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日本人の子に救命胴衣を譲った父を「誇りに思う」…洞爺丸事故で犠牲の米宣教師の長男「父を忘れないでほしい」

読売新聞 / 2024年9月25日 14時0分

大波で転覆した「洞爺丸」の船底(手前)(1954年9月26日、読売機から)

 北海道の函館湾で、台風の接近によって青函連絡船5隻が沈没し、1400人以上が亡くなった洞爺丸事故から、26日で70年となる。当時、洞爺丸に乗り合わせ、自身の救命胴衣を日本人の子どもに譲り、命を落とした米国人宣教師がいる。混乱の船内で宣教師が取った行動や自己犠牲の精神に、長男は「恐怖に屈することなく、周囲を助けた父を誇りに思う」と語る。

(北海道支社 野田快)

 宣教師のディーン・リーパーさん(当時33歳)は、戦後間もない日本でキリスト教青年会(YMCA)の普及に取り組んでいた。洞爺丸には、北海道での活動を終えて仙台市へ向かうために乗船していた。

 米アトランタで暮らす長男のスティーブン・リーパーさん(76)は、事故当時6歳だった。母からディーンさんが洞爺丸に乗船中、海難事故に遭って亡くなったと聞かされたが、「海軍出身の父は泳ぎの達人。どこかに泳ぎ着いて、絶対に生きているはず」と受け入れることができなかった。ただ、父子で参加する学校行事で自分の隣には父がいない。同級生らが仲良く笑い合うのを見て、父を失ったことを実感し、寂しさがこみ上げてきた。

 それでも壊れそうな心を支えたのが、伝え聞いた父の最期の姿だった。乗客の悲鳴や子どもたちの泣き声が船内に響くなか、父は得意のマジックを披露して周囲を和ませた。船が沈む直前、日本人の子どもに自分の救命胴衣を着せた――。

 父の優しくも強い振る舞いは、奇跡的に救出された別の宣教師や生存者らが証言していた。上前淳一郎さんのノンフィクション小説「洞爺丸はなぜ沈んだか」にもディーンさんの行動は記され、これまで語り継がれてきた。

 スティーブンさんは1984年に来日し、広島平和記念資料館(広島市)の展示や被爆者の体験談の翻訳に携わった。2007年には同館を運営する「広島平和文化センター」の理事長に米国人として初めて就任し、父と同じように日米の橋渡し役を担い、「相手のことを考えて行動する。それが戦争を避けて命を守ることにつながる」と考えてきた。

 今、悲惨な戦争や原爆の記憶が薄れていくように、時間の経過で洞爺丸事故を知らない世代も多くなったと感じる。読売新聞のオンライン取材に、スティーブンさんは「自らを犠牲にして他者を救った父を忘れないでほしい」と訴えた。

◆洞爺丸事故=1954年9月26日、台風15号の接近で函館湾に避難した青函連絡船の洞爺丸(4337総トン)など5隻が暴風と高波で転覆、沈没し、洞爺丸の1155人を含む1430人の死者・行方不明者が出た日本海難史上最悪の事故。生存者は洞爺丸の159人を含め、202人だった。事故を契機に、本州と北海道を結ぶ青函トンネル構想が具体化された。

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