米国、アジアでの成長を目指して
─ コロナ禍など環境変化の激しい時期の社長就任となりましたが、まずコロナ禍の事業への影響は?
天野 当社の国内での手持ち工事は順調に進んでいますし、コロナによって工事が中断している現場もありませんから、現時点で社業への影響は小さいと思います。
ただ、今後はこれだけヒト・モノが移動しなかったわけですから、いい影響が出るはずがありません。一方、この変化によって活気づいた産業もあるわけですから、斑模様なんだと見ています。
海外については東南アジアで広範囲に工事が止まっている一方、欧米は堅調です。国として前向きな雰囲気があること、流通関係の仕事が多いことが要因です。特に米国はあれだけの大国で人口がさらに増えており、経済の活力を感じます。
─ 鹿島は海外は米国やアジアなど海外に早くから進出していますが、今後どのような戦略で進めますか。
天野 日本はどうしても人口が減少していきますから、将来の経済規模を考えると海外に力を入れていくことになります。ご指摘のように業界の中では、米国、アジアにかなり早く進出しており、今ではそれなりの規模の事業を築いています。
その歴史の中で人脈を構築してきた他、米国で施工会社、デベロッパーを買収し、開発から施工まで手掛けることができる体制となっています。
また、現地に駐在をし、密着した形での経営を目指していますから、単に企業を買収して、その売り上げをカウントするのではなく、実質的な経営を意識しているんです。
過去の歴史を振り返ると、うまくいかなかったこともありますから、その経験、教訓を踏まえて、今はかなり安定した経営になっていると思います。足元では主に物流倉庫や住宅関係の工事を受注しています。
─ アジア事業の今後をどう見ていますか。
天野 発展のポテンシャルが非常に高いですし、日本との親和性が高い。今、アジアではシンガポールに拠点を置いていますが、日本よりも規制が少ないですし、金融・経済情報が集まる場所です。
最近ではITなど先端技術の情報、スタートアップの情報が集まる場所でもあります。今後は新社屋の建設など、さらに充実した拠点にしたいと考えています。
─ 海外事業の売上高比率はどうなっていますか。
天野 2020年度で25・7%です。これをまずは3分の1に持っていき、長期には5割を目指したいと思っています。
─ 人員の確保についても多国籍展開になりますか。
天野 そうですね。新入社員であれば国内で5年くらい経験して鹿島の品質を学んでもらった上で海外に行き、マネジメントを経験してもらうといった選択肢もある。
その上で、国内で次のステップに行くのか、そのまま海外で事業拡大に貢献してもらうかということを検討していく。
今は、国内でステップアップするにしても、やはり海外経験は必要だと思いますから、語学力も大事になります。さらに海外の方々が日本に来て仕事をすることも増えてくるでしょう。
再生エネルギーに注力
─ 人口減少というお話がありましたが、改めて国内市場をどう考えていきますか。
天野 2030年くらいまでのことを考えると、まず建築に関して東京で言えば大型の再開発案件が各所にありますし、大阪では2025年に万博もあります。もちろん、当社が全て受注できるというわけではありませんが、順調に市場に出てくれば建設市場全体としてありがたいことです。
また土木の方ではインフラの改修、再整備があります。高度成長期に国土を形成してきた施設も、年数が経って手を入れなければならない時期に来ています。行政側もそれなりの予算を付けていますから、底堅いものがあります。
─ 日本は菅義偉首相が2050年のカーボンニュートラルを宣言するなど、脱炭素の流れができています。どのように対応しようと?
