新陳代謝で大事なこと
「企業は守らないが、雇用は守る」─。
経済の新陳代謝を促していくのは、日本経済全体の成長を図る上で大事なこと。日本が〝失われた30年〟のまま、平成の世の30年間を過ごし、令和になり、イノベーションが不可欠という気運が高まる。
その際、生産性が上がらないと言うか、企業として存続できない所は、市場から撤退することになる。〝企業は守らない〟とは、そういう文脈である。
ただし、そこで働く者たちの雇用は社会的に守らなければならない。撤退する企業から、イノベーションで立ち上がってきた新興企業への雇用の移動だとか、力強く生き残っている同業他社への労働移動ということもあろう。
時代の転換期にあって、先行き不透明感もあり、国民の安心・安全を確保するためにも、『会社は守らないが、雇用は(社会的に)守る』ということが大事になってくる。このことを、百貨店そごう・西武の売却問題で強く感じた。
昨秋、そごう・西武を傘下に持っていたセブン&アイ・ホールディングスが米投資ファンドに売却することを発表してから、売却話はようやく9月初めに決着。
そごう・西武労組はこの売却話に反発し、8月31日に西武池袋本店でストライキを行った。今どき、ストは珍しいということで、世間の注目を浴びたが、国民の多くは、冒頭の『企業は守らないが、雇用は守る』ということの大事さを感じたのではないか。
そごう・西武は米投資ファンドから、家電量販大手のヨドバシホールディングスへ売却される見通し(ヨドバシの取得価額は約3000億円規模)。
今後、ヨドバシ側がそごう・西武をどう再建・再生していくか、池袋という街の再開発とも絡んで、その打つ手が注目される。
文化発信し続けた西武
池袋駅に立つ西武百貨店。池袋の街並みは戦後、西武百貨店の成長・発展と共に変貌してきた。
西武百貨店(その後運営会社はセゾングループに名称変更)の経営トップ、堤清二氏(1927―2013)は1960年代、70年代の流通革新の旗手とされた人物。
池袋の百貨店は、〝東口の西武、西口の東武〟と言われ、社名とは逆の立地でやってきたが、池袋の流通の変革を担ったのが堤清二氏。
西武百貨店の北隣りには、京都の『丸物』が同じく百貨店を構えていたが、経営不振で、西武が取得。堤氏は、その旧丸物百貨店を『池袋パルコ』として生まれ変わらせた。
高度成長期の真っただ中での経営権の移動であり、パルコは自由や個性を求める若者にアピールする商品構成で顧客を引き付けた。都心の渋谷や、大阪・心斎橋など全国の主要な繫華街にも進出し、独特の流通文化を築いていった。
池袋パルコがオープンしたのは1969年(昭和44年)。このパルコ開設を手がけたのが、増田通二氏(1926―2007)。セゾングループ総帥・堤清二氏とは旧制中学以来の同窓という間柄。
池袋は文化の発信基地として様変わりしていった。それを象徴する西武百貨店の所有権がセブン&アイから今回、ヨドバシに移る。
必要な地元との対話
ヨドバシの出店で、池袋の街はどう変貌していくのか。地元の豊島区は、高級ブランド店が出て行ってしまい、「文化性が損なわれるのでは?」といった懸念を持つ。
家電量販大手、ビックカメラは池袋が本拠。最大手のヤマダホールディングスも池袋に店舗を構える。家電量販店同士の販売競争も激化しそうだ。
一方、ヨドバシ側も「文化性が損なわれる」とまで言われたら、快い気持ちではないだろう。どう池袋の街に溶け込み、新しい流通文化を打ち出していくのか。
「ヨドバシは秋葉原出店で秋葉原を変えた」とも言われるが、秋葉原と池袋では街の性格が違う。
ヨドバシ側の戦略がどう打ち出されるのかが注目される。
また、肝腎の西武百貨店で働く人たちの雇用がどうなのか。働く人たちの意識と、こうした時代の転換期にあって、個人のリスキリングをどう実現していくのかも含め、今回のそごう・西武問題は多くの教訓を与えてくれている。
柳井正さんの『覚悟』
経営者にとって、緊張感と共に覚悟が要求される時である。
「会社というものは潰れるもの。それを潰さないようにするために経営者が要る」と言うのは『ユニクロ』の柳井正さん(1949年生まれ、ファーストリテイリング会長兼社長)。
