【IEEIだより】福島レポート 加害者というレッテルの貼られ方 「炎上」はシステムエラーで起こる 戦略としての反省(1)

J-CAST会社ウォッチ / 2019年10月8日 7時0分

「そろそろ前向きな原子力の議論をしたい」

最近、原子力やエネルギーに関わる人々の間で、このような言葉を聞くことがあります。

原子力に関する非生産的な論争は、しばしばネガティブキャンペーンのシンボルとして福島を巻き込みます。それが風評被害の長期化へもつながっている、という背景を鑑みれば、原子力について前向きな議論をしたい、という意見自体にはうなずけるものもあります。

ただ、問題はこうした発言がいつ、誰に対して、どのように行われるのかについて、十分な配慮がなされていないように見えることが多い、という点です。

「炎上」の仕組み

ここであえて「見える」と書いたのは、当事者が本当にその配慮をしているかどうかは関係ない、という点を強調するためです。配慮の目指すところは、相手にそれを伝えることであり、相手から「気を遣っていることが十分にわかる」ことが重要です。

つまり、「配慮」というものは単なる善意ではなく、発信の戦略の一部として考える必要があると思いす。「人に伝えよう」という発信は、人を傷つけ得ます。それでも不要な争いは避けるべきです。そのような戦略を立てるためは、気持ちだけではなく技術が必要です。

本編と次稿では、これまで福島の中で見てきた事例から、組織が引き起こす「炎上」の仕組みについて考察するとともに、エネルギー業界を医療業界と対比することで見えてくる、配慮や反省という技術につき、述べてみようと思います。

人を社会的に攻撃するために有効な方法は、その人の加害者性・反社会性を強調することです。

「この発言に傷つけられた」
「あの振る舞いが社会に害をなしている」

炎上の多くは、匿名の集団が特定の個人を加害者として糾弾することから始まります。原発事故の後に福島県の居住区の安全性について説明した人々に対して、

「福島が安全と宣伝する人々は人殺しだ」

などといった発言が、よく見られたのもその例でしょう。

「加害者は悪」という金科玉条を掲げる人々が、それをもって効果的に人を攻撃する。いつのまにか加害者が逆転している、という皮肉な側面は、攻撃者が多数であり、匿名であることから、糾弾されることがありません。

このため、加害者性を煽る発信は、多くの社会運動で繰り返されてきた手段でもあります。インターネットとSNSという効率的な情報共有システムは、そのような「加害者狩り」を高度に効率化してしまいました。その結果生じたのが炎上という社会現象だ、というのが、私の印象です。つまり、炎上は便利な情報共有システムの発展が生んだ副作用、とも言えるのかもしれません。

寄り添いと線引き

エネルギーや原子力にまつわる炎上は、同時に起きた福島についての炎上と、しばしば混同されます。しかし上記の理屈から言えば、これは真逆の現象である、という点には注意が必要だと思います。

福島にまつわる炎上は、福島県に住む人々を過剰な被害者と設定することで起こります。ですから、福島県の明るい話、前向きな話を積極的に発信し、その被害者性を減らすことは、風評払拭という点で有効な手立てです。

一方、エネルギー関係者が同じ手法を持って「原子力の風評」を払拭しようとしたらどうなるでしょうか。震災の加害者として世間に「設定」されている業界のそのような態度は、世間の負のイメージを煽ることになりかねません。

エネルギーに関係される方の中には震災後の福島にもコミットされている方が多いため、どうしても福島の復興と気持ちが同期しがちです。

「福島の方々もこんなに復興しているのだから、自分たちも頑張らなくては」

そういった気持ちの上での寄り添いが、却って誤解を生むこともあり得ると思います。これはエネルギーの関係者に限りません。たとえば福島県について内輪の方がブラックジョークを飛ばしたとしても、

