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10年待った自宅での暮らし、素直に喜べない理由とは 福島第1原発から6キロに帰還した老夫婦

47NEWS / 2021年12月30日 11時0分

自宅の居間に布団を敷き、談笑する田沢憲郎さん(右)とトキイさん夫婦

 東京電力福島第1原発事故で飛び散った放射性物質で、年間被ばく線量が50ミリシーベルト超(2012年3月末時点)とされた帰還困難区域。住民が避難した地域の中で最も厳しく立ち入りが規制されてきた約3万3700ヘクタールのエリアだ。被災者の間で「30年は戻れない」とうわさも立ったが、除染やインフラ復旧が進み、発生から11年となる22年春にも避難指示の解除が始まる。居住再開の準備のため、自宅に戻った70代の夫婦に同行した。(共同通信=西村曜)

 ▽複雑な心境

 福島県大熊町の元町職員、田沢憲郎さん(75)にとって21年12月3日は特別な日になった。帰還困難区域内の町中心部で「準備宿泊」が始まり、10年8カ月ぶりに自宅で寝泊まりできるようになったからだ。


灯がともる田沢さん宅

 「大熊で飲む酒はうめえ。このうまさは一生忘れらんねぇな」

 避難後初となる自宅での晩酌に満面の笑みがこぼれた。しかし続いて出てきたのは「まだ帰れない人を考えるとな、あまり大きな声でうれしいとも言えねえな」という言葉だった。

 田沢さん宅があるのは原発の南西約6キロの熊地区。町が22年春の避難指示解除を目指している特定復興再生拠点区域(復興拠点、約860ヘクタール)に含まれている。これまでも昼間に一時帰宅することはできたが、準備宿泊は文字通り準備のため実際に寝泊まりしながら不都合がないか確認する仕組みだ。

 およそ20年前に建てた木造2階建ては野生動物の侵入を免れ、きれいに残っていた。電気や水道は復旧しており、解除されれば妻トキイさん(75)と避難先の会津若松市から戻るつもりだ。

 ▽必ず「カエル」

 海沿いに福島第1原発の原子炉4基がある大熊町。2019年春に南西部の田園地帯で避難指示が解除され住民帰還は始まっている。ただ復興拠点はJR大野駅や旧町役場などがあり町民約1万1千人の半数が暮らしたかつての中心部。そこでの避難解除は復興にとって重要な節目となる。

 「鹿沼の避難所さ出る時、向こうの人がこれをくれたんだ」

 田沢さんは持参した手のひらサイズの石でできたカエルの置物を見せてくれた。事故直後に身を寄せた栃木県鹿沼市から福島県喜多方市の避難所に移る際、現地の人が「いつか必ず故郷に帰れますように」と願いを込め渡してくれたものだ。


避難先の栃木県鹿沼市でもらったカエルの置物

 「本当に帰ってこられたんだ。こんな日が来るなんてな、思ってなかったよ」。帰還を諦めていた17年秋、自宅周辺が復興拠点となったことを知り、やっぱり故郷に戻りたいとの思いが募るようになった。その後、子育てから手の離れた娘夫婦も追って町に帰ると言ってくれた。

 “帰還”がついに実現した夜、田沢さんはいとおしそうにカエルの背をなでた。

 ▽功罪

 前回自宅で夜を過ごしたのは東日本大震災が起きた2011年3月11日までさかのぼる。翌12日の早朝、夫妻は避難のバスに乗るため役場庁舎(当時)にいた。既に町役場を定年退職していた田沢さんは混乱の中、震災の4年前まで5期務めた元町長を見つけた。かつての上司は役場脇の縁石に座り込み、どてら姿で震えていた。

 「お互い『安心安全だ』って言って原発(の推進を)やってたべ。だから声なんて掛けらんねかった」

 田沢さんが役場に入った1960年代、町はとにかく貧しかった。目立った産業はなく、冬になると男たちは東京へ出稼ぎに行った。町税の滞納が頻発し、毎月の町職員の給与支払いにも頭を悩ますほどだったという。

 そんな時やって来たのが福島第1原発だった。71年から78年にかけて1~4号機が次々と営業運転を始めた。多くの雇用が生まれ、出稼ぎはなくなった。「お父ちゃんが冬、家にいるようになった」。町ではそんな喜びの声が聞かれた。

 原発は巨額の固定資産税をもたらし、作業員向けの飲食店や宿泊施設も潤った。大熊町は安定した税収を生かして公共施設や道路などを整備。公共料金を安くするなど住民サービスを充実させたため近隣自治体が過疎化にあえぐ中、震災直前まで人口は増えていた。

 「原発は科学の最先端だと思っていた。資源に乏しい日本には良い発電方法。首都圏の経済成長を支えている自負もあった」と田沢さんは振り返る。そんな原発が突然、日常を奪った。

 ▽帰れぬ人たち

 日が傾くと田沢さんは持参した日本酒で晩酌を始めた。一時帰宅では午後4時で帰還困難区域への入退ゲートが閉まるため、大熊で夕暮れを過ごすのも震災の日以来だ。

 「これまでは限られた時間であれやらなきゃ、これやらなきゃと忙しかった。でもきょうは終わりの時間が無いからうんとのんびりできている」とトキイさんも笑う。

 食卓には持参したおかずが並んだ。田沢さんは電話をかけてきた知人に「大熊さ来てんだ。俺は帰ってきたぞー」と上機嫌で呼び掛けた。


晩酌する田沢憲郎さん(右)とトキイさん

 隣でその様子をうれしそうに眺めていたトキイさんも家の中を見回し、「町内に住む孫たちがよく来てね。かくれんぼで家中を走り回っていたのよ」と思い出話を聞かせてくれた。一番小さかった孫娘も今年成人式を迎えた。

 しかし酒が進むにつれて田沢さんはこうもつぶやいた。

 「まだ『白地(しらじ)地区』や中間貯蔵施設の土地に住んでいた人を考えるとな。大熊には帰りたくても帰れない人がいっぱいいんだから」

 白地地区とは帰還困難区域で復興拠点から外れたエリアのことだ。大熊町では約2940ヘクタールある。21年8月に国が「20年代末までに希望者の土地は除染し避難指示を解除する」と表明するまで、方針すら示されていなかった。


「あまり大きな声でうれしいとも言えねえな」と視線を落とす田沢憲郎さん

 中間貯蔵施設は福島県内の除染で出た放射性物質を含む土などを30年間保管するため国が造成した。第1原発を取り囲む大熊、双葉両町の計約1600ヘクタールの敷地内に住んでいた人々は国に土地を売ったり貸したりした。家は解体され、焼却施設や土の保管場になっている。

 復興拠点の住民ですら多くの人が避難先に自宅を再建したり、仕事を見つけたり、子や孫の友人関係ができたりして簡単に町に戻れる状況ではなくなった。野生動物の侵入や雨風で傷んだ自宅を解体した人も多い。

 人口1万人余りの小さな町では多くが知り合い同士だ。さまざまな理由で「帰らない」と言わざるを得ない人を間近で見てきたからこそ、田沢さんは自身が戻れることを素直に喜ぶことができなかった。

 町によると、今回の準備宿泊の対象者は約2200世帯約6千人にいるが、宿泊を希望する人は15世帯31人にとどまっている。(21年12月7日現在)


夫婦で自宅の居間に布団を敷く

 「隣も向かいも解体されたから、高速道路が家からはっきり見えるようになっちゃった」。晩酌が終わる頃、田沢さんは窓の外に目をやった。夫婦で自宅に戻れても、10年という時間は故郷を事故前とはほど遠いものに変えてしまった。

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