンド活動を始めたことで、母や先生が言うのとは違う世界があるのだということに気がつき、のめり込んでいきました。
そのため、中学3年の2学期、3学期はほとんど勉強をしていなかったのですが、幸いなことに1学期までは優等生でしたから内申点もよく、入学試験で出題される範囲の勉強も終えていたことから、県下一の進学校でもある県立熊本高校に合格することができました。
両親とも私に4年制大学に行き、公務員になって欲しいという希望を持っていましたから、熊本高校への入学でそこに近づいたということで非常に喜んでもらえました。
進学校ですから、細かなテストも含めて、全て順位が貼り出されるわけですが、私は引き続き勉強をしていませんから、クラス順位は3年間、常に45人中40番台で「フォーティーボーイズ」と呼ばれていました(笑)。
打ち込んだのは引き続きバンド活動とコンピューターです。コンピューターを始めたきっかけは小学5年の頃の趣味だった電子工作に遡ります。中学3年の時には愛読していた電子工作の雑誌でマイコンと出会い、コンピューターの世界にのめり込みました。
結果的にコンピューターへの道に誘導したのは父と言えるでしょう。小学1年の時にソニーのラジカセを買ってきて、いかにソニーが素晴らしい会社かを力説してくれたことが、ソニーの技術者への憧れとなり、電子工作が趣味となったからです。
大学は現役で熊本大学工学部に進学しました。「フォーティーボーイズ」ですから現役合格は極めて難しいところでしたが、下宿生活をしていた友人の家に1カ月入り浸って共通一次試験の勉強だけに打ち込み、わからない部分は全て友人に教えてもらったおかげで合格できました。
大学を中退、父には勘当されたが…
中学3年後半と高校の3年間、受験直前の1ヵ月以外は勉強らしい勉強をしなかったわけですが、それでも母は「勉強しなさい」とは言いませんでした。自分が親になってから、これは大変なことだとわかりました。私の成績に関心がないのではなく、強い関心を持ちながらも何も言わなかったのです。
母は時折私に、「洋一郎、信じとるけんね」と言うことがありました。バンドやコンピューターに明け暮れる私について相当いろいろなことを考えて、我慢して、そして「信じている」とだけ言ってくれたのです。
その後、大学のマイコンクラブの先輩達とソフトウェアをつくり始め、会社組織にしました。仕事に打ち込もうと退学することにしたわけですが、父が絶対反対するとわかっていましたから、勝手に退学しました(笑)。
父に事後報告したところ、当然烈火のごとく怒りました。土下座をして謝りましたが足で蹴り出されて「もう帰ってこんでよか」と言って勘当されました。その場には母もいましたが、ただ泣いていました。
勘当されてからは2年間、家に帰れませんでしたが、母は心配して父に内緒でたまに連絡をくれていました。これは本当にありがたかったですね。絶対に成果を出して、両親に「この道でよかった」と言ってもらえるようになりたいと強く思うようになりました。
母は私の仕事については何も言わないのですが、常に「体に気をつけなっせ」と健康の心配をしてくれます。父からは東証マザーズ市場(現グロース市場)上場の際には「上場なんかして、人様に迷惑をかけるなよ」と言われましたし、東証1部(現プライム市場)上場の時には「世界に行って大丈夫か」と言われ、褒めてもらえていません(笑)。
母から強く影響を受けたのは、やはり「信じること」です。親として、経営者として、まず子供や社員を何があっても信じて、任せることの大事さを実感しています。
もう1つは「緑」です。小学2年のクリスマスに母からもらったプレゼントが緑色の手編みのセーターでした。この時に母は「洋一郎は緑が好きだけんね」と言ったのです。それ以前に緑にまつわる記憶はなく、これが最も古い記憶です。私はネクタイは常に緑ですし、コーポレートカラーも緑です。私にとって一番パワーが出る色です。
今は年に3回ほど会いに行きますが、行くと「来たねえ」と言って涙を流してくれます。
