自然と人の関係
四季があり、自然の美しさを賞で、きめ細かな感性を育んできた日本。その自然が時に怒り出し、地震や噴火、風水害をもたらす。
自然が動と静の間を往き来する中を、人々は時に耐え、自然の恵みにも感謝しながら生きてきた。
雷神、龍神といったように、畏怖の念をも込め、雷や龍に神を付けて敬うのも、日本の人達の感性の豊かさと言ってもいいだろう。
自然との共生─。たとえ、自然災害に出会っても、しなやかに、逞しく生き抜いてきた歴史。
今回の能登半島地震では大変な被害が出た。犠牲者の方々に心からお悔やみを申しあげたい。支援の手を広げながら、能登に住む人たちとの共生を確かめ合いたい。
「時に心が折れそうになるが、ここが好きだし、何とか再生していきたい」という現地の人たちの言葉に日本中が共感、共鳴している。ここは、全員が踏ん張っていきたいものだ。
寺田寅彦の言葉に……
自然は、時に牙をむく。ふだんはその恵みにあずかり、日常生活を送っているのだが、ひとたび牙をむかれると、日々の営みが突然断ち切られる。不条理の世界。それが現実である。
「天災は忘れた頃にやってくる」─。物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦(1878―1935)が発した言葉。寺田自身も、あの関東大震災(1923年=大正12年)を体験している。
死者10万人以上を出した関東大震災から100年余が経つ。東京を中心とした首都圏の人々は当時と比べると、異常に膨張。いざという時への備えは万全か─。
トヨタグループの試練
豊田自動織機のエンジン認証試験の不正は社会にショックを与えた。日野自動車、ダイハツ工業とトヨタグループ内の一連の不祥事である。
自動車産業は日本全体を引っ張る存在。トヨタ自動車の株式市場での時価総額は48兆円余で断トツ。2位のソニーグループ(18兆円余)、3位の三菱UFJフィナンシャル・グループ(16兆円余)の2倍以上、3倍近くを付けていることを見ても、株式市場のみならず、産業全般からの期待も高い。
グループの中核であるトヨタ自動車社長の佐藤恒治氏は自動車産業の技術が高度化する中で、「出来ない事を出来るようにしていくことは、技術者のモチベーションになる」とした上で、一連の不祥事について、エンジニア出身者らしい指摘をする。
「技術者の前向きな気持ちに経営者層が向き合えていない」─。
経営陣(トップ)と現場が意思疎通を欠いているということ。経営陣の現場への干渉のなさが、結果的に現場の不正を助長することになったということ。
また、現場からも不正が上に報告されていなかったとか、現場でも管理職と担当者とが意思疎通を欠いていたことへの反省である。
経営トップと現場の関係
経営層と現場との関係。これは企業経営にとって永遠の課題。
任せて、任せず─。現場の自由な発想や向上心は不可欠で、それなくして品質の向上や物事の改革も進まない。かといって、時にはミスや誤作動も発生する。そうした万が一のことが起きないようにする、あるいは不正などが起きていないかどうかをチェックするのは経営陣(トップ)の責務。
経営層からすれば、「任せて、任せず」という何とも微妙な責務である。
この微妙なバランス感覚が麻痺してしまうと。経営層は『現場の監督不行き届き』となり、現場からは、「上からの圧力が強すぎて、不正を働く方向に追い込まれた」といった〝弁明〟が生まれる。
SOMPOホールディングスの〝ビッグモーター〟問題でも、この『経営層と現場』の意思疎通の欠如が浮き彫りになった。
現場の1つひとつの行動に、その企業の経営理念や生きざまが投影されていることを確認していきたいものである。
稲盛和夫さんのJAL再建
現場重視の経営を徹底することで知られたのが、今は亡き稲盛和夫さんである。
2022年(令和4年)8月、稲盛さんは天寿を全うされた。享年90歳。京セラを世界に冠たるセラミック・素材開発メーカーに育てられたし、KDDIの創業者として、わが国の情報通信革命をリードしてこられた。努力の人、刻苦勉励の経営者であった。