天野 国としての方針ですから、しっかり進めなければならないと考えています。当社は現在、秋田県の秋田港、能代港で着床式洋上風力の工事に取り組んでいます。国内で初めての商業ベースでの洋上風力発電事業となる見通しです。
また、水素については北海道河東郡鹿追町で家畜の糞尿からバイオガスを発生させ、そこからメタンガスを抽出、それを水蒸気と反応させて水素を発生させるという事業に参画するなど、従来の建設業とは少し距離のある分野にも入っています。
それ以外にもバイオマス発電にも携わっています。九州の霧島酒造さんの工場から出た焼酎粕を発酵させてバイオガスを回収して、発電などのエネルギーに利用する事業で発電設備の建設を手掛けているんです。今は小さなリサイクルですが、スマートシティにもつながる考え方だと思っています。
─ 設備を建設するだけでなく、エネルギーをどう活用するかという部分にまで入り込んでいると。
天野 そうです。中核事業である建築・土木の生産性を上げ、洗練させていくことが大前提ではありますが、我々としてはできることは何でも取り組んでいこうと考えています。社員も知恵を出すことが求められますから、育てる意味も込めています。
社会課題解決に向けたソリューションの一端で、事業化や実際の経営という面では今後、乗り越えなければならないことが出てくると思いますが、追求していきたいと思います。
─ ところで現在、東京・浜松町の「世界貿易センタービルディング」の解体工事を手掛けていますね。2029年度の全体工事完成を目指して新築工事に入るそうですが。
天野 そうです。当社は1968年に日本最初の超高層ビルである「霞が関ビルディング」の施工を手掛けましたが、世界貿易センタービルは2番目に着手した物件です。超高層ビル群の勃興期のモニュメンタルなビルの解体が始まっているというのはエポックな出来事だと思います。
超高層も第2世代に向かっていく流れがあるわけですが、一方で1974年竣工の「新宿三井ビルディング」は、現在の姿を残したまま、当社が屋上に超大型制震装置を取り付けて、今後も使い続けることになっています。どちらも当社の技術が活かされています。
建設のデジタル化を含め建設業の高みを目指す!
─ この4月から新たな中期経営計画をスタートさせていますが、改めて鹿島をどういう会社にしていきたいと考えていますか。
天野 昨年亡くなりました、当社の鹿島昭一相談役が目指していた、開発、エンジニアリング、設計、施工、維持管理という建物の一生に関わることができる多機能な会社を目指すという方針を継続しながら、できる限り高みを目指していきたいと考えています。
─ 全産業的にデジタル化が課題ですが、どう取り組んでいこうと。
天野 今、当社は土木工事において、建設機械の自動化技術を核とした次世代の建設生産システム「クワッドアクセル」を開発し、秋田県の「成瀬ダム堤体工事」などで活用しています。
これまではベテランの、熟練したオペレーターが建機を動かしてきたわけですが、彼らがどういう軌道で機械を動かしているのかをデジタルで記憶して、自動で再現できるようにする。
将来に向けて、月での無人での施工による有人拠点建設に向けてクワッドアクセルの活用を検討していますが、足元では造成工事で使用することになります。
それ以外にもデジタル、ITを活用し、建築における鉄骨の自動溶接、建物内の自動搬送などで自動化を進めています。建設作業員の方々が、今後さらに不足していきますから、その負担を減らすのは必然の方向だと思います。
─ この分野で日本の技術は世界の最先端を行っている?
天野 そう思います。ただ、AI(人工知能)などは、やはり米シリコンバレーや、先程申し上げたシンガポールなどの方が進んでいます。今後は現地で他社との共同研究や情報交換を進めて、WIN・WINの関係を築くようにしていく必要があると思っています。
─ コロナ禍を受けて、リモートワークなど新たな働き方も浸透しつつあります。
天野 先日もアイルランドのお客様とウェブを通じて会話をしましたが、今はコロナ禍で外に出られない、あるいは会えない状況の中で、現場も含めてビデオ会議の便利さを再認識しましたね。