私は世の中を「つなぐ」ことを通して社会を進化させて、幸せな社会をつくることを目指しています。信頼する仲間とともに目標に向かっていきます。
芯が強く、存在感のある母
私の母・博美は1936年(昭和11年)11月、熊本県宇土郡三角町(現宇城市)で3姉妹の長女として生まれました。実家はみかん農家を営んでいました。
【あわせて読みたい】アステリア・平野洋一郎社長CEO「『ソフトウェアのソニーになろう』 という思いで起業をしました」
平野というのは母方の姓です。父・喜啓は同じ町内の隣山で、やはりみかん農家を営む家の長男として生まれましたが、平野家に婿養子として入りました。
当時は結婚すると女性が家を出る時代でしたが、母方の祖母が「平野家が絶えることは許さん」として、結婚したいならば婿に入ることを父に要求したのです。父は長男でしたが、弟がいましたから家は続くということで親を説得し、平野家に来たという経緯です。
母は表には出ないけれども芯の強い人です。親戚などの集まりでも、声が大きいのは他の人でしたが、何となくそこにいるだけで存在感がありました。
祖母と両親でみかん農家を営んでいましたが、3人の子供を育てるには収入が足りないため父が外でも働く兼業農家でした。
両親は仕事が忙しく、どちらかと言えば放任主義でした。ただ、それは我が家に限ったことではありません。周囲はみんな農家ですから同じ環境で、いつも近隣の子供達で集まって、山に行って「アジト」を作ったり、池でイカダ作りをしたりして遊んでいました。
時に怪我をして帰ることもありましたが、母は怒ることなく、黙って手当てをしてくれました。振り返れば、母からは怒られた記憶はほとんどありません。いつも私のやることを受け入れてくれる感じです。
母は「勉強しなさい」などと言うタイプではありませんでしたが、テストで良い点を取ると母が喜ぶのが嬉しくて、自発的に勉強していました。
中学2年の時、父の兼業先が、熊本市の北側に移転し通勤に時間がかかり過ぎるということで、家族で熊本市に引っ越しました。
しかし、みかん畑は三角町にありますから両親は熊本市と三角町を往復する生活を送っていました。ただ、稼ぐために熊本市内に引っ越したのに、家賃や生活費が高く、家計は苦しくなっていたようです。
月に1回は家族で外食をしていましたが、子供は男3人ですから非常によく食べるわけです。そんな時、私たちがトンカツやカレーライスを食べている横で、母はできるだけ食費を抑えようと素うどんを食べていました。「私はこれが一番好きだけん」と言う母を見て、子供なりに心が痛かったことを思い出します。
ただ、私は熊本市に出たことで、一気に世界が広がり、楽しく過ごすことができました。
学級新聞づくりで全国1位に
中学校は西原中学校という新設校に通いました。3年生がいませんから、私達の学年が2年間、最上級だったのです。しかも、校歌も校則も運動場もありませんでしたから、生徒みんなで創り上げていったのです。この時、何もないところから自分達で生み出していくという経験は、私の中で非常に大きかったと感じています。
2年生の時、私はクジ引きで学級新聞をつくる班に入りました。編集長でしたが、他のクラスが月1回発行のところ週刊にしたり、時に毎日発行、さらには夕刊や号外を出すこともありました。こうした取り組みが他にないということで認められて、何と「全国新聞コンクール」で最優秀賞に輝いたのです。
この経験は、「頑張れば日本一に手が届く」という実感を得ることができ、私の「自信」のベースになりました。必死に努力をしたというより、自分達がやりたいことを、人よりも2、3割増しで頑張ったという感じでしたが、この2、3割の差の継続によって、後から大きな差になって表れるということを実感しました。
母は褒めるのが好きな人でしたから、何かと赤飯を炊いてお祝いをしてくれました。母から褒めてもらえるのが嬉しくて、先程お話したような勉強を含め、学校の活動を頑張っていました。
ただ、中学3年の時に友達に誘われてバンド活動を始めたことで、母や先生が言うのとは違う世界があるのだということに気がつき、のめり込んでいきました。
