情報の整理項目は、
*内燃機関は未来永劫無くならない *EV車は単なる動力源が違うだけの未完成車両 *自動車生産経験が無ければまともな製品は作れない *中国の思惑と欧州の誤算 *EV車は総合的に評価すれば環境には却って良くない *「自動運転」は別次元の論点である *将来的には「水素社会」となる
であった。
前回に続き、残る以下の項目について解説しよう。
*中国の思惑と欧州の誤算 *EV車は総合的に評価すれば環境には却って良くない *「自動運転」は別次元の論点である *将来的には「水素社会」となる
*中国の思惑と欧州の誤算
●EV車と騒ぎだした元凶は中国
工業技術レベルが低く、モータリゼーション後進国の中国にとっては、内燃機関搭載車が主流である限り、未来永劫先進国の後塵を拝し続けざるを得ない。しかし電動モーターと適当な車載電池さえ調達すればし、「自動車」の形をした乗り物をでっち上げることが出来ると考えた。
勝負の土俵を改変して、工業高校レベルの知識さえあれば、容易に生産可能な「自動車」擬きの代物を代替品とすれば、「内燃機関」の呪縛から解放されると考えた。
●中国の尻馬に乗った欧州勢
中国と欧州を比較すれば、工業技術レベルは「月と鼈(すっぽん)」「雲泥の差」があるので、欧州は中国側に立って日本に対抗するには「EV車」が有利だと考えた。誰でも造れるEV車で、欧州勢は中国の技術に負ける筈が無いと考えた訳だ。
EV車を普及させるには独裁政権の強権を発動して、内燃機関搭載車の登録制限をしたり、EV車に優先的に登録枠を与えるだけで、何とでも出来る。
また「補助金」と明白に判るやり方では無く、いろいろな手段を用いて「安価なEV車」の生産を可能とした。
正規のルールでは無く、裏でいろいろ工作すれば、「価格競争力」を発揮するのは容易だ。
その結果、欧州勢はEV車に突っ込んだ結果、本来大切に育てて行かなければならない自国の自動車産業と、それを支える裾野の企業を棄損しただけとなり、今頃になって内燃機関搭載車、HV車への回帰に躍起となっている。
*EV車は総合的に評価すれば環境には却って良くない
内燃機関搭載車は、一部の例外を除けば一般的には「化石燃料」を「燃やす」ことで稼動している。
これに対し、EV車は車載電池に充電した電力でモーターを回して稼動している。
そこで、「走行中には、排気ガスを排出しない」部分だけを採り上げて「環境に優しい」と短絡的な評価をする。
しかし自家用の太陽光発電で得た電力を充電して走行する場合を除いて、一般的には電力会社からの電気を充電して走行している。
だが国内の電力は、主に火力発電に由来する。
加えて、EV車の生産には、モーターにはレアアース、車載電池にはリチウム等を必要とし、この採掘等に伴う「環境汚染」が大きい。
またEV車は車体重量が重く、タイヤ等の交換頻度も多い為、その意味からも環境負荷が大きい上、車載電池の処理の問題も未解決のままである。
従って、生産から実用期間、廃車後の処理を総合的に勘案すれば、EV車の環境負荷の方が大きいとされる。
*「自動運転」は別次元の論点である
●自動運転は別の問題
西部劇で、街の酒場で酔い潰れたカーボーイが、酒場の入り口に繋いである、乗って来た馬に仲間が担いで乗せる。尻を叩かれた馬は、酔い潰れた主人を乗せて自分の牧場に向かって歩きだす。
これが「自動運転」のイメージだ。
つまり、運転者が「操縦操作」をすること無く、目的地に移動することが可能になるのが「自動運転」なのだ。
EV車と「自動運転」を関連付けての論説が目立つが、「自動運転」の技術は別次元のテーマである。
原動機が「ガソリンエンジン」「ディーゼルエンジン」「蒸気機関」「電動モーター」その他何であっても、「自動車」を操縦する人間=ドライバーの負担軽減をするのが、「自動運転」だ。
EV車の自動運転中の空間で、「エンタメ」なんぞと的外れな議論がなされているが、僅かにEV車と「自動運転」の親和性が高いのは、内燃機関のコントロールを電気信号で行う場合に較べて、電動モーターのコントロールをする方が、システム的により簡素なシステムが組めると言うだけの話だ。
駕篭の中でも、牛車の中でも、「エンタメ」を楽しむことは有り得る筈だ。
*将来的には「水素社会」となる
●多様な動力源を適材適所に利用する
将来的にも「自動車」は、主力は内燃機関搭載車であり続ける。詳しく分類すれば、コンボイに代表される超大型トレーラー類は「燃料電池車」。
大型バスや長距離トラックは、「クリーンディーゼル車」や「燃料電池車」。
一般的な乗用車は「水素エンジン車」、「ハイブリッド車」、「クリーンディーゼル車」、「燃料電池車」等が担う。
特筆すべきは、水素を直接内燃機関の燃料として使用する「水素エンジン車」である。
EV車は「路線バス」、「域内配送車」、「市街地向けコミューター」といった分野にのみ活路があるだろう。
いずれにしても、「自動車」の将来は、近視眼的な視点では無く、冷静な分析が必須である。