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日本は「国のカタチ」をどうつくっていくか?【私の雑記帳】

財界オンライン 2023年10月29日 11時30分

『国のカタチ』とは

『国のカタチ』をどうつくっていくか─。

 そもそも、『国のカタチ』とは何なのか? 国の生き方、在り方を形づくるとなれば、まず憲法を核にした法体制の整備がある。それを基本に、政治形態、国の統治の仕方、経済、教育、防衛など、それぞれの領域での運営の仕方を決めていくことになる。

 そうやって、法やルール、社会的規範などが形成され、国民性も含めて、『国のカタチ』が形づくられるのだと思う。

 では、日本(人)の国民性とはいったい何か? 私見だが、日本には一木一草に命を認め、そうした自然と共に生きるという〝共生(ともい)き〟の考え方がある。つまり、共生の思想だ。

 四方を海に囲まれ、アジアの東端に位置する日本。その地理的特性を踏まえて、某経済リーダーは次のように語る。

「日本には、中国大陸や旧満州やモンゴル、朝鮮半島など北方からも、また南方からも琉球(沖縄)や南西諸島を経由して、いろいろな民族が日本列島にたどり着いた。ほかに行く所がないので、そこで共生きの思想が生まれたのではないか」

 面白い見方、考え方だと思ったが、日本には四季があり、温暖で作物も採れるという地理的条件もあったのではないか。


聖徳太子のカタチづくり

 歴史的に見ても、『仏教伝来』(538)にしろ、江戸末期の『黒船来航』(嘉永6年=1853)にしろ、日本は外から来たものを基本的には受け容れてきた。

 もちろん、元寇(鎌倉時代中期)のように、武力で侵攻してきた外国勢力には一致団結して戦い抜き、これを排除。

 元寇は、1274年、1282年と2度にわたってあったが、何としても自分たちの国は自分たちで守り抜くという、当時の人たちの決意であり、覚悟があった。

 仏教のように、静かに人としての生き方、考え方を思考するようなものには、真摯に向き合い、従来からあった日本の思想と融合させてきた。

 一木一草に命が宿ると考え、八百万(やおよろず)の神がいるという神道に、外来の仏教の考えがプラスされた。さらに、生きる上での規範、道徳規範にもなる儒教も中国からやって来た。

 仏教伝来の後、『十七条の憲法』の制定や、法隆寺建立などに力を尽くした聖徳太子(574―622)が尊敬され続けているのも、そうした融合文化の中で、国の基本軸(カタチ)づくりを進めたからではないだろうか。


新渡戸稲造の『武士道』

 明治期、『武士道』を英文で記し、米国で出版した新渡戸稲造(1862―1933)は江戸末期に生まれ、明治、大正、昭和を生き抜いた国際人。『武士道』の出版には、メアリー・エルキントン夫人(日本名は新渡戸万里子)の貢献も大きかったという。

 発刊の動機は、欧州でベルギー人の教授に、「日本人の基軸、心の拠り所は何か?」と聞かれた時、即答できなかったことだという。

 欧米人の精神的規範がキリスト教にあるとすれば、日本人には武士道があるということに新渡戸はたどり着いた。

 自然の中で生き、仏教の死生観を取り入れ、仁・義・礼・智・信の道徳的規範を説く儒教を融合させ、生き方・考え方を熟成させた武士道である。

 誠実、勤勉そして、公(パブリック)に尽くすという姿勢は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などにも通ずる。新渡戸は教育者であり、思想家であり、台湾開拓にも貢献した、開拓スピリッツ旺盛な人物でもあった。


領土問題の解決に尽力

 第1次世界大戦が終結した後、新渡戸は当時の国際連盟の事務次長ポストに就く。

 その時、手がけたのが北欧のオーランド諸島の帰属問題解決である。バルト海、ボスニア湾入口の多島海域に位置するオーランドは、長い間、スウェーデンとフィンランドの間で、その帰属を巡って争い、対立が続いてきた。

 フィンランドに属するが、住民の大半はスウェーデン人ということもあり、歴史的に長い間揉め続けた。またフィンランドが一時期、帝政ロシアに併合されたこともあり、帰属問題はさらに複雑化。

 揉め続ける中、新渡戸稲造は国際連盟事務次長として、裁定を下す。「フィンランドへの帰属を認めるが、その条件として、オーランドの自治権を確約する」というものであった。

 こうした揉め事を解決する上で、新渡戸自身、『武士道』精神を発揮したということであろう。

 なお、著作『武士道』の英文表記は、『The Soul of Japan』であり、『Bushido』である。

 当時のテオドール・ルーズベルト米大統領も、この『武士道』に感銘を受け、息子たちに読ませたという逸話が残っている。基本軸のしっかりした生き方は、国を超えて伝わっていく。


農産物の自給率向上へ

 農業の生産性をどう上げるか。また、企業が農業分野に参入する余地はあるのか─。

 このことについて、農業問題の専門家、山下一仁さん(キヤノングローバル戦略研究所研究主幹)は「企業が参入すれば生産性が上がるようなことを言う人がいますが、それはないですね」と語る。

「実は農業と工業が何が違うかというと、農業は天候に影響を受けるということです。農業は自然に左右されます。だから、瞬時にその場で稲の状態とか、虫の発生とか、雑草のこととか対処しないと駄目。工場の場合は毎日毎日、平準化した状況下で、モノがつくれます。それと違って、会社みたいな組織で上の判断を仰いでやるというのでは、農業は間に合わない」

 漁業では、陸上養殖を含めた養殖事業などで企業参入はあるが、農業では企業の参入は難しいという。

 それにしても、日本は農産物の自給率が38%(カロリーベース)と低い。これについて、山下さんは、米の〝減反政策〟が自給率を低下させていると指摘。

 日本は、減反政策が始まる前は、麦作りも活発だった。その麦と米の二毛作をやっていた1960年頃は、「耕地利用率、つまり農地をどれだけ使うかという数字は135%。二毛作の時代は200%になり、食料自給上も有効だった」と山下さん。当時の麦の生産は年300万トン。国内の麦の消費をまかなえていたという。

 減反を実質的に止めて、米価が下がった場合はどうするか?

「兼業農家の人たちは農地を貸して地代収入を得る。主業農家主体の農業になれば、二毛作が復活する」と山下さん。日本列島は南北に長いという地理的条件を生かして「作期をズラすなど工夫をこらした農業を展開できます」とも言う。改革の余地は随処にある。

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