そのため、中学3年の2学期、3学期はほとんど勉強をしていなかったのですが、幸いなことに1学期までは優等生でしたから内申点もよく、入学試験で出題される範囲の勉強も終えていたことから、県下一の進学校でもある県立熊本高校に合格することができました。
両親とも私に4年制大学に行き、公務員になって欲しいという希望を持っていましたから、熊本高校への入学でそこに近づいたということで非常に喜んでもらえました。
進学校ですから、細かなテストも含めて、全て順位が貼り出されるわけですが、私は引き続き勉強をしていませんから、クラス順位は3年間、常に45人中40番台で「フォーティーボーイズ」と呼ばれていました(笑)。
打ち込んだのは引き続きバンド活動とコンピューターです。コンピューターを始めたきっかけは小学5年の頃の趣味だった電子工作に遡ります。中学3年の時には愛読していた電子工作の雑誌でマイコンと出会い、コンピューターの世界にのめり込みました。
結果的にコンピューターへの道に誘導したのは父と言えるでしょう。小学1年の時にソニーのラジカセを買ってきて、いかにソニーが素晴らしい会社かを力説してくれたことが、ソニーの技術者への憧れとなり、電子工作が趣味となったからです。
大学は現役で熊本大学工学部に進学しました。「フォーティーボーイズ」ですから現役合格は極めて難しいところでしたが、下宿生活をしていた友人の家に1カ月入り浸って共通一次試験の勉強だけに打ち込み、わからない部分は全て友人に教えてもらったおかげで合格できました。
大学を中退、父には勘当されたが…
中学3年後半と高校の3年間、受験直前の1ヵ月以外は勉強らしい勉強をしなかったわけですが、それでも母は「勉強しなさい」とは言いませんでした。自分が親になってから、これは大変なことだとわかりました。私の成績に関心がないのではなく、強い関心を持ちながらも何も言わなかったのです。
母は時折私に、「洋一郎、信じとるけんね」と言うことがありました。バンドやコンピューターに明け暮れる私について相当いろいろなことを考えて、我慢して、そして「信じている」とだけ言ってくれたのです。
その後、大学のマイコンクラブの先輩達とソフトウェアをつくり始め、会社組織にしました。仕事に打ち込もうと退学することにしたわけですが、父が絶対反対するとわかっていましたから、勝手に退学しました(笑)。
父に事後報告したところ、当然烈火のごとく怒りました。土下座をして謝りましたが足で蹴り出されて「もう帰ってこんでよか」と言って勘当されました。その場には母もいましたが、ただ泣いていました。
勘当されてからは2年間、家に帰れませんでしたが、母は心配して父に内緒でたまに連絡をくれていました。これは本当にありがたかったですね。絶対に成果を出して、両親に「この道でよかった」と言ってもらえるようになりたいと強く思うようになりました。
母は私の仕事については何も言わないのですが、常に「体に気をつけなっせ」と健康の心配をしてくれます。父からは東証マザーズ市場(現グロース市場)上場の際には「上場なんかして、人様に迷惑をかけるなよ」と言われましたし、東証1部(現プライム市場)上場の時には「世界に行って大丈夫か」と言われ、褒めてもらえていません(笑)。
母から強く影響を受けたのは、やはり「信じること」です。親として、経営者として、まず子供や社員を何があっても信じて、任せることの大事さを実感しています。
もう1つは「緑」です。小学2年のクリスマスに母からもらったプレゼントが緑色の手編みのセーターでした。この時に母は「洋一郎は緑が好きだけんね」と言ったのです。それ以前に緑にまつわる記憶はなく、これが最も古い記憶です。私はネクタイは常に緑ですし、コーポレートカラーも緑です。私にとって一番パワーが出る色です。
今は年に3回ほど会いに行きますが、行くと「来たねえ」と言って涙を流してくれます。
私は世の中を「つなぐ」ことを通して社会を進化させて、幸せな社会をつくることを目指しています。信頼する仲間とともに目標に向かっていきます。