ただ、我々建設業は労務と成果がかなり正比例します。アイデアを出して、その日の成果が出たら、それでよしという形にはならないんです。やはり朝8時から夕方5時までの作業量で出来高が決まる。コロナ禍の中で「エッセンシャルワーカー」(社会生活を送る上で欠かせない仕事に携わる人)とも言っていただいたのは、こういう側面があるからだと思います。
これは未来永劫変わらないことだと思いますから、その性質上、破壊的イノベーションが起きにくい業界ではありますが、やはりIT化、デジタル化を進めていかないといけません。まずはウェブとビデオ会議でできることはどこまでか、やはり現場でフェイス・トゥ・フェイスでなければいけないのは何なのかを再認識するいい機会です。
浜松、横浜での工事から学んだこと
─ 天野さんは大学院で建設工学を学んだわけですが、建設を選んだ理由は何でしたか。
天野 まず数学の方が成績がよかったことで理数系を選んだわけですが、その中で機械や電機などがある中で建設がいいなと思ったのがきっかけです。当時は社会的に建設が注目されて勢いがあり、就職先としても人気がありました。
今はそういう状況にはありませんから、いかに優秀な学生に入ってもらうかは課題です。ただ、ITが主流になる世の中で、建築・土木から学生の関心が離れている傾向が見えます。我々は工場を持たず、資産はやはり「人」ですから、人材獲得には注力したいと思っています。
─ これまで携わってきて記憶に残る仕事にはどういうものがありますか。
天野 一つは静岡県浜松市の「アクトシティ浜松」です。ホールやホテル、商業施設などが入り、建築費は約1664億円と当時の鹿島で一番の超大型プロジェクトでした。
当時、押味(至一)会長が、超高層ビルを担当する課長でした。工区が4つあったのですが、私は後方で現場事務所や食堂づくりから、竣工後のメンテナンスまで、全ての工事の調整業務に携わりました。物量といいますか、工事の大きさを体感しましたね。
また、浜松の前に38歳で初めて、横浜の飲料工場の工事で所長を務めました。50億円のプロジェクトでしたが、経験が浅かったこともあり、非常に厳しい経験でした。
当時、当社では30代で所長を務めるというのは異例のことでした。ただ、バブル経済期で工事も多かったですから、会社としては年齢的には少し心配だけどもやらせてみようということだったのだと思います。
─ この経験から何を学びましたか。
天野 所長は、ある意味で後ろに誰もいませんから、技術、マネジメントの経験が浅い中ではありましたが、やりがいはありました。途中、一部工事のやり直しなどもありましたが、最終的には工期を守ることができ、お客様にご評価いただけて嬉しかったことを覚えています。
【関連記事】鹿島社長に建築畑・天野裕正氏、デジタル化、人手不足が課題
─ コロナ禍など環境変化の激しい時期の社長就任となりましたが、まずコロナ禍の事業への影響は?
天野 当社の国内での手持ち工事は順調に進んでいますし、コロナによって工事が中断している現場もありませんから、現時点で社業への影響は小さいと思います。
ただ、今後はこれだけヒト・モノが移動しなかったわけですから、いい影響が出るはずがありません。一方、この変化によって活気づいた産業もあるわけですから、斑模様なんだと見ています。
海外については東南アジアで広範囲に工事が止まっている一方、欧米は堅調です。国として前向きな雰囲気があること、流通関係の仕事が多いことが要因です。特に米国はあれだけの大国で人口がさらに増えており、経済の活力を感じます。
─ 鹿島は海外は米国やアジアなど海外に早くから進出していますが、今後どのような戦略で進めますか。
天野 日本はどうしても人口が減少していきますから、将来の経済規模を考えると海外に力を入れていくことになります。ご指摘のように業界の中では、米国、アジアにかなり早く進出しており、今ではそれなりの規模の事業を築いています。
その歴史の中で人脈を構築してきた他、米国で施工会社、デベロッパーを買収し、開発から施工まで手掛けることができる体制となっています。
また、現地に駐在をし、密着した形での経営を目指していますから、単に企業を買収して、その売り上げをカウントするのではなく、実質的な経営を意識しているんです。
過去の歴史を振り返ると、うまくいかなかったこともありますから、その経験、教訓を踏まえて、今はかなり安定した経営になっていると思います。足元では主に物流倉庫や住宅関係の工事を受注しています。
