Infoseek 楽天

伊那市の特命大使に任命された小坂敬さん・文乃さんと白鳥孝市長 「ご先祖様たちがつくってきた歴史が あってこそわたしたちが今ここにいます」

財界オンライン 2024年9月9日 18時0分

「地方創生と言われて久しいですが、実際掛け声だけでまだ形になっていないのが現状。真の地方創生をしていくためには、人の繋がりで脈々と繋げてきた歴史を紐解いていくことが大事」─。こう語るのは長野県伊那市長の白鳥孝氏。日比谷松本楼創業者、小坂梅吉の父、小坂駒吉は幕末に信州から上京。伊那市西箕輪出身で、現社長・小坂文乃氏と、小松ストアー社長・小坂敬氏の曽祖父にあたる。過去の歴史を調べていくと先祖の人物像が見えて浮かび上がってくる。二人は伊那市特命大使として、先祖の思いを繋ぐ活動をしている。


伊那市特命大使に

 ─ 小坂さんの先祖が伊那市に関係があるということでお二方を今回特命大使に選ばれましたが、改めて伊那市の特命大使を創設された趣旨と狙いを聞かせてくれませんか。

 白鳥 伊那市の積極的な情報発信という面もありますが、お二人の醸し出している人柄がそのまま伊那市のアピールになればと思い委嘱させていただきました。

 ─ 特命大使選出は市長になられた時から開始されていますね。

 白鳥 はい。12年程前から現在に至るまで19人の方に委嘱しています。わたしたちは歴史の深さをもう一回認識しないといけないと思うのです。

 日本の歴史や地域、たとえば銀座の歴史をつくってきたとかそういうようなことを考えると、お二人の前のご先祖様たちがつくってきた脈々と続いてきている歴史の今があってこそ、わたしたちがいるということを、改めてもう一回認識すべきだと思っています。

 ─ お二人とも若い時に留学された国際派で世界を知っておられるわけですが、銀座のど真ん中と日比谷公園でお仕事をされている一方で、ふるさとを大事にされています。ふるさとを大事にするということは、いま日本全体で大事なことですね。

 白鳥 地方創生と言われて久しいですが、実際掛け声だけでまだ形になっていないのが現状です。なかなか変わらない現状をどう変えていくか。真の地方創生をしていくためには、人の繋がりで脈々と繋がってきた歴史を紐解いていくっていうことが大事ではないかなとわたしは思います。

 ─ 日本及び世界に伊那市をどうアピールしていきますか。

 白鳥 私が市長になってから一貫しているのは、食べものと水を含めた一次産業をちゃんとやろうということです。森林を手当てして水を安定的に供給し、エネルギーも、小水力発電や森から出てくる木を使った木質バイオマスを活用してエネルギーを賄っていく。

 伊那市というのは自活ができる地域だということを目指そうと。今エネルギーも一般家庭の電力の53%は再生可能エネルギーに変えることが目標です。現在40%で来年が最終年度なので少しピッチを上げないと間に合わないという状況です。

 それから水や米など、主要な食糧はほぼ賄えています。

 ─ 自給自足が可能だと。

 白鳥 ええ。農業用水や工業用水、飲料水もすべて自分たちで賄えています。地方都市で伊那市がモデルになっていければ、とりあえず日本は地震や災害など何か起きても大丈夫かなと。

 農業に関して言うと、市役所のある居住地エリアが標高632メートルでそれ以外の高いところは1200メートルぐらいあります。そこは耕地もありますから、いくつもの農産物が時差でできるというのは強みですね。農産物は多品種少量で高品質です。それは土地的に寒暖差が大きく晴天率が高いという恵まれた自然環境のおかげです。

 晴れが多いので花も色が鮮やかで、果物も糖度が高い。天竜川の支流の三峰川は日本で有数のミネラルが高い水なんです。

 ですから生産性も高いし美味しいのです。台風もほぼ来ませんから非常に過ごしやすい場所なのです。だから先祖に本当に感謝するのは、よくぞこのいい場所に住み続けてくれたと。

 ─ 都会からの移住や他の自治体との友好提携も多いですか。

 白鳥 提携は合併前の高遠町や長谷村との縁がありますが新宿区などですね。内藤家の内藤新宿と、保科正之公の会津若松、猪苗代です。


自給自足、教育の伊那市を目指して

 ─ 小坂さんご自身は東京で基盤を築かれてきましたが、改めて今回の特命大使に任命されての心境を聞かせてください。

 小坂敬(以下敬) この伊那市はどちらかというと電車でのアクセスが不便。結局東京からはバスで来るのが一番早いという場所なので、以前はもっと人が来たらいいなと思っていたのですが、果たして本当にそれがいいのかなと考えるようになりまして。

 都会と地方都市を繋ぐということは一つの考えとしてあったのですが、しかし大都会も考えてみれば色々な変化が激しくスピードもあり、全部がいいことかというと、その中には非常に乱雑に進んでいる面もあるわけで。それを伊那にもってきてもという気持ちもあるわけです。

