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石川忠彦・天昇電気工業社長の 「人生の転機」【まさにサバイバルだったロンドンでの子供時代】

財界オンライン 2024年4月23日 15時0分

プラスチック成形加工の当社は1936年創業の老舗で、製造力、技術力は一流と自負しています。私がこの会社に来たのは2013年。当時、売り上げの約7割を占め、最大の取引先だったシャープ液晶TV事業が不振となり、当社の経営が危ぶまれたのがきっかけでした。三井物産で長年プラスチック分野を担当していたことから声がかかり、社長に就任したのです。

 当時は会社も揺れていて、生え抜き社員からは「何をしに来た」というように見られましたが、とにかく新たな仕事を探さなくてはいけない。注目したのが自動車業界でした。それまで取引はなかったのですが、電気自動車などCASE革命期というタイミングもマッチしました。メーカーとして一日の長がある当社を受け入れていただけて、息を吹き返せました。今では全自動車メーカーと取引があり、自動車関連が売り上げの6~7割を占めています。

 振り返れば、商社マン時代も山あり谷ありでした。言葉もわからないまま赴任したイタリアの現地法人では、個性の強いイタリア人相手にあらゆるビジネスをやって赤字経営を立て直しました。中国・上海では、日本企業5社によるプラスチックの合弁会社で社長を務め、中国人従業員たちを率いて製造業の経営を経験。つらいこともたくさんありましたが、学ぶことも多く、楽しかった。

 こうした人生の原点であり、私の転機といえるのは、小中学生時代に過ごしたロンドンでの経験です。父も物産マンで、赴任先のニューヨークで私は生まれました。4歳から日本で過ごし、10歳のときに家族でロンドンへ。1960年代で在留邦人も少なく、日本食の店もない。日本の新聞や情報が届くのも遅く、「紅白歌合戦」は毎年2月ごろに日本大使館主催で映画館を借りて上映会があったほど。

 英国の学校に入りましたが、英語もできず、不安な思いで2階建てのバスを乗り継いで通学し、授業内容もわからない。先生の質問に交互に「イエス」「ノー」を繰り返すばかり。後年、「名前や住所を聞いても答えがイエス、ノーで大変だった」と先生も話していました。まさにサバイバルの日々で苦労しましたが、15歳で帰国するまで、あきらめずやるしかないと努力しました。当初わからなかった英語も次第に耳から覚え、今につながる財産に。

 子供時代にこういう経験をしたことで何が起きても動じなくなったのだと思います。人生は経験の積み重ね。今、ダイバーシティ(多様性)といわれますが、アメリカ生まれのイギリス育ち、世界中で多様な経験も積めた。運が良かったと思っています。

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