柳井さんは山口県宇部市出身。石炭の街・宇部で家業の衣料品店を受け継ぎ、「カジュアルで世界一を目指す」と自らモノを創り出すSPA(製造小売業)のビジネスモデルを構築。米中対立など国際政治が激変する中、世界各地に店舗を構え、グローバル経営を展開している。
リスクを取りながら、また失敗も経験しながらの成長である。
同社の強みは、〝失われた30年〟のデフレ下で、モノ(カジュアル製品)を売ってきたこと。モノが売れないデフレ時に成長してきた。
これも『覚悟』を持った経営をその時々で実践してきたからだ。
『覚悟』のある経営者は強い。
河北博文さんの直言
「日本人はネットみたいなもの、目に見えないものを動かすことが不得意。一方で、目に見えることを製造することは、日本人は上手いと。目に見えないことを創造していくことは、恐らく違う頭の使い方なんだろうと思うんですね」
社会医療法人河北医療財団河北総合病院理事長の河北博文さん(1950年=昭和25年生まれ)が、興味深い日本人論を語られる(本号の『創刊70周年』記念インタビュー参照)。
河北さんは、東京・阿佐ヶ谷の河北総合病院を中心に、多摩地区でも病院を経営し、地域医療改革に積極的に取り組んでおられる。
例えば、小児医療である。
「目に見える体の病気は、日本人は結構一生懸命に小児科医が診ます。しかし、目に見えない、いろいろな変化に関しては、ものすごく弱い。例えば、子供を期に分けて見ると、まず生まれたての子供は新生児です。それで、新生児期、乳児期、幼児期、学童期前半と学童期後半、そして思春期、青年期となった時に、病気ってどういう風に変化するかという課題です」
新生児の時は、ちょっとした事でお腹が痛くなったり、何かに感染したり、体に変化が生ずる。乳児、幼児も同じで、「小学校の前までは体の病気が多い」と河北さん。
小学校を過ぎると、それが激減。代りに発達障害が出るなど、「心の揺らぎが出てくる」と言う。そうした変化に対応できる小児医療がないのが現実。
人口減、少子化、異常気象と環境激変の中、日本の将来を担う子供たちをもっと大事にしなければという河北さんの訴えである。
「企業は守らないが、雇用は守る」─。
経済の新陳代謝を促していくのは、日本経済全体の成長を図る上で大事なこと。日本が〝失われた30年〟のまま、平成の世の30年間を過ごし、令和になり、イノベーションが不可欠という気運が高まる。
その際、生産性が上がらないと言うか、企業として存続できない所は、市場から撤退することになる。〝企業は守らない〟とは、そういう文脈である。
ただし、そこで働く者たちの雇用は社会的に守らなければならない。撤退する企業から、イノベーションで立ち上がってきた新興企業への雇用の移動だとか、力強く生き残っている同業他社への労働移動ということもあろう。
時代の転換期にあって、先行き不透明感もあり、国民の安心・安全を確保するためにも、『会社は守らないが、雇用は(社会的に)守る』ということが大事になってくる。このことを、百貨店そごう・西武の売却問題で強く感じた。
昨秋、そごう・西武を傘下に持っていたセブン&アイ・ホールディングスが米投資ファンドに売却することを発表してから、売却話はようやく9月初めに決着。
そごう・西武労組はこの売却話に反発し、8月31日に西武池袋本店でストライキを行った。今どき、ストは珍しいということで、世間の注目を浴びたが、国民の多くは、冒頭の『企業は守らないが、雇用は守る』ということの大事さを感じたのではないか。
そごう・西武は米投資ファンドから、家電量販大手のヨドバシホールディングスへ売却される見通し(ヨドバシの取得価額は約3000億円規模)。
今後、ヨドバシ側がそごう・西武をどう再建・再生していくか、池袋という街の再開発とも絡んで、その打つ手が注目される。
文化発信し続けた西武
池袋駅に立つ西武百貨店。池袋の街並みは戦後、西武百貨店の成長・発展と共に変貌してきた。
西武百貨店(その後運営会社はセゾングループに名称変更)の経営トップ、堤清二氏(1927―2013)は1960年代、70年代の流通革新の旗手とされた人物。
池袋の百貨店は、〝東口の西武、西口の東武〟と言われ、社名とは逆の立地でやってきたが、池袋の流通の変革を担ったのが堤清二氏。