 ─ 伊那を都会化にするというのは違うと。

 敬 ええ。今は大都市東京が日本をリードしていることになっていますが、将来的には伊那のような地方都市は日本を代表するコミュニティになるということになるんじゃないかとわたしは思うわけです。それを可能にするための、何かお手伝いができればと思っています。

 市長ともお話している中で、これから日本で何が大事かというと、やはり教育が大事だなと思うんですね。

 だから日本の中で一番優れた教育環境が一つあれば、さらに伊那に人気が集まってくるのではないかなと思うのです。

 白鳥 教育で言うと、令和10年に新しい高校が開校する予定です。その高校はこれまで日本にないような高校をつくろうと。

 県立高校の再編が計画されている中で、単に進学校をレベルアップすればいいということではなく、世界や地域、国を本当に変えていくような、社会に貢献出来る学生をつくっていく思いです。

 食べるものと水とエネルギーに加えて人材も非常に大事です。教育がきちんとしてないと、やはり地域は駄目になると思うのです。ただ単に詰め込み式の教育は限界なので、やはり自分は何のために生きているかといった時に、社会のためとか地域のためとか、そういった学びをやっていかないといけないと。

 ─ 人間の中身をつくる教育に力を入れているんですね。

 白鳥 はい。今伊那は移住もすごく多くて、移住先として非常に注目されているんです。その理由の一つに教育があります。伊那の小学校の中に通知表もないし、時間割もないしチャイムもないという学校があるんです。学校の中で豚を飼ったり、牛も飼ってるところもあったり、そういうところで学ばせたいっていう人が、去年は約40人移住してきました。1年生だけじゃなく、転校してくるケースもあったり。伊那西小学校という森の中の学校で、自然科学を学べる学校もありますがそこに来たいという人も多い。

 ─ それからさっき伊那を歩いていたら「こんにちは」と声をかけられて、お子さんと夫婦でブルーベリーの観光農園やっている方が「よかったら食べて行ってください」と連れていかれたんですよね。食べたら美味しかったですが、初めて会った人にブルーベリーをどうぞと言うような、町のひとの人柄がいいなと。

 白鳥 あれはあのご夫婦の人間性ですよ。伊那の人はみな非常にオープンなんですよね。

 敬 本当にびっくりしました。東京じゃありえない話ですから。

 白鳥 ここらへんでは普通と言えば普通なんです。町で働いている人に道を尋ねると、あそこ行って曲がってと話しているうちに一緒についてきて、ちょっと寄っていきなさいと言って、家に行くと、一緒にお茶を飲んでご飯まで食べてという、そんなことはごく普通なんですよ。そういう日本の昔ながらの風景が残っている場所なんです。


家系で受け継いでいる精神

 ─ 小坂駒吉さんや小坂梅吉さんを見ても、小坂家は非常にチャレンジ精神旺盛なDNAを受け継がれていると感じます。

 敬 わたしが最初に伊那に接した時には、彼らの先祖についてあまり知らなかったのですが、過去を調べていくうちにその人たちがいろいろな思いで活動していたということがなんとなく透けて見えてくるんです。

 駒吉さんも20代前半で江戸へ出てきてあまり知り合いなど関係先もなかったと思うので、非常に冒険であったと思います。当時江戸へ行くのは10日以上かかるでしょうから覚悟をして向かっていたと思います。

 ─ 見知らぬ土地に入り込んで開拓していったと。

 敬 ええ。歴史を調べていくうちに面白いものが見えてきましてね。今の小松ストアーの建物を建てる前に一度建物を壊した時に、地面から小判が出てきたんです。この小判は非常に純度の高い慶長小判だったんですよ。

 幕末はインフレがひどくて違う金属を混ぜて小判をつくっていましたから純度の高い小判はありませんでした。幕末に、江戸城の中に財産を全部置いておいたら一発でやられてしまうので、出入りの商人に小分けしてしばらく預かっておけというふうにしていた可能性があります。伊那から出てきた人物に、幕府が預けてもいいよという関係になるには1日2日でできないですから、駒吉さんはその信用を築き上げていた人だなという人物像が見えてくるわけです。

 ─ 敬さんも中学からアメリカに行かれて、大学もコルゲート、ミシガン州立大学を出られました。ある意味冒険心を持って世界を見てこられたわけですが、そこでどんなことを感じましたか。

 敬 アメリカにいた時は車で運転して大陸を3回横断しました。旅の中でいろいろな州を観察したりして、そこの人たちと接して話をしたりしました。そうするとアメリカ大陸は大きいので、いろいろな場所で違う考え方を持っている人が混在していると、もちろん差別の問題や宗教の違いだとか違う人たちと共存している。

 そういう中でアメリカ人の社会が成り立っていることを本当に身をもって観察できて、そういう人たちと話をしたことが、自分が人を見るときの姿勢に大きな影響を受けたと思います。

 やはり物事を表面だけで判断したらいけないなという判断軸はそこで培うことができたと思います。

 ─ 先祖代々、開拓魂というか探求心旺盛ですよね。文乃さんは梅吉さんの曾孫に当たりますが、先祖についてはどんな思いですか。

 小坂文乃(以下文乃) 日比谷松本楼は明治36年から今年で121年目になりますが、父の代からずっと経営しておりますので最初につくってくださったご先祖には感謝しかないです。

