天才肌の柔道家 野村忠宏の人となり
野村忠宏は日本を代表する柔道家。初めて出場したアトランタ五輪(1996年)で、男子60㌔級の金メダルを獲得。続けて、シドニー(2000年)、アテネ(2004年)と3大会連続で金メダル獲得という快挙を成し遂げた。
こう書くと、天才肌の選手に見られがちだが、野村の柔道人生にも厳しい局面はあり、それを努力で乗り越えてきた。
”彼は非常に誠実です”という木村の人物評。
野村は1974年(昭和49年)12月、奈良県北葛城郡広陵町生まれで、柔道一家に育った。5歳の時、祖父・野村彦忠が創設した「豊徳館野村道場」で柔道を始めた。
父は柔道の名門・天理高校(奈良)の柔道部監督を務めた野村基次。父・基次は1984年ロサンゼルス五輪の金メダリスト・細川伸二ら、名選手を育てたことでも知られる。
基次の弟、つまり野村の叔父・野村豊和は1972年ミュンヘン五輪の金メダリスト。まさに柔道一家という環境下で野村は育った。
得意技は背負い投げ。多彩な技を持ち、その技も切れが良く、スピードある攻め。加えて、天性の守りが天才的と言われる。
野村はアトランタで金メダルを獲得し、次のシドニーでも日本代表に選ばれた。
出発前、木村にあいさつに来た野村は「社長、僕は全部技を変えて全部一本で勝ちます」と五輪に臨む気持ちを伝えた。
野村はこの時25歳。シドニーは2度目の五輪出場で、 ”全試合一本勝ちする”という気持ちで試合に臨んでいた。
「自分の思う通りの柔道をやったんです」と木村は同大会での野村を評価する。
「とんでもなく強かったわ。もう子供を捕まえるように相手を投げてね。約束通り、全部技を変えて勝ちました」
野村は出場種目も60㌔級で、身長も160㌢ちょっとと小柄。どこにあんな力強い背負い投げを生み出すエネルギーがあるのかと思えるような体格。
木村は、自分の目指す柔道を実現するため、稽古に励み、技を磨き上げていくという野村の柔道を極める姿勢に感服した。
シドニー大会から帰国後の2人の会話がまた軽妙で面白い。
「社長、全部技を変えて、言った通りになったでしょう」と野村が言えば、木村は「お前、そんな自慢するな(笑)」と切り返し、「本当に強かったと野村の親父さんも言っていた。あんなに勝てる者はいないと父親が感心しておられるほどでしたからね」と述懐している。
ミキハウスグループ代表・木村 皓一の「世界の子供に笑顔と安心を!」(第15回)
中学時代の試合で女子選手に敗退して…
背負い投げで一本勝ち――。
そういう力強いイメージの野村だが、意外にも最初から強い選手ではなかった。
野村は1987年に天理中学校に進学すると、最初の試合で女子選手に負けてしまったというエピソードがある。もともと体格も小さく、当時は体重も30㌔台だったという。
「親父さんも、もうこの子は小さくて、柔道部へ入れとは言えなかったと言うんです」
体格には恵まれなかった野村がなぜ、五輪で金メダルが獲れるほど強くなれたのか?