─ アジア事業の今後をどう見ていますか。
天野 発展のポテンシャルが非常に高いですし、日本との親和性が高い。今、アジアではシンガポールに拠点を置いていますが、日本よりも規制が少ないですし、金融・経済情報が集まる場所です。
最近ではITなど先端技術の情報、スタートアップの情報が集まる場所でもあります。今後は新社屋の建設など、さらに充実した拠点にしたいと考えています。
─ 海外事業の売上高比率はどうなっていますか。
天野 2020年度で25・7%です。これをまずは3分の1に持っていき、長期には5割を目指したいと思っています。
─ 人員の確保についても多国籍展開になりますか。
天野 そうですね。新入社員であれば国内で5年くらい経験して鹿島の品質を学んでもらった上で海外に行き、マネジメントを経験してもらうといった選択肢もある。
その上で、国内で次のステップに行くのか、そのまま海外で事業拡大に貢献してもらうかということを検討していく。
今は、国内でステップアップするにしても、やはり海外経験は必要だと思いますから、語学力も大事になります。さらに海外の方々が日本に来て仕事をすることも増えてくるでしょう。
再生エネルギーに注力
─ 人口減少というお話がありましたが、改めて国内市場をどう考えていきますか。
天野 2030年くらいまでのことを考えると、まず建築に関して東京で言えば大型の再開発案件が各所にありますし、大阪では2025年に万博もあります。もちろん、当社が全て受注できるというわけではありませんが、順調に市場に出てくれば建設市場全体としてありがたいことです。
また土木の方ではインフラの改修、再整備があります。高度成長期に国土を形成してきた施設も、年数が経って手を入れなければならない時期に来ています。行政側もそれなりの予算を付けていますから、底堅いものがあります。
─ 日本は菅義偉首相が2050年のカーボンニュートラルを宣言するなど、脱炭素の流れができています。どのように対応しようと?
天野 国としての方針ですから、しっかり進めなければならないと考えています。当社は現在、秋田県の秋田港、能代港で着床式洋上風力の工事に取り組んでいます。国内で初めての商業ベースでの洋上風力発電事業となる見通しです。
また、水素については北海道河東郡鹿追町で家畜の糞尿からバイオガスを発生させ、そこからメタンガスを抽出、それを水蒸気と反応させて水素を発生させるという事業に参画するなど、従来の建設業とは少し距離のある分野にも入っています。
それ以外にもバイオマス発電にも携わっています。九州の霧島酒造さんの工場から出た焼酎粕を発酵させてバイオガスを回収して、発電などのエネルギーに利用する事業で発電設備の建設を手掛けているんです。今は小さなリサイクルですが、スマートシティにもつながる考え方だと思っています。
─ 設備を建設するだけでなく、エネルギーをどう活用するかという部分にまで入り込んでいると。
天野 そうです。中核事業である建築・土木の生産性を上げ、洗練させていくことが大前提ではありますが、我々としてはできることは何でも取り組んでいこうと考えています。社員も知恵を出すことが求められますから、育てる意味も込めています。
社会課題解決に向けたソリューションの一端で、事業化や実際の経営という面では今後、乗り越えなければならないことが出てくると思いますが、追求していきたいと思います。
─ ところで現在、東京・浜松町の「世界貿易センタービルディング」の解体工事を手掛けていますね。2029年度の全体工事完成を目指して新築工事に入るそうですが。
天野 そうです。当社は1968年に日本最初の超高層ビルである「霞が関ビルディング」の施工を手掛けましたが、世界貿易センタービルは2番目に着手した物件です。超高層ビル群の勃興期のモニュメンタルなビルの解体が始まっているというのはエポックな出来事だと思います。
超高層も第2世代に向かっていく流れがあるわけですが、一方で1974年竣工の「新宿三井ビルディング」は、現在の姿を残したまま、当社が屋上に超大型制震装置を取り付けて、今後も使い続けることになっています。どちらも当社の技術が活かされています。
建設のデジタル化を含め建設業の高みを目指す!
