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小フライに飛び込み右肘に大けが、661日ぶり復帰マウンドで再び小フライが…迷わず飛び込んだ桑田真澄の美学とは

読売新聞 / 2024年8月31日 10時0分

661日ぶりの復帰登板で、投球前にプレートに右手を添える桑田(1997年4月6日、東京ドームでのヤクルト戦で)

 マウンドで一人、打者と 対峙 たいじする投手は孤独な存在だ。常に勝利を託されるエースであれば、なおのこと。大黒柱として読売巨人軍を支えてきた桑田真澄氏(56)がエースの美学や 矜持 きょうじ、当時の苦労を語った。(敬称略)

プレートに右肘添え「戻ってきた」

 661日ぶりのマウンドに上がると、桑田は体を丸めてしゃがみ込み、祈るように右肘をそっとプレートに添えた。1997年4月6日、東京ドームでのヤクルト戦。「ありがとうございました。戻ってきました。これからもよろしく」。右肘手術からついに復帰。新たな決意を込めた「野球の神様へのあいさつ」だった。

 入団2年目に15勝を挙げるなど、若き大黒柱として活躍。最優秀防御率やリーグ最優秀選手(MVP)、ゴールデン・グラブ賞など数々の実績を積み上げていた。全盛期を迎えていた頃、大けがを負う。95年5月24日の阪神戦で、小フライに飛び込み右肘を強打。米国で内側側副 靱帯 じんたい再建術(トミー・ジョン手術)を受けることになった。

 今でこそ一般的な治療法だが、当時は選手生命を懸けた決断だった。米ロサンゼルスの病院で手術の朝、ベッドに乗せられて手術室に運ばれる際、廊下の天井を見ながら不安で涙がこぼれ落ちた。「復帰できたら野球の神様にあいさつしよう」。そう心に決めていたのだという。

 過酷なリハビリを乗り越えて臨んだ復帰戦で、もう一つ象徴的な場面がある。三回に小フライが上がると、大けがにつながった2年前と同様、再び飛び込んだのだ。迷いなく体が反応した。「全力プレーが僕のスタイル。投げて打って守って走る、そしてガッツを見せるという五拍子で戦ってきた投手なので」。桑田の美学が詰まったプレーだった。

背番号18にふさわしく

 86年にドラフト1位で入団した際、球団側に「18番に近い背番号を」とお願いした。手渡されたユニホームは18番。「すごくうれしかったし、責任感を覚えた。背番号18にふさわしいピッチャーになりたいという思いはそこから始まった」

 幸いにも藤田元司が監督として、堀内恒夫が投手コーチとして在籍した時代があった。「勝つだけでもだめだ。負けている時も18番の背中を野手みんなが見ている」「サラブレッドは駄馬とは違うんだ」――。様々な表現で18番の先輩がエースのあるべき姿を語ってくれた。背番号が持つ意味と大きな責任を胸に自らを鍛え、「18番が自分を大きくしてくれた」と言い切る。

 右肘を手術した後の長いリハビリ期間中も、「18番だから戻らないといけない」という義務感と「もうエースには戻れないんじゃないか」という焦りが「毎日交錯していた」と振り返る。重圧に苦しんだからこそ、視野は広がり、今は指導者として選手に寄り添い、実体験に基づく助言ができる。

 復帰後も、大リーグを経て引退するまで、守備も打撃も走塁もベストを尽くしてきた。今は菅野が18番。今後も後輩たちが受け継いでいく。21年間エース番号をつけた桑田は切に願う。「ローテーションをしっかり守り、チームが苦しい時こそ踏ん張る。大先輩が大切にしてくれた背番号だからこそ、エースの心構えを継承してもらいたい。やっぱり、打てる投手でいてほしいし、ゴールデン・グラブ賞を取れる守備力も身につけてほしいな」

くわた・ますみ 1986年、大阪・PL学園高からドラフト1位で入団、2年目から6年連続2桁勝利。94年、「10・8決戦」の胴上げ投手となった。通算173勝141敗14セーブ、防御率3・55。ゴールデン・グラブ賞8回。

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