西武百貨店の北隣りには、京都の『丸物』が同じく百貨店を構えていたが、経営不振で、西武が取得。堤氏は、その旧丸物百貨店を『池袋パルコ』として生まれ変わらせた。
高度成長期の真っただ中での経営権の移動であり、パルコは自由や個性を求める若者にアピールする商品構成で顧客を引き付けた。都心の渋谷や、大阪・心斎橋など全国の主要な繫華街にも進出し、独特の流通文化を築いていった。
池袋パルコがオープンしたのは1969年(昭和44年)。このパルコ開設を手がけたのが、増田通二氏(1926―2007)。セゾングループ総帥・堤清二氏とは旧制中学以来の同窓という間柄。
池袋は文化の発信基地として様変わりしていった。それを象徴する西武百貨店の所有権がセブン&アイから今回、ヨドバシに移る。
必要な地元との対話
ヨドバシの出店で、池袋の街はどう変貌していくのか。地元の豊島区は、高級ブランド店が出て行ってしまい、「文化性が損なわれるのでは?」といった懸念を持つ。
家電量販大手、ビックカメラは池袋が本拠。最大手のヤマダホールディングスも池袋に店舗を構える。家電量販店同士の販売競争も激化しそうだ。
一方、ヨドバシ側も「文化性が損なわれる」とまで言われたら、快い気持ちではないだろう。どう池袋の街に溶け込み、新しい流通文化を打ち出していくのか。
「ヨドバシは秋葉原出店で秋葉原を変えた」とも言われるが、秋葉原と池袋では街の性格が違う。
ヨドバシ側の戦略がどう打ち出されるのかが注目される。
また、肝腎の西武百貨店で働く人たちの雇用がどうなのか。働く人たちの意識と、こうした時代の転換期にあって、個人のリスキリングをどう実現していくのかも含め、今回のそごう・西武問題は多くの教訓を与えてくれている。
柳井正さんの『覚悟』
経営者にとって、緊張感と共に覚悟が要求される時である。
「会社というものは潰れるもの。それを潰さないようにするために経営者が要る」と言うのは『ユニクロ』の柳井正さん(1949年生まれ、ファーストリテイリング会長兼社長)。
柳井さんは山口県宇部市出身。石炭の街・宇部で家業の衣料品店を受け継ぎ、「カジュアルで世界一を目指す」と自らモノを創り出すSPA(製造小売業)のビジネスモデルを構築。米中対立など国際政治が激変する中、世界各地に店舗を構え、グローバル経営を展開している。
リスクを取りながら、また失敗も経験しながらの成長である。
同社の強みは、〝失われた30年〟のデフレ下で、モノ(カジュアル製品)を売ってきたこと。モノが売れないデフレ時に成長してきた。
これも『覚悟』を持った経営をその時々で実践してきたからだ。
『覚悟』のある経営者は強い。
河北博文さんの直言
「日本人はネットみたいなもの、目に見えないものを動かすことが不得意。一方で、目に見えることを製造することは、日本人は上手いと。目に見えないことを創造していくことは、恐らく違う頭の使い方なんだろうと思うんですね」
社会医療法人河北医療財団河北総合病院理事長の河北博文さん(1950年=昭和25年生まれ)が、興味深い日本人論を語られる(本号の『創刊70周年』記念インタビュー参照)。
河北さんは、東京・阿佐ヶ谷の河北総合病院を中心に、多摩地区でも病院を経営し、地域医療改革に積極的に取り組んでおられる。
例えば、小児医療である。
「目に見える体の病気は、日本人は結構一生懸命に小児科医が診ます。しかし、目に見えない、いろいろな変化に関しては、ものすごく弱い。例えば、子供を期に分けて見ると、まず生まれたての子供は新生児です。それで、新生児期、乳児期、幼児期、学童期前半と学童期後半、そして思春期、青年期となった時に、病気ってどういう風に変化するかという課題です」
新生児の時は、ちょっとした事でお腹が痛くなったり、何かに感染したり、体に変化が生ずる。乳児、幼児も同じで、「小学校の前までは体の病気が多い」と河北さん。
小学校を過ぎると、それが激減。代りに発達障害が出るなど、「心の揺らぎが出てくる」と言う。そうした変化に対応できる小児医療がないのが現実。
人口減、少子化、異常気象と環境激変の中、日本の将来を担う子供たちをもっと大事にしなければという河北さんの訴えである。