日本の化学発祥の地・京都で創業
―― 1909年(明治42年)の創業から110年余が経った第一工業製薬ですが、創業の原点から教えてもらえますか。
坂本 当社は素材メーカーですが、原点は蚕から効率的に絹糸を取り出すための界面活性剤、商品名で言うと『蚕繭解舒液(さんけんかいじょえき)』という繭を洗う工業用薬剤を製造したのが始まりです。
負野(おうの)小左衛門、中村嘉吉郎、小野茂平の3人が創業者で、京都・西本願寺の門前にある負野薫玉堂という400年以上続く線香屋の納屋で産声を上げました。
京都というのは、日本の化学発祥の地なんです。というのも、 1868年が明治維新で、翌年の1869年に大阪、翌70年には京都で舎密局(せいみきょく)が開校されました。大阪舎密局は第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となっているんですが、この舎密というのはオランダ語の「シェミー(化学)」を意味しています。
―― つまり、舎密はオランダ語の当て字だったと。
坂本 ええ。当時、東京遷都により沈滞した京都の産業を興さなければならない。そう考えて舎密局が設立されまして、舎密局というのは今でいう科学技術庁のようなものです。当時の産業というのは絹織物しかなかった。そこで新しい産業を創ろうと考えて、舎密局が化学に目を付けたわけです。
島津製作所の創業者である初代島津源蔵氏は舎密局で学んでいます。二代目は、日本電池(現GSユアサ)を創業します。化学専門商社の長瀬産業や稲畑産業も京都が発祥。京都が日本の化学発祥の地というのは、そういうことなのです。
―― なるほど。京都の文明開化というか、起業家の集まってくる歴史や風土が京都にはあったんですね。
坂本 はい。蚕繭解舒液というのは、蚕からきれいに糸を紡ぐための、油脂を取り除く石鹸のようなものです。後に『シルクリーラー』と改称されたんですけど、これによって紡糸の生産性が向上し、当時の日本の基幹産業だった、絹産業における量産技術の確立に大いに役立ちました。わたしはこれを”第1の創業”と呼んでいます。
その後、1934年(昭和9年)に日本初の高級アルコール系洗剤、後の『モノゲン』を発売。モノゲンと言えば第一工業製薬、第一工業製薬と言えばモノゲンと言われるようになり、1956年(昭和31年)には日本初の中空粒状合成洗剤『アルコ』が誕生しました。わたしがまだ小学生だった昭和30年代は羽振りが良くて、「モノゲン製品、金の指輪プレゼント」なんてテレビCMをやっていたくらいでした(笑)。
実は、あまり誇れる話ではないのですが、当社と花王さんは同じような時期にできた会社なんですね。
資生堂・魚谷雅彦の原点回帰論「日本的価値や良さで、グローバル市場に挑戦」
―― 花王は1887年の創業ですね。
坂本 そこから100年以上経って、花王さんの売上高は1兆3820億円(2020年12月期)、当社は591億円(2021年3月期)。だから、業績ではこれだけの差がついてしまったんですが、それでも、合成洗剤をつくったのは当社の方が早かったということです。
何が言いたいかというと、この間、わたしどもは残念ながら価格競争の中で競争力を失っていった。いわゆる、今で言うコモディティ化の波についていけなくなり、生き残ることができなくなった。それでBtoC(消費者向け取引)を放棄し、BtoB(企業間取引)に特化することになったのです。
―― 会社としては大きな決断ですね。これはいつ頃の話ですか。
坂本 1973年です。ここから家庭用製品の販売をやめて、界面活性剤の技術をベースにした工業用製品に特化していくようになりました。
そうして現在の中間材料屋となっていくのですが、これが”第2の創業”です。
―― 家庭用製品から工業用製品へとシフトしていったと。
坂本 そうです。当社は、この時から表に出るような家庭用製品ではなく、縁の下の力持ちである工業用製品に特化していったのです。
わたしは富士銀行(現みずほ銀行)の出身で、当社に入社したのが2001年でした。当時は赤字転落に無配で、一時はかなり苦しい時期もありました。
この辺の話は、後ほどお話ししたいと思いますが、それでも地道に社員一同頑張りまして、2007年の夏でしたかね。『会社四季報』で当社の紹介が「界面活性剤の老舗」から「工業用薬剤の首位」という表現に替わったんです。
―― これは嬉しかったでしょうね。
坂本 ええ。なかなか当社くらいの事業規模で首位なんて書いてもらえませんから、素直に嬉しかったですよ。
その後、わたしは2013年に会長となり、社長を兼任するようになったのが2015年なんですが、この時、わたしは「これまでは工業用薬剤でずっと来たが、これからの時代を見据えて健康食品やライフサイエンスの分野に入るぞ」と宣言しました。
これが”第3の創業”でして、現在は界面活性剤からウレタン材料、アメニティ材料、パソコンやスマートフォンに使われる機能材料や電子デバイス材料まで、人間生活に関わるあらゆる材料をつくっている。そういう会社でございます。
―― なるほど。界面活性剤をベースにビジネス領域を広げてきたということですね。
坂本 ただ、最近になって思うのは、工業用薬剤の首位というのは、商品の数が多いということなんです。ですから、逆に言うと非効率でもあるんですよね。だから、この辺は冷静に見ておく必要があると思います。
「目指しているのは、インフルエンザと変わらない世界の実現」 手代木 功 塩野義製薬社長