その稲盛さんが日本航空(JAL)が経営破綻し、その再建を任されたことがあった。2010年(平成23年)、リーマン・ショック後の不況もあって、JALは苦境に陥った。かつてのナショナルフラッグであり、国全体への影響もあるため、時の政権も稲盛さんにカジ取りを要請。
時に稲盛さんは78歳。京セラの経営の第一線からも身を引き、自適の生活を送ろうという矢先でのJAL会長就任の要請。「その任ではない」と断るも、「お国のために」という政権の要請に最後は応じた。
この時、JALへ連れていったのは京セラで30数年、秘書を務め、秘書室長となっていた大田嘉仁さん(1954年生まれ)1人であった。
現場回りで空気が一変
当初、稲盛さんのJAL再建に、新聞などメディアの反応は冷ややかであった。「航空の素人に再建が出来るのか?」といった論調が多かった。しかし、就任から半年位経ってから、その論調が変わり始める。
稲盛さんは会長に就任するや、JALの機体整備やキャビンアテンダントの現場を隈なく回り、「一緒に頑張りましょう」と激励して回った。
大田さん自身、日本航空常務で取締役の一員となり、稲盛さんと行動を共にした。大田さんが語る。
「倒産直後、社内全体に元気がないというか、生気がないんです。みんな下を向いていてね。皆さん、悲しい顔で仕事をしていました」
その悲痛な顔の表情をゆるませ、笑顔にしていったのが、稲盛さんの現場行脚であった。
「羽田空港の現場に行って、2、3時間現場を回るんです。で、一人ひとりに、『稲盛です。急に会長になりましたが、一緒に頑張っていきましょう』と、歩いて回ったんです」
ある事務所では、稲盛さんの姿を見て、椅子から立ち上がり、挨拶をしようとする社員もいた。
「それを見た稲盛さんは、『そのまま仕事を続けてください』と、頭を下げて回るんです。あれは出来ないですね。わたしもくたくたでした。それを稲盛さんは全部回って。あのインパクトはもうすごかったと思います」
3年後、稲盛さんは退任。大田さんは京セラを引き、現在、MTG(東証グロース上場)の会長などを務める。『自利利他』の精神でチャレンジし続けた稲盛さんの生きざまは受け継がれている。
四季があり、自然の美しさを賞で、きめ細かな感性を育んできた日本。その自然が時に怒り出し、地震や噴火、風水害をもたらす。
自然が動と静の間を往き来する中を、人々は時に耐え、自然の恵みにも感謝しながら生きてきた。
雷神、龍神といったように、畏怖の念をも込め、雷や龍に神を付けて敬うのも、日本の人達の感性の豊かさと言ってもいいだろう。
自然との共生─。たとえ、自然災害に出会っても、しなやかに、逞しく生き抜いてきた歴史。
今回の能登半島地震では大変な被害が出た。犠牲者の方々に心からお悔やみを申しあげたい。支援の手を広げながら、能登に住む人たちとの共生を確かめ合いたい。
「時に心が折れそうになるが、ここが好きだし、何とか再生していきたい」という現地の人たちの言葉に日本中が共感、共鳴している。ここは、全員が踏ん張っていきたいものだ。
寺田寅彦の言葉に……
自然は、時に牙をむく。ふだんはその恵みにあずかり、日常生活を送っているのだが、ひとたび牙をむかれると、日々の営みが突然断ち切られる。不条理の世界。それが現実である。
「天災は忘れた頃にやってくる」─。物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦(1878―1935)が発した言葉。寺田自身も、あの関東大震災(1923年=大正12年)を体験している。
死者10万人以上を出した関東大震災から100年余が経つ。東京を中心とした首都圏の人々は当時と比べると、異常に膨張。いざという時への備えは万全か─。
トヨタグループの試練
豊田自動織機のエンジン認証試験の不正は社会にショックを与えた。日野自動車、ダイハツ工業とトヨタグループ内の一連の不祥事である。
自動車産業は日本全体を引っ張る存在。トヨタ自動車の株式市場での時価総額は48兆円余で断トツ。2位のソニーグループ(18兆円余)、3位の三菱UFJフィナンシャル・グループ(16兆円余)の2倍以上、3倍近くを付けていることを見ても、株式市場のみならず、産業全般からの期待も高い。
