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オリエンタルランド代表取締役・取締役会議長 加賀見俊夫「進化する方法は何か。その方法さえ間違わなければ、企業として存続していける!」

財界オンライン 2023年9月23日 15時0分

今年40周年を迎えた東京ディズニーランド。京成電鉄の子会社として誕生したオリエンタルランドで「様々な人の縁に恵まれてきた」と振り返る加賀見氏。子どもから高齢者まで笑顔と夢を与え続けてこられたのは「常に進化を続けてきたからだ」と語る。東京ディズニーリゾートは今なおエリアの拡張やデジタルを活用した新サービス導入など矢継ぎ早に新たな事業を展開・計画中。この間、決してぶれなかった理念と信条とは─。

オリエンタルランド取締役会議長・加賀見俊夫の「夢を持ち、常に事業を変化・進化させていく」


ゼロからのテーマパークづくり

 ─ 東京ディズニーランド(TDL)が開業して今年で40年。当時をどう振り返りますか。

 加賀見 日本で初めてのテーマパークという一大プロジェクトを成功させるのに無我夢中でした。TDLの基本契約交渉時は親会社だった京成電鉄と三井不動産の経営状況が大きく変わり、弱小企業だったオリエンタルランド(OLC)が単独で建設するという大事業に立ち向かう、まさに四面楚歌の状態でしたが、2代目社長の髙橋政知さんが尽力し、1983年のオープンにこぎつけました。

 ─ 何より土地造成時から苦労がありました。加賀見さんは当時のOLC社長の髙橋さんと共にテーマパークづくりに臨み、TDLの候補地だった舞浜の埋め立てを巡り、漁業関係者の説得にも動きましたね。

 加賀見 そうですね。髙橋さんでなければ漁業関係者との交渉は成功していなかったと思います。漁民たちの信頼を勝ち取り、3年はかかるとみられた交渉をわずか半年でまとめあげました。

 ─ 紆余曲折を経てのTDLの誕生でした。

 加賀見 創業当時から右往左往していましたが、当社には「夢」がありました。その夢の実現のためにどうするかを必死に考えたのです。

 何よりTDLをつくろうとしたきっかけは千葉県八千代市にある「京成バラ園」に植えるバラの新種を買いに当時の京成電鉄社長だった川﨑千春さんが渡米したことです。

 昭和30年の初めです。その帰りに米国のディズニーランドに立ち寄り、「これは素晴らしい」と。それでこのディズニーランドを日本に持ってきて、日本の子どもたちに見せてあげたいと考えたのです。

 当時の三井不動産の社長は江戸英雄さんでした。川﨑さんと江戸さんの2人は旧制・水戸高校の出身というつながりもあったのです。江戸さんが川﨑さんに髙橋さんを紹介し、OLCの礎がスタートしました。

 ─ 川﨑さんとの出会いは。

 加賀見 京成電鉄の入社試験の面接です。そこで川﨑さんから予想外の質問をされて面食らったんですよ。川﨑さんは経理畑だったのですが、面接で私に「為替手形と約束手形の違いが分かるか?」と。学生時代、私は何も勉強していませんでしたから、はっきりと「私はそういうことは勉強していませんので分かりません」と答えました。

 面接終了後、これは落ちたなと。それでも合格できた。川﨑さんには感謝していますね。それで入社して約6カ月の現場研修を経て最初に配属されたのが押上駅と船橋駅。切符切りから始まり、トイレ掃除もやりました。ところがその次に配属されたのが経理部。川﨑さんはひどい人だなと思いましたね(笑)。

 それでも経理担当の上司から「会社経営の基本は経理だよ」と言われ、必死に勉強を始めました。どうせやるなら経理のベテランになろうと。当時の勉強が後に経営にも役立ちました。


財産を会社にも投じた先代社長

 ─ 資金調達など経営の基本を把握する上で役に立ったと。

 加賀見 ベースになりましたね。舞浜の埋め立て工事が始まったときも経理の知識があったからこそ、それを判断できました。そういう仕事をしていく上でも川﨑さんは私をOLCに導き、指導してくれた恩人です。TDLの開園を待たずして社長を退かれましたが、髙橋さんと共に幾多の難局を乗り越え、夢を実現させました。まさに「夢」を実現させた人です。

 ─ 髙橋さんの父親は戦前の台湾総督でしたね。

 加賀見 はい。髙橋さん自身も、そうした仕事をされていたお父さんの血を受け継いでおられましたね。今でも覚えているのが、1970年代に髙橋さんと台湾に行ったときです。台湾の方々は髙橋さんが台湾総督を務めた方の息子だと知って大歓迎してくれましたからね。

 台湾総督があった台北の迎賓館を案内して貰ったのですが、髙橋さんは「この部屋で寝ていたよ」と言っていました(笑)。しかも、行く先々の大半の駅では地元の駅長と警察署長が髙橋さんを出迎えに来ていましたからね。

 ─ 髙橋さんと一緒に仕事して印象に残っていることは?