―― 1909年(明治42年)の創業から110年余が経った第一工業製薬ですが、創業の原点から教えてもらえますか。
坂本 当社は素材メーカーですが、原点は蚕から効率的に絹糸を取り出すための界面活性剤、商品名で言うと『蚕繭解舒液(さんけんかいじょえき)』という繭を洗う工業用薬剤を製造したのが始まりです。
負野(おうの)小左衛門、中村嘉吉郎、小野茂平の3人が創業者で、京都・西本願寺の門前にある負野薫玉堂という400年以上続く線香屋の納屋で産声を上げました。
京都というのは、日本の化学発祥の地なんです。というのも、 1868年が明治維新で、翌年の1869年に大阪、翌70年には京都で舎密局(せいみきょく)が開校されました。大阪舎密局は第三高等学校(京都大学の前身校)の源流となっているんですが、この舎密というのはオランダ語の「シェミー(化学)」を意味しています。
―― つまり、舎密はオランダ語の当て字だったと。
坂本 ええ。当時、東京遷都により沈滞した京都の産業を興さなければならない。そう考えて舎密局が設立されまして、舎密局というのは今でいう科学技術庁のようなものです。当時の産業というのは絹織物しかなかった。そこで新しい産業を創ろうと考えて、舎密局が化学に目を付けたわけです。
島津製作所の創業者である初代島津源蔵氏は舎密局で学んでいます。二代目は、日本電池(現GSユアサ)を創業します。化学専門商社の長瀬産業や稲畑産業も京都が発祥。京都が日本の化学発祥の地というのは、そういうことなのです。
―― なるほど。京都の文明開化というか、起業家の集まってくる歴史や風土が京都にはあったんですね。
坂本 はい。蚕繭解舒液というのは、蚕からきれいに糸を紡ぐための、油脂を取り除く石鹸のようなものです。後に『シルクリーラー』と改称されたんですけど、これによって紡糸の生産性が向上し、当時の日本の基幹産業だった、絹産業における量産技術の確立に大いに役立ちました。わたしはこれを”第1の創業”と呼んでいます。
その後、1934年(昭和9年)に日本初の高級アルコール系洗剤、後の『モノゲン』を発売。モノゲンと言えば第一工業製薬、第一工業製薬と言えばモノゲンと言われるようになり、1956年(昭和31年)には日本初の中空粒状合成洗剤『アルコ』が誕生しました。わたしがまだ小学生だった昭和30年代は羽振りが良くて、「モノゲン製品、金の指輪プレゼント」なんてテレビCMをやっていたくらいでした(笑)。
実は、あまり誇れる話ではないのですが、当社と花王さんは同じような時期にできた会社なんですね。
資生堂・魚谷雅彦の原点回帰論「日本的価値や良さで、グローバル市場に挑戦」
―― 花王は1887年の創業ですね。
坂本 そこから100年以上経って、花王さんの売上高は1兆3820億円(2020年12月期)、当社は591億円(2021年3月期)。だから、業績ではこれだけの差がついてしまったんですが、それでも、合成洗剤をつくったのは当社の方が早かったということです。
何が言いたいかというと、この間、わたしどもは残念ながら価格競争の中で競争力を失っていった。いわゆる、今で言うコモディティ化の波についていけなくなり、生き残ることができなくなった。それでBtoC(消費者向け取引)を放棄し、BtoB(企業間取引)に特化することになったのです。
―― 会社としては大きな決断ですね。これはいつ頃の話ですか。
坂本 1973年です。ここから家庭用製品の販売をやめて、界面活性剤の技術をベースにした工業用製品に特化していくようになりました。
そうして現在の中間材料屋となっていくのですが、これが”第2の創業”です。
―― 家庭用製品から工業用製品へとシフトしていったと。
坂本 そうです。当社は、この時から表に出るような家庭用製品ではなく、縁の下の力持ちである工業用製品に特化していったのです。
わたしは富士銀行(現みずほ銀行)の出身で、当社に入社したのが2001年でした。当時は赤字転落に無配で、一時はかなり苦しい時期もありました。
この辺の話は、後ほどお話ししたいと思いますが、それでも地道に社員一同頑張りまして、2007年の夏でしたかね。『会社四季報』で当社の紹介が「界面活性剤の老舗」から「工業用薬剤の首位」という表現に替わったんです。
―― これは嬉しかったでしょうね。
坂本 ええ。なかなか当社くらいの事業規模で首位なんて書いてもらえませんから、素直に嬉しかったですよ。
その後、わたしは2013年に会長となり、社長を兼任するようになったのが2015年なんですが、この時、わたしは「これまでは工業用薬剤でずっと来たが、これからの時代を見据えて健康食品やライフサイエンスの分野に入るぞ」と宣言しました。
これが”第3の創業”でして、現在は界面活性剤からウレタン材料、アメニティ材料、パソコンやスマートフォンに使われる機能材料や電子デバイス材料まで、人間生活に関わるあらゆる材料をつくっている。そういう会社でございます。
―― なるほど。界面活性剤をベースにビジネス領域を広げてきたということですね。
坂本 ただ、最近になって思うのは、工業用薬剤の首位というのは、商品の数が多いということなんです。ですから、逆に言うと非効率でもあるんですよね。だから、この辺は冷静に見ておく必要があると思います。
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