─ この4月から新たな中期経営計画をスタートさせていますが、改めて鹿島をどういう会社にしていきたいと考えていますか。
天野 昨年亡くなりました、当社の鹿島昭一相談役が目指していた、開発、エンジニアリング、設計、施工、維持管理という建物の一生に関わることができる多機能な会社を目指すという方針を継続しながら、できる限り高みを目指していきたいと考えています。
─ 全産業的にデジタル化が課題ですが、どう取り組んでいこうと。
天野 今、当社は土木工事において、建設機械の自動化技術を核とした次世代の建設生産システム「クワッドアクセル」を開発し、秋田県の「成瀬ダム堤体工事」などで活用しています。
これまではベテランの、熟練したオペレーターが建機を動かしてきたわけですが、彼らがどういう軌道で機械を動かしているのかをデジタルで記憶して、自動で再現できるようにする。
将来に向けて、月での無人での施工による有人拠点建設に向けてクワッドアクセルの活用を検討していますが、足元では造成工事で使用することになります。
それ以外にもデジタル、ITを活用し、建築における鉄骨の自動溶接、建物内の自動搬送などで自動化を進めています。建設作業員の方々が、今後さらに不足していきますから、その負担を減らすのは必然の方向だと思います。
─ この分野で日本の技術は世界の最先端を行っている?
天野 そう思います。ただ、AI(人工知能)などは、やはり米シリコンバレーや、先程申し上げたシンガポールなどの方が進んでいます。今後は現地で他社との共同研究や情報交換を進めて、WIN・WINの関係を築くようにしていく必要があると思っています。
─ コロナ禍を受けて、リモートワークなど新たな働き方も浸透しつつあります。
天野 先日もアイルランドのお客様とウェブを通じて会話をしましたが、今はコロナ禍で外に出られない、あるいは会えない状況の中で、現場も含めてビデオ会議の便利さを再認識しましたね。
ただ、我々建設業は労務と成果がかなり正比例します。アイデアを出して、その日の成果が出たら、それでよしという形にはならないんです。やはり朝8時から夕方5時までの作業量で出来高が決まる。コロナ禍の中で「エッセンシャルワーカー」(社会生活を送る上で欠かせない仕事に携わる人)とも言っていただいたのは、こういう側面があるからだと思います。
これは未来永劫変わらないことだと思いますから、その性質上、破壊的イノベーションが起きにくい業界ではありますが、やはりIT化、デジタル化を進めていかないといけません。まずはウェブとビデオ会議でできることはどこまでか、やはり現場でフェイス・トゥ・フェイスでなければいけないのは何なのかを再認識するいい機会です。
浜松、横浜での工事から学んだこと
─ 天野さんは大学院で建設工学を学んだわけですが、建設を選んだ理由は何でしたか。
天野 まず数学の方が成績がよかったことで理数系を選んだわけですが、その中で機械や電機などがある中で建設がいいなと思ったのがきっかけです。当時は社会的に建設が注目されて勢いがあり、就職先としても人気がありました。
今はそういう状況にはありませんから、いかに優秀な学生に入ってもらうかは課題です。ただ、ITが主流になる世の中で、建築・土木から学生の関心が離れている傾向が見えます。我々は工場を持たず、資産はやはり「人」ですから、人材獲得には注力したいと思っています。
─ これまで携わってきて記憶に残る仕事にはどういうものがありますか。
天野 一つは静岡県浜松市の「アクトシティ浜松」です。ホールやホテル、商業施設などが入り、建築費は約1664億円と当時の鹿島で一番の超大型プロジェクトでした。
当時、押味(至一)会長が、超高層ビルを担当する課長でした。工区が4つあったのですが、私は後方で現場事務所や食堂づくりから、竣工後のメンテナンスまで、全ての工事の調整業務に携わりました。物量といいますか、工事の大きさを体感しましたね。
また、浜松の前に38歳で初めて、横浜の飲料工場の工事で所長を務めました。50億円のプロジェクトでしたが、経験が浅かったこともあり、非常に厳しい経験でした。
当時、当社では30代で所長を務めるというのは異例のことでした。ただ、バブル経済期で工事も多かったですから、会社としては年齢的には少し心配だけどもやらせてみようということだったのだと思います。
─ この経験から何を学びましたか。
天野 所長は、ある意味で後ろに誰もいませんから、技術、マネジメントの経験が浅い中ではありましたが、やりがいはありました。途中、一部工事のやり直しなどもありましたが、最終的には工期を守ることができ、お客様にご評価いただけて嬉しかったことを覚えています。
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