【明治維新に学ぶ】「馬関戦争」で長州藩は目を覚ました 2つの戦争が近代化の起爆剤に

夕刊フジ / 2018年7月12日 17時1分

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馬関戦争があった関門海峡(夕刊フジ)

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 1863(文久3)年5月、攘夷に燃える長州藩が、馬関海峡(=現在の関門海峡)を航行中の米国船をはじめ、フランス、オランダの船を相次いで砲撃を加えた。攘夷戦争の始まりである。

 翌月、その報復として米国やフランスの軍艦が現れて、長州藩の軍艦を壊滅させ、砲台も破壊した。「下関事件」である。それでも長州藩は外国船を討ち払う攘夷の姿勢を変えることはなかった。

 吉田松陰が教えた松下村塾の塾生だった長州藩士、高杉晋作が、藩士によらず、農民や町人など、さまざまな身分の志願者によって編成した奇兵隊を創設したのは、このときである。

 下関事件は尾を引いた。翌64(元治元)年8月5~7日、長州藩への懲罰のため、英国、米国、フランス、オランダの17隻からなる四カ国連合艦隊が下関に現れ、長州藩の砲台に対して徹底した砲撃を加えたうえで、近代的装備の各国陸戦隊が上陸して砲台を占領した。

 「馬関戦争」と呼ばれるこの戦いは、長州藩の惨敗だった。長州藩は、西洋諸国との技術力の差を思い知り、軍事近代化の必要性を痛感した。外国を討ち払う「攘夷」を捨てて、開国派の旗手となったのである。

 前回紹介した薩摩藩は、63(文久3)年の薩英戦争で目覚め、英国との関係を深めていった。西洋の技術を学ぶために、65(慶応元)年には使節団を英国に派遣した。

 薩摩藩と長州藩は、ともに外国に敗れた。だが、当時の日本人は、ただちに相手国に学び、その優秀な軍備やシステムを取り入れ、二度と負けないように軍の近代化を図って国を守ろうとした。

 両藩は、互いに反目する「犬猿の仲」だったが、誰よりも日本の近代化の必要性を痛感した。だからこそ後に、坂本龍馬の仲介で手を結んだ。薩英戦争と馬関戦争は、まさに「明治維新の起爆剤」だったのである。

 ところが、約80年後の大東亜戦争はどうか。

 同じく外国に敗れた。だが、戦後の日本は、あろうことか軍備を捨ててしまい、ひたすら平和を唱えることで日本を守れると信じてしまったのだ。まるでカルト宗教のようである。

 脅威から目をそむけ、「平和になれ!」というおまじないを、ただ繰り返し唱えれば、脅威は消滅して平和が保たれるのだろうか。

 明治維新を成し遂げた、長州、薩摩両藩の志士たちが、こんなバカげた発想を聞いたら、何と思うであろう。

 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒業。専門は、軍事安全保障・外交問題・近現代史。「軍事漫談家」の異名も持つ。産経新聞「正論」欄執筆メンバー、国家基本問題研究所企画委員などを務める。第17回「正論新風賞」受賞。主な著書・共著に『東京裁判をゼロからやり直す』(小学館新書)、『本当は戦争で感謝された日本』(PHP文庫)など多数。

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