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同人誌の文化を支える「印刷所」、ある作家が印刷を「全部断られて」たどり着いた道とは

読売新聞 / 2024年11月23日 17時0分

「ねこのしっぽ」玉川工場では着々と同人誌が作られていた。この機械は、ページ数の多い本のための「15クランプ無線とじ製本機」(7月10日、神奈川県川崎市で)

 同人誌文化の隆盛は、印刷所を抜きに語ることはできない。しかし、その実態はほとんど知られていない。ここで一つ、ユニークな会社を紹介しよう。(文化部 石田汗太)

脱サラしてできた「同人誌印刷所」

 同人誌印刷所は、コミックマーケットが始まった1970年代から存在する。「町の印刷所」が同人誌も手がけるケースが大半だが、97年創業の「ねこのしっぽ」(神奈川県川崎市)は、いささか事情が異なる。

 「ウチが他社と違うのは、我々が同人活動をしていて、そのために印刷会社を始めたところです」と、同社社長の内田朋紀(ともき)さん(57)は話す。専務の荒巻喜光さん(57)も、隣でニコニコとうなずいている。

 約30年前、ある人気少女漫画のファンだった内田さんと荒巻さんは、地元で二次創作のオンリーイベントを企画した。そのチラシを近所の印刷所に頼もうとして、思わぬ壁にぶち当たる。「10社以上回りましたが、『個人の仕事は受けない』と全部断られました」

 川崎市には大手電機メーカーが多く、地元印刷所はその仕事で手いっぱいだった。「じゃあ、自分たちでやるしかないねと。個人が気軽に頼める印刷所を作ろうと思ったんです」

 内田さんと荒巻さんは脱サラし、「ねこのしっぽ」を創業する。資金ゼロ、経験ゼロからの船出だった。

同人作家「印刷に目が肥えた人が多い」

 荒巻さんは、同人イラストレーター「牧村えりん」として、現在もコミケに参加している。内田さんとの出会いは、パソコン通信の「草の根ネット」だった。

 「2人ともパソコンでCGイラストを描くのが趣味でした。まだウィンドウズ以前のMS―DOS時代。カラーは16色しか使えず、描く道具はマウスだけでした」と荒巻さん。作品がたまると、やはり紙の本にしたくなる。内田さんと荒巻さんがサークルを作り、コミケに参加し始めたのは92年頃から。そんなオタク2人だけに、最初から同人誌印刷をメインにしていた。

 幸運だったのは、まもなく美少女ノベルゲームの大ブームが来たことだ。同人でデジタル絵描きも急増したため、同社はいち早くCTP(Computer To Plate)システムを導入、データ入稿できる業界初の印刷所となる。

 同人誌の主流はオフセット印刷だったが、少部数でも対応できるオンデマンド(注文生産)印刷への需要が高まった。しかしオフセットより印刷品質が劣る。同社は大手OAメーカーの新機種開発に技術協力し、オンデマンド印刷の水準を大幅に引き上げることに成功した。

 2012年に、日本印刷産業機械工業会の「Japan Color標準印刷認証」を取ったことも業界で話題になった。印刷色が正確に出ていることを認定する制度で、審査が厳格なため、全国でも200足らずの工場しか取得できていない。トップクラス印刷所の証しだ。

 「同人作家は印刷に目が肥えた人が多い」と内田さん。「いい仕事をすれば勝手に口コミで広がる。ダメな仕事をすれば見捨てられる。怖い業界ですよ」

印刷所が果たした歴史的役割

 「同人誌印刷所は全国に100社くらいある。即売会のインフラを支えてきたのは印刷所ですが、その実情がほとんど知られていない」と指摘するのは、オタク文化史に詳しい吉本たいまつさん(54)だ。今年3月に出た論文集「『同人文化』の社会学」(玉川博章編、七月社)で、印刷所が同人誌文化に果たした役割を歴史的に論じた。

 「そもそも、漫画印刷は町の印刷所には難しい仕事だった。『ナール』を先駆けとする70年~80年代の印刷所は、独自ノウハウで同人誌印刷の水準を上げ、量産を可能にし、コミケの急拡大につながった。赤ブーブー通信社のように、印刷所主導で始まった企業系即売会も80年代から盛んになった。印刷所が果たした役割は大きかったのです」

 同人誌で注目すべき本も出ている。2022年に発行された「同人誌即売会クロニクル1975―2022」は、コミケ以外の地方即売会や印刷所の動きなども追い、総合的な通史を目指した労作だ。著者の国里コクリさん(43)は、雑誌や同人誌、イベントカタログなどを元に、全国の即売会をデータベース化する作業を約15年間続けている。

 「中学の時からコミケに通っていますが、この世界がどのようにできたのか知りたかった」と国里さん。「コミケだけで即売会の歴史を論じることはできない。『クロニクル』をまとめて、やっと全体の景色が見えてきたので、今は重要な役割を果たした関係者のインタビューに注力しています」。同書は来年に商業出版される予定だ。

 吉本さんと国里さんは異口同音に、「貴重な証言者が高齢でどんどん減っている」と心配する。「同人誌学」が真の意味で成立するとしたら、ここ数年が最後のチャンスかもしれない。

競争より助け合い

 1993年、業界の安定的発展を目的とする「日本同人誌印刷業組合」が発足した。現在の加盟は20社。内田さんが理事長を務めている。組合HPによると、現在の同人誌市場は「800億円超」とのことだ。

 能登半島地震の時、納品不能になった「スズトウシャドウ印刷」への支援を各社に呼びかけたのは内田さんだった。「コロナの時期もお互い大変だったし、当然のこと。ウチは規模では中堅ですが、業界のリーダーになれるよう頑張りたい」。同人文化の中核にあるのは、競争よりも、助け合いの精神なのだ。

ノベルゲームとは…

 パソコン画面で小説を読むように進める電子ゲームの総称で、絵や音声を伴うのが特徴。1990年代後半に「(しずく)」「To Heart」(ともにLeaf)などの美少女ゲームが大ヒットし、現在のスマホ向けソーシャルゲームの源流の一つになった。東浩紀「動物化するポストモダン」(2001年、講談社現代新書)は、このジャンルをいち早く哲学的に論じた名著。

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