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【倉本 聰:富良野風話】秋の終わりに

財界オンライン 2024年12月17日 15時0分

11月の末。

 どうも昨夜は深く眠れたと思って窓のカーテンを開いたら、森は昨日の景色と一変し、全てを包みこむ雪景色だった。雪の降る夜は深く眠れる。

 その雪の中に黒々と横たわる熊笹の群落の中央部に、何やらビシッと荘厳に立つ数本の尖った枝のようなものが見えると思ったら、巨大な一頭の牡鹿だった。2、3週前までは恋の季節で牡と牝とが互いを求めるキョーンという呼び声が森にひびいていたものだったが、その声も今は果て、鹿は熊笹の中でソヨとも動かない。どうもこの秋の異常気象を、あれは一体何だったのかと深く哲学しているらしい。

 この秋は何ともけたたましい秋だった。

 例年に比べて紅葉の季節が短く、その分、激しかったせいか、あわてふためいた観光業者、報道の連中があちこちをせわしなく飛び廻り、インバウンドの外人を対象に、あちこちに渋滞のフンヅマリが起きた。短い商いのチャンスを求めてライトアップするやら、プロジェクションマッピングなどという邪悪な光線で貴重な電力を浪費するやら。

 かつて富良野にラベンダーブームが起こったとき、どこもかしこもラベンダーで埋まり、カメラをかまえた観光客が紫のその花を懸命に撮りまくる。折からその時期、彼らの背後には純白に輝くジャガイモの花が一斉に咲き競い、その美しさといったら見事なものなのだが、誰もそっちへは目を向けようとしない。この人たちには美が判っているのか、バカじゃないかと呆れたものである。

 紅葉が見られる国は世界的にも珍しく、東アジアの沿岸部や、アメリカ、ヨーロッパの一部でしか見られないという。日本以外の国では1カ所で見られる紅葉は紅または黄色の一色のみで、紅葉した木々の紅・黄色と、常緑樹の緑という3色が1カ所で見られる日本の紅葉風景は、世界的に見たい人が多いのだろうと思われる。

 だが、今の世界的な見せるための工夫は自然光で見せず─しかも、それも天上からの光で見せるのでなく、反自然的な地上から上へ向けての光の照射で見せるという、人工的・科学的な方角へ向かってしまっている。古の俳人・詩人がこの見せ方を見たら一体どういう感想を持つのだろうか。

 そのうち気の狂った科学者が化学的紅葉を編み出して、それを賞讃する鑑賞者が現れるような世の中にならねば良いが、紅葉はあくまで人間の情緒感に訴える自然そのものの創作美である。

 その点、今の観光思想は、本来、人が自然から与えられている恩恵・感じとれる筈の恩恵に人が気づきにくい現象を引き起こしているように考えてしまう。これは本来、人が持っている情緒感さえ破壊するものだ。

 自然の中で余計なサービスをする愚はもう止そう。自然そのものが放つ美しさこそを、素直に僕らは味わうべきである。

【倉本 聰:富良野風話】ノー・ペッペ

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