グループの中核であるトヨタ自動車社長の佐藤恒治氏は自動車産業の技術が高度化する中で、「出来ない事を出来るようにしていくことは、技術者のモチベーションになる」とした上で、一連の不祥事について、エンジニア出身者らしい指摘をする。
「技術者の前向きな気持ちに経営者層が向き合えていない」─。
経営陣(トップ)と現場が意思疎通を欠いているということ。経営陣の現場への干渉のなさが、結果的に現場の不正を助長することになったということ。
また、現場からも不正が上に報告されていなかったとか、現場でも管理職と担当者とが意思疎通を欠いていたことへの反省である。
経営トップと現場の関係
経営層と現場との関係。これは企業経営にとって永遠の課題。
任せて、任せず─。現場の自由な発想や向上心は不可欠で、それなくして品質の向上や物事の改革も進まない。かといって、時にはミスや誤作動も発生する。そうした万が一のことが起きないようにする、あるいは不正などが起きていないかどうかをチェックするのは経営陣(トップ)の責務。
経営層からすれば、「任せて、任せず」という何とも微妙な責務である。
この微妙なバランス感覚が麻痺してしまうと。経営層は『現場の監督不行き届き』となり、現場からは、「上からの圧力が強すぎて、不正を働く方向に追い込まれた」といった〝弁明〟が生まれる。
SOMPOホールディングスの〝ビッグモーター〟問題でも、この『経営層と現場』の意思疎通の欠如が浮き彫りになった。
現場の1つひとつの行動に、その企業の経営理念や生きざまが投影されていることを確認していきたいものである。
稲盛和夫さんのJAL再建
現場重視の経営を徹底することで知られたのが、今は亡き稲盛和夫さんである。
2022年(令和4年)8月、稲盛さんは天寿を全うされた。享年90歳。京セラを世界に冠たるセラミック・素材開発メーカーに育てられたし、KDDIの創業者として、わが国の情報通信革命をリードしてこられた。努力の人、刻苦勉励の経営者であった。
その稲盛さんが日本航空(JAL)が経営破綻し、その再建を任されたことがあった。2010年(平成23年)、リーマン・ショック後の不況もあって、JALは苦境に陥った。かつてのナショナルフラッグであり、国全体への影響もあるため、時の政権も稲盛さんにカジ取りを要請。
時に稲盛さんは78歳。京セラの経営の第一線からも身を引き、自適の生活を送ろうという矢先でのJAL会長就任の要請。「その任ではない」と断るも、「お国のために」という政権の要請に最後は応じた。
この時、JALへ連れていったのは京セラで30数年、秘書を務め、秘書室長となっていた大田嘉仁さん(1954年生まれ)1人であった。
現場回りで空気が一変
当初、稲盛さんのJAL再建に、新聞などメディアの反応は冷ややかであった。「航空の素人に再建が出来るのか?」といった論調が多かった。しかし、就任から半年位経ってから、その論調が変わり始める。
稲盛さんは会長に就任するや、JALの機体整備やキャビンアテンダントの現場を隈なく回り、「一緒に頑張りましょう」と激励して回った。
大田さん自身、日本航空常務で取締役の一員となり、稲盛さんと行動を共にした。大田さんが語る。
「倒産直後、社内全体に元気がないというか、生気がないんです。みんな下を向いていてね。皆さん、悲しい顔で仕事をしていました」
その悲痛な顔の表情をゆるませ、笑顔にしていったのが、稲盛さんの現場行脚であった。
「羽田空港の現場に行って、2、3時間現場を回るんです。で、一人ひとりに、『稲盛です。急に会長になりましたが、一緒に頑張っていきましょう』と、歩いて回ったんです」
ある事務所では、稲盛さんの姿を見て、椅子から立ち上がり、挨拶をしようとする社員もいた。
「それを見た稲盛さんは、『そのまま仕事を続けてください』と、頭を下げて回るんです。あれは出来ないですね。わたしもくたくたでした。それを稲盛さんは全部回って。あのインパクトはもうすごかったと思います」
3年後、稲盛さんは退任。大田さんは京セラを引き、現在、MTG(東証グロース上場)の会長などを務める。『自利利他』の精神でチャレンジし続けた稲盛さんの生きざまは受け継がれている。