 ─ できたのは日露戦争の前ですね。

 文乃 はい。ですからポーツマス条約のあと、日比谷焼打事件はうちの松本楼のバルコニーで演説をやりました。

 ─ あの時の外務大臣でポーツマス条約を結んだのは小村寿太郎でしたね。いろいろな時代の変化の中を日比谷松本楼は歩いてきたと言えますね。

 文乃 ええ。やはり日比谷公園はいろいろな集まりがありますし、東京の中心ですから政治にも近く、いろいろな影響を受けてきました。

 1971年は沖縄の返還デモで全焼しましたし、戦後は米軍にずっと接収されていましたので、そういった時代を乗り越えてきたんですね。

 普通飲食業は3年もつのが5割ぐらいしかないと言われています。ですから和食の蕎麦屋や鰻屋でない、洋食レストランが121年続いているのは、レストラン界のシーラカンスだと言われます(笑)。

 ─ 1973年から「10円カレー」が提供されるチャリティーイベントも続けていますよね。レストランの雰囲気は洒落ていますが、一般大衆に向けたこともやられていますね。

 文乃 はい。あの場所は公園の中にございますので、公共性がないといけないんです。松本楼の場所は公園の中にありますから、老若男女誰でも入れなければいけません。ですから逆にそれが功を奏しているのかと。あの小さい建物の中に、ある日は皇族方がいれば、公園を散歩している一般の老夫婦がいらっしゃったり、あるいは自民党の方と野党の方が隣の部屋で会議をしているといったこともあります。とにかくいろんな方が箱の中にいますからそれが長く続いた要因かなとも思います。


中国との関係

 ─ 梅屋庄吉さんの絡みからやはり中国との関係は深いですよね。

 文乃 ええ。知られていなかった歴史ですが、私の母が他界した後に資料が山のように見つかりました。中国で若者たちが抗日のデモや、大使館に卵を投げたりしている時期で、わたしはその若者たちに、戦争のちょっと前頃には助けた歴史もあるのだということを教えたいと思ったんです。

 そこから突然、胡錦涛国家主席がいらっしゃるという話になってより深く勉強しました。福田(康夫元首相)先生は「なんで君この歴史を今まで放ってたの」とおっしゃるんですよ。放っておいたわけでなくて誰も歴史の学者が書いてくれなかったのだと申し上げたら、自分で本を書きなさいと言われて本にしたところ、長崎県をはじめ、日本各地・台湾・中国と本当に多くの方に知っていただけるようになりました。中でも、九州各地には孫文や革命家らと交流した人が多くいましたので、この歴史を基に台湾や中国との絆を深めようとした動きがあり、さまざまな活動に協力してきました。

 ─ 胡錦涛さんが来日したのは2008年でしたよね。いわゆる清朝を倒した孫文を応援するのはなかなか大変なことですよね。欧米人が世界を支配するという時代でした。

 文乃 ですから、中国と日本の考え方は同じ方向を向いていて、当時は兄弟のような関係でした。欧米に対抗するために一緒に手を組んで、強いアジアをつくらなければという思いでした。二人が出会ったのは、孫文29歳、梅屋27歳の時です。若い頃から自分の生まれ故郷を離れて、アジアを見てきた二人は肝胆相照らす仲となりました。

 ─ 日中はいま分断されていて非常に悲しい現実があるんですが、それを繋ぐのが経済人だというのがありますね。

 文乃 そうですね、経済で深く繋がっていますから、そこでなんとかいい局面をまた迎えられることを期待しています。

 白鳥 1899年の布引丸事件というフィリピンの独立戦争においても、フィリピンの独立を支援したのがやっぱり梅屋庄吉さんでしたよね。

 文乃 はい。資金援助をしていました。その時の梅屋と高遠出身の中村弥六とのやりとりが資料として残っています。

 白鳥 中国の独立だけでなく、フィリピンの独立も支援していたんですね。

 文乃 さらにはインドの独立も手伝っています。ですから新宿中村屋のラス・ビハリ・ボースたちを、中村屋にかくまっていたのも頭山満や梅屋庄吉たちです。当時の写真も残っています。

 当時アジアで独立運動をしようという人たちは、日本が明治維新を成功させていたので来る人が多かったようです。梅屋は香港で孫文とも会っていますが、エミリオ・アギナルド(初代大統領)とも会っているのです。梅屋もアギナルドらとフィリピンに行き、フィリピン革命の支援もしていました。実際にフィリピンに自分も梅屋も行って、アギナルドたちとフィリピン革命の算段もしています。

 ─ 単なる金儲けというよりも、アジア全体の独立を考えていたんですね。

 文乃 子孫には何にも残っていないので、金儲けどころか全部使っちゃっていますから(笑)。当時そのことを一番に考えてアジア各国の独立を支援し、東洋の平和をかなえたいという祖先の強い思いを私は感じていますね。

この記事の関連ニュース