「やっぱり考え方でしょうね。得意技の一本背負いとか、誰が相手でも絶対にかけられるようにする。世界に通用する技を磨いていくということを、自分なりに考えて、やってきたということですよね」と木村。
そうした考えのもと、練習に励む。日々の稽古が世界一の技を築いていったということだ。
「何かやれと言われなくとも、やはり優れている人は普段から努力し続けていますね。だから、ミキハウスの人の採用でも、努力してきた人たちを採用するように心掛けています」と、木村は語る。
伸びる人材とはどういう人なのかという問いに、木村からは「放っておいても努力する人」と、即座に答えが返ってくる。
柔道でも、卓球でも、野球でも、試合の度にテレビなどで『ミキハウス』の文字が目に映る。
「あの会社は知っているということで、また、いい人材が入ってくれています」と木村。
本人が努力する舞台を用意するのが経営者の務めという木村の考えである。 (敬称略、以下次号)
【倉本聰:富良野風話】スポーツの祭典
野村忠宏は日本を代表する柔道家。初めて出場したアトランタ五輪(1996年)で、男子60㌔級の金メダルを獲得。続けて、シドニー(2000年)、アテネ(2004年)と3大会連続で金メダル獲得という快挙を成し遂げた。
こう書くと、天才肌の選手に見られがちだが、野村の柔道人生にも厳しい局面はあり、それを努力で乗り越えてきた。
”彼は非常に誠実です”という木村の人物評。
野村は1974年(昭和49年)12月、奈良県北葛城郡広陵町生まれで、柔道一家に育った。5歳の時、祖父・野村彦忠が創設した「豊徳館野村道場」で柔道を始めた。
父は柔道の名門・天理高校(奈良)の柔道部監督を務めた野村基次。父・基次は1984年ロサンゼルス五輪の金メダリスト・細川伸二ら、名選手を育てたことでも知られる。
基次の弟、つまり野村の叔父・野村豊和は1972年ミュンヘン五輪の金メダリスト。まさに柔道一家という環境下で野村は育った。
得意技は背負い投げ。多彩な技を持ち、その技も切れが良く、スピードある攻め。加えて、天性の守りが天才的と言われる。
野村はアトランタで金メダルを獲得し、次のシドニーでも日本代表に選ばれた。
出発前、木村にあいさつに来た野村は「社長、僕は全部技を変えて全部一本で勝ちます」と五輪に臨む気持ちを伝えた。
野村はこの時25歳。シドニーは2度目の五輪出場で、 ”全試合一本勝ちする”という気持ちで試合に臨んでいた。
「自分の思う通りの柔道をやったんです」と木村は同大会での野村を評価する。
「とんでもなく強かったわ。もう子供を捕まえるように相手を投げてね。約束通り、全部技を変えて勝ちました」
野村は出場種目も60㌔級で、身長も160㌢ちょっとと小柄。どこにあんな力強い背負い投げを生み出すエネルギーがあるのかと思えるような体格。
木村は、自分の目指す柔道を実現するため、稽古に励み、技を磨き上げていくという野村の柔道を極める姿勢に感服した。
シドニー大会から帰国後の2人の会話がまた軽妙で面白い。
「社長、全部技を変えて、言った通りになったでしょう」と野村が言えば、木村は「お前、そんな自慢するな(笑)」と切り返し、「本当に強かったと野村の親父さんも言っていた。あんなに勝てる者はいないと父親が感心しておられるほどでしたからね」と述懐している。
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中学時代の試合で女子選手に敗退して…
背負い投げで一本勝ち――。
そういう力強いイメージの野村だが、意外にも最初から強い選手ではなかった。
野村は1987年に天理中学校に進学すると、最初の試合で女子選手に負けてしまったというエピソードがある。もともと体格も小さく、当時は体重も30㌔台だったという。
「親父さんも、もうこの子は小さくて、柔道部へ入れとは言えなかったと言うんです」
体格には恵まれなかった野村がなぜ、五輪で金メダルが獲れるほど強くなれたのか?
「やっぱり考え方でしょうね。得意技の一本背負いとか、誰が相手でも絶対にかけられるようにする。世界に通用する技を磨いていくということを、自分なりに考えて、やってきたということですよね」と木村。
そうした考えのもと、練習に励む。日々の稽古が世界一の技を築いていったということだ。
「何かやれと言われなくとも、やはり優れている人は普段から努力し続けていますね。だから、ミキハウスの人の採用でも、努力してきた人たちを採用するように心掛けています」と、木村は語る。
伸びる人材とはどういう人なのかという問いに、木村からは「放っておいても努力する人」と、即座に答えが返ってくる。
柔道でも、卓球でも、野球でも、試合の度にテレビなどで『ミキハウス』の文字が目に映る。
「あの会社は知っているということで、また、いい人材が入ってくれています」と木村。
本人が努力する舞台を用意するのが経営者の務めという木村の考えである。 (敬称略、以下次号)
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