「プロメア」熱いというよりむしろクレバー? 圧倒的熱量を支える“ルックの説得力”【藤津亮太のアニメの門V 第47回】

アニメ!アニメ! / 2019年6月7日 18時30分

アニメーターがキャラクターを描き、美術が描いた背景と重ね合わされ、カメラで撮影される。そんなシンプルな作り方にもかかわらず、確固たるアニメが自然と出来上がっていたのは70年代までのこと。

カンブリア爆発のような80年代、洗練への道筋が見えた90年代、デジタル化の00年代を経て、今や「どのような絵で語るのか」という点に自覚が求められるような時代となった。
これは「アニメに対する自意識」が当たり前に求められる時代になった、と言ってもいいだろう。

40年余の歴史の中で培われた「道具類の進化」と「絵柄の多様性」。
逆にいえば作り手は、そうしたさまざまな選択肢を考慮に入れつつ、作品ごとのルックを決定しなくてはいけない。もちろん多数の作品はそこに対して、もっとも保守的な回答を出すだろう。
だが、すべてがそういう作品であっては困る。

その点で『プロメア』は「今作るならば、こういうルックにこそ意味があるはずだ」という強い意思が感じられる作品だった。
本作のスタッフが手がけた作品は常に“熱い”“ケレン味”という常套句で語られがちだが、本作はそのルックの説得力からするとむしろクレバーな作品でもあった。

まず本作の背景はカートゥーンを思わせるような彩度の高い色調で塗られており、さらに輪郭線がない。
共通するスタッフが多く参加した『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』のカートゥーン調の世界観にも通じるスタイルで描かれている。
かなり細かく描きこんだり、質感表現に凝った背景も多い中、本作は「本物らしく見える」ことよりも「シンプルなわかりやすさ」のほうを採用している。

このスタイルのメリットとして、3DCG化しても、手描きの背景と違いが出にくい、ということがある。本作ではそれを生かして、アクションシーンでは3DCG化された空間の中をカメラが縦横に動き回っている。

そして背景の上に乗るキャラクターもまた、背景に準じた色彩で塗られている。
服の皺もシンプルだし、ハイライトをつけて質感を強調したり、影を何段にも塗り分けるような表現は採用されていない。
影の境界線は、シンプルに一直線に引かれることが多い。

こうしたシンプルな表現を土台の上に、独特のフォルムと塗り分けで表現されるエフェクト(炎や煙や氷。これは手描きと3DCGが入り混じっている)、キャラクターやメカなどに加えられるグラデーションの効果、その空間の空気感を伝える環境光などの情報がガッツリとトッピングされている。
単にシンプルを目指すだけではなく、このトッピングの部分で、ルックがリッチなものになっている。

そしてトータルとして、「その空間をあたかも実在するように感じさせる」のではなく「すべてが“絵