 加賀見 髙橋さんは会社のために自分の財産を投げ打ってまで舞浜埋め立てのための漁民との交渉費用などを工面していました。私の記憶では自身が所蔵していた絵画や骨董などを担保に入れてお金を借りていましたね。それで都心にあった自分の自宅も売り払いました。ですから、髙橋さんの財産がなければ今の当社はなかったと思います。

 ─ 会社のトップとして筋道を通す人だったのですね。

 加賀見 はい。自分が1回イエスと言ったことは、決して曲げませんでしたからね。こういう人が上司にいたことは、私にとっても幸せなことでしたね。

 ─ OLCの成功では、加賀見さんはいろいろな人に支えられてきたことを挙げています。資金面では日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)も事業に共感し、手助けしてくれていましたね。

 加賀見 会社設立から20年間、当社には何もありませんでした。そんなときでも興銀副頭取(当時)の菅谷隆介さんが力を貸してくれました。私自身も可愛がっていただき、ご自宅の新築祝いのときもお招きいただきました。私と菅谷さんは交換を通さず直通でお互いに電話し合える間柄でした。

 そして、当社がTDLをつくるときに銀行の協調融資団をつくろうということになりました。その際、その説明会をどこでやろうかとなったのです。すると、興銀元頭取だった中山素平さんが「この興銀の会議室でやれば信用は絶大だよ」とおっしゃってくださったのです。実際、各銀行を興銀の会議室に集めていただきました。これは大きかったですね。

 ─ 髙橋さんや加賀見さんをはじめ、OLCの社員の熱意に中山さんも菅谷さんも共鳴してくれたのですね。

 加賀見 ええ、賛同していただき、いろいろな指導をしていただきました。一方で我々も絶対揺るがなかったですね。あのときは周囲の人たちが絶対成功するとは思っていない事業に取り組んでいたわけですからね。途中、TDLの誘致交渉が難航していたときに髙橋さんは「仕事がなくなったら一緒に屋台でもひこう」と話していました。



どんなことがあっても成功させる

 ─ ところで京成電鉄に入社した加賀見さんがOLCに行くように言われたのは、入社後、何年目だったのですか。

 加賀見 1960年ですから3年目です。まさにOLCが事業の根幹に当たる定款をつくろうとしていたときでした。そこで私は72年に京成電鉄からOLCに転籍しました。兼務のままでは、ディズニーランドの誘致に失敗しても京成電鉄に戻れば良いという甘えが出てしまう。そういう甘えを断ち切ろうと覚悟を決めたからです。

 このときは両親にも反対されましたし、京成電鉄の同期や大学時代の友達からも「どうしてOLCに行くんだ? 京成電鉄にいた方が安泰じゃないか。OLCはいつ潰れるかも分からない」と言われたりもしました。

 しかし、自分がやると決めた以上は、もう全身全霊で打ち込もうと覚悟を決めましたね。そしてOLCを立派な会社にする。私自身も自分を全て捧げて髙橋さんについていこうと思っていました。まさに一心同体で行こうと思いましたね。

 ─ そうした決断をした加賀見さんに髙橋さんも意気に感じてくれたのでしょうね。

 加賀見 髙橋さんも私のことをすごく可愛がってくれました。年齢も親子くらいの差があり、一部の人は私のことを髙橋さんの子どもと勘違いしてしまうほどでした(笑)。それだけ仲良くさせてもらっていましたね。

 ─ そうやって手塩にかけて育ててきたOLCの株式の時価総額が一時10兆円を超えました。コロナ前はTDLと東京ディズニーシー(TDS)を合わせて計3000万人超の来園者が訪れていました。このような会社になると想像していましたか。

 加賀見 当時は全く思っていませんでした。今から40年前にTDLがオープンしたときは3年で潰れると言われたりもしました。3年経ったら、この土地にある施設を全て壊して、土地を分譲するのではないかとも言われましたからね。

 ─ そのような言われ方をして、どう思っていましたか。

 加賀見 冗談じゃないと。これだけのお金を使ってつくり上げたのに、潰してしまったら何のためにやってきたのか分からない。どんなことがあっても成功させるんだと燃えましたね。


米ディズニー首脳との信頼関係

 ─ TDLがオープンした5年後には2つ目のパークの建設へと動き出しました。米ディズニー社との交渉にはどういう基本スタンスで臨んだのですか。

 加賀見 TDL5周年のときに、第2パーク構想を公表しました。開園1年目で目標としていた1000万人のゲスト(来園者)を迎え、5年目には1200万人のゲストにお越しいただき、日本で初のテーマパークが軌道に乗ったのは、世間からみても明らかでした。

 そしてTDSのオープンにこぎつけられたのは、何よりも当時のトップだったウェルズ社長との人間関係が良好であったことが良かったと思います。お互いにすごい信頼関係ができていました。ライセンス契約のような交渉ではディズニー社は当社よりも1枚も2枚も上手です。しかしウェルズ社長は「平等でいこう」と言ってくれました。

 第2パークとして何を作ろうか検討していた最中、米のディズニー・ハリウッド・スタジオを手本にした映画村を作ろうとする方向で動いていたのですが、土壇場で「映画村は日本には向かない」との当社からの計画白紙の決断を理解し、最終的に支持してくれたのがウェルズ社長でした。

 ─ 結果としてTDSが大成功したのは大きかったですね。今ではシニア層も訪れるようになっていますからね。

 加賀見 ええ。やはり私どもの事業は常に進化していかないと、潰れてしまいます。進化する方法は何か。その方法さえ間違わなければ、企業として存続していくことができると思うのです。常に新しいものにチャレンジしていくと。ですから、ウォルト・ディズニーの「永遠に完成しない」という考えを大事にしています。

 ─ コロナ禍で厳しい経営環境が続きましたね。

 加賀見 ええ。でもコロナ禍でも人員削減はしませんでした。当社の事業はサービス業ですから、最後は「人」なのです。ですから、私は社員にはゲストにお喜びいただくためには、まずは自分が喜びましょうと。そうしないとゲストは喜んでくれませんと言い続けています。

 若手の社員にも率先してゲストと一緒に楽しむ気持ちでおもてなししましょうと伝えています。自分が楽しむことでゲストにも楽しんでいただけます。以心伝心で伝わっていくのです。これからもゲストと従業員の笑顔をつくり、夢を与え続けていくことが当社の役割だと思っています。

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