５８年待ち焦がれた潔白「あんたが勝った、言うとおりになった」…何も語らぬ弟に姉は何度も言い聞かせた

袴田巌さんに再審無罪の判決を伝える姉のひで子さん（２６日午後１０時過ぎ、浜松市で）＝支援者提供の動画から

翻弄　袴田さん再審無罪＜上＞

　静岡県一家４人殺害事件で強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌さん（８８）の再審で、静岡地裁が無罪判決を言い渡した。事件と裁判に人生を 翻弄 （ほんろう）され、拘置所で人生の大半を過ごした袴田さん。失われた歳月は取り戻せない。この教訓を踏まえ、捜査機関や司法は今後、何をなすべきだろうか。

　２６日午後２時３分。法廷に裁判長の国井 恒志 （こうし）（５８）の声が響いた。「主文、被告人は無罪」。判決は、捜査機関による「三つの証拠 捏造 （ねつぞう）」にまで踏み込んだ。逮捕から５８年。家族や支援者が長年待ち焦がれた瞬間は、喜びと驚きとともに訪れた。

　国井は証言台の前のイスに座った巌の姉・ひで子（９１）をまっすぐ見つめ、はっきりとした口調で無罪を告げた。傍聴席が一瞬、「おお」とどよめく。

　４８年間の身柄拘束で心を病み、「拘禁症」を発症した巌の姿は法廷にはない。弟に代わり、「潔白」の意味を込めた白いブラウスを身につけて公判に臨んだひで子。無罪の２文字をかみしめるように、国井におじぎをした。

　その後、弁護人の隣に戻ったひで子は判決理由の朗読を聞きながら、あふれる涙をハンカチで何度もぬぐった。普段は気丈であっけらかんとした物言いのひで子だが、こみ上げる思いを抑えることはできなかった。

　「自白調書は非人道的な取り調べによって得られた」「『５点の衣類』は捜査機関によって捏造された」――。国井の厳しい指摘に、検察官の１人が虚空を見つめ、不満そうな表情を浮かべる場面もあった。

　最後に国井はひで子に向かい、改めて判決の要点を説明。声を詰まらせながら、「判決は巌さんに自由の扉を開けました。まだ、扉が閉まる可能性もあります。長い時間がかかったことは、裁判所として申し訳ないと思っています」「これからも心身ともに健やかにお過ごしください」と語りかけた。

　午後４時の閉廷後、地裁前で待ち構えていた支援者らは喜びに沸いた。笑顔のひで子は万雷の拍手で出迎えられた。

　沸き立つ周囲とは対照的に、巌はいつもと変わらない一日を過ごしていた。

　支援者によると、巌はこの日、浜松市内の自宅で午前８時に起床。昼食後の午後２時すぎ、無罪の報を受けた支援者が「いいことがあったって、今、連絡きました」と声をかけた。巌がその意味を問い返すことはない。そして、おもむろに「さて」とイスから立ち上がると、いつものように支援者が運転する車でドライブに出て、散歩した。

　市内の寺でさい銭を投げ込んだり、スーパーの駐車場に立ち寄ったり。買い物客から「よかったですね」と声をかけられたが、特に反応はせず、午後６時半頃に帰宅した。

　２０１４年に東京拘置所から釈放された後も意思疎通は難しく、「裁判は終わった」などと繰り返す巌。そんな弟を気遣い、ひで子はこれまで、巌の前では裁判の話を極力避けてきた。２６日は、判決のニュースが流れることを見越し、支援者が自宅のテレビのリモコンから電池を抜いたという。

　判決後、ひで子は静岡市内で記者会見に臨み、「『被告人は無罪』という言葉が神々しく聞こえました。感激するやらうれしいやらで涙が止まらなかった。これまでの５８年がすっとんじゃったような気がする」と顔をくしゃくしゃにした。

　会見で隣に座った弁護団事務局長の小川秀世（７２）は、「三つの捏造を認定した画期的な判決だ」と驚きを隠さなかった。「重要な証拠について捏造が認定されており、（検察側は）反論のしようがない」とも評価し、静岡地検には控訴を断念するよう要請した。会見場には、今年１月に８２歳で死去した弁護団長・西嶋勝彦の遺影も飾られた。

　事件は巌が３０歳、ひで子が３３歳の年に起きた。面会や差し入れ、無実を訴える活動に心血を注いできたひで子が、待ちに待った時間がついにやってきた。

　「無罪の判決が出た。あんたが勝った。あんたの言うとおりになった。これで終わったでね。安心しな」。午後１０時過ぎ、自宅に戻ったひで子は、イスに腰掛けた巌の肩を何度もたたきながら、ゆっくりと伝えた。

　うちわであおぎながら、少し表情がやわらいだようにも見える巌。ひで子は、「わかる？　わかるでしょ？」と顔をのぞき込み、何も語らぬ弟に繰り返し言い聞かせた。半世紀以上、願い続けた無罪判決。巌はいま何を感じているのだろうか。（敬称、呼称略）