「福島県の住民の方々が笑い飛ばしているのだから、自分も笑ってよいのだ」

ということにはなりません。

少なくとも公の場ではそれは許されないことでしょう。

医療者と患者の関係にもあることですが、現場に寄り添いすぎて「立場の差」という客観的視野を見失ってしまうことが、炎上の一因となります。なぜなら炎上は、親しみを込めたつもりの個人の発言を意図的に組織者の発言に挿げ替えることで起きることが多いからです。加害者になりやすい職業の人間は、このことを常に意識しておく必要があります。

「加害者」の職業

では、どのような職業の人間が「加害者」と呼ばれやすいのでしょうか――。代表的なものには、政府、医療、そして2011年以降のエネルギー産業界があるでしょう。

これらの業界の共通点は、社会への有益性の代償として、何らかのリスクを他者に負わせる、という点だと思います。

たとえば多くの政策は、一部の国民に生活リスクを負わせる可能性があります。生活保護の支給条件を決めれば、その条件から少しだけ外れた方が一番の弱者になる、などがそれに当たります。医療は治療という行為の代わりに副作用や有害事象のリスクを患者に負わせます。言い換えれば、

「弱者にリスクを負わせてのうのうとしている」

という構図を作りやすい職業、とも言えるでしょう。本当の現状を知る人々は反論もあるでしょう。しかし一たん、この単純な構図が作られてしまえば、それに対し反論することは困難だ、ということもご存知だと思います。

エネルギー業界についても同様のことが言えます。たとえば発電は、その大きな有益性の代償として、発電所による環境破壊や発電所事故のリスクを立地地域の住民に負わせている、とみなされるからです。

 重要なことは、加害者性が批判を受ける場面では、その技術の有益性は考慮されない、ということです。つまりエネルギーがどれだけ有益であっても、エネルギーそのものにリスクが内在する以上、その加害者性という側面はなくならないのです。

「炎上」が阻む反省

炎上という現象の特徴は、その反射性・無思想性にも関わらず、自分という個人が攻撃されたように感じるという点にあります。その時に当事者の心にまず起こることは、自己防衛反応です。

自身の体験ともなりますが、震災後数年の間、福島県内の居住性・安全性を説く人々は軒並み「御用学者」と呼ばれ、常に炎上の対象となっていた時期がありました。

「福島では炎上を経験して一人前」

当時、発信を続けた人々のあいだでは、冗談半分にそのような言葉もよく聞かれたほどです。批判的な意見を冗談に置き換え、耳を閉ざさなければ身が持たない。当時の福島県内には、そういう雰囲気が流れていました。

もちろん、冗談として流すことのできた人々ばかりではありません。

「自分が直接事故を起こした訳でもないのに、なぜここまで責められなければならないのだ」

と悩んだ方々が、無差別な炎上に疲弊して

「自分が責められるのは世間が何もわかっていないからだ」
「言葉尻さえ捕らえられなければいいのだ」

と、むしろ世間から隔絶し、お互いに慰め合える場所に引きこもることもあったでしょう。私が心配することは、当時最も激しく糾弾された方々の中には、当時の傷が今も癒えず、耳を閉ざし続ける人がいるのではないか、ということです。

組織に対する炎上は「構図」として起きます。つまり個人の言動が引き起こしているように見られがちな炎上も、その責任を個人の言動に帰することでは根本的解決にはなりません。むしろその批判の中には、個人ではなく組織が反省するための材料が含まれていることが多いように思います。しかし炎上の持つ個人攻撃性は、その反省の機会を奪ってしまいます。

謝罪しても弁解しても、全ての発言が言葉尻を捕らえられ、炎上する。その過激な「加害者狩り」は、一部に存在している真っ当な批判をかき消すには十分すぎる社会現象でした。この突然の社会現象により、エネルギー、特に原子力に関わる多くの方の間には、今でも世間に対する不信が深く刻み込まれているように見えます。

「エモーショナルな意見は聞きたくない」
「何も分かっていない外野のことなど耳を貸さないことにした」

当時矢面に立った方々からは、今でもそういう言葉を聞くこともあります。

もし組織としての対処がないままにこのような個人単位の自己防衛が続けば、結果として組織の排他性が加速し、むしろ対外的に気を遣わない内向的な発言が増えるという結果にもなりかねないのではないでしょうか。

「炎上」は情報社会の「反射運動」に過ぎない

私のたずさわる医療は「加害者側」の職業の代表的なものだと思います。事故や有害事象だけでなく、具合の悪い患者さんを何時間も待たせた、採血で何回も針を刺した、など、日々何らかの被害を患者さんに与え得るからです。そんな診療の現場を見ていると、クレームを受けるのは必ずしも怠惰な人、反省しない人ではない、ということがわかってきます。

「患者にこんなつらい思いをさせて反省の色がないのか!」

現場でそういう叱責されるのは、むしろ一生懸命だけれども経験の浅いスタッフであることのほうが多いのです。

そこには、主に二つの理由があります。

一つ目の理由は、経験の浅い人ほど人の叱責を受け入れる心の余裕がないことです。つまり人に迷惑を掛けた自分にショックを受けすぎて、自己防御が先に立ってしまうのです。

もう一つの理由は、反省を示す技術が足りないことです。自分では一生懸命謝っているつもりなのに先方にはその反省の意が伝わらず、「こんなに謝っているのに、なぜいつまでも怒られなければならないのだ」と態度を硬化させてしまうのです。

このような医療の現場において、医療者が患者の意見を受け入れ、健全な反省できるようになるためには、少なくとも二つの訓練が必要であることがわかります。一つは自分の仕事が人を傷つけ得るものなのだ、という事実に耐える訓練。もう一つは、「加害者」である自分が患者さんの目にどのように映るのかを客観的に観察する訓練です。

新人スタッフがミスにより叱責を受けぬよう、職場はミスを生みやすい作業プロセスを改善するだけでなく、スタッフにこの二つの訓練を提供する必要もあります。今、多くの医療現場で医療安全やマナーの研修が増えているのはこのためです。私は、医療に関らず加害者と呼ばれやすい職業の方々皆が受けるべき訓練なのではないかと考えています。

「政府は反省しない」
「原子力ムラは何も変わらない」

などという批判をネット上で見るたび、失礼と思いながらも思い浮かぶのは、患者さんに怒られて立ちすくむ研修医の姿です。

「炎上」という現象自体は、放置していれば沈静する、情報社会の反射運動に過ぎません。しかし、ある組織における個人が何かの炎上を引き起こした時、それはその組織が今の時代に十分対応できなかった「システムエラー」である可能性もあります。

つまり、組織として取り組まなければ、その組織に属する別の個人が同じような言動を繰り返し、同じ傷を負い続けてしまうのではないでしょうか。そのような傷を防ぐためにも、炎上は組織改革の材料として用いられるべきだと私は考えています。

加害者というリスクを負う職業に携わる方々を不要な傷から守るため、組織を挙げて反省という技術を戦略的に学んでいく必要がある、と私は思います。

次稿では、原子力発電所事故と医療事故を対比させながら、その戦略について考察します。(越智小枝)

越智 小枝(おち・さえ)
1999年、東京医科歯科大学医学部卒。東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科。東京都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことで災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ。2013年11月より相馬中央病院勤務。2017年4月より相馬中央病院非常勤医を勤めつつ東京慈恵会医科大学に勤務。
国際環境経済研究所(IEEI)http://ieei.or.jp/
2011年設立。人類共通の課題である環境と経済の両立に同じ思いを持つ幅広い分野の人たちが集まり、インターネットやイベント、地域での学校教育活動などを通じて情報を発信することや、国内外の政策などへの意見集約や提言を行うほか、自治体への協力、ひいては途上国など海外への技術移転などにも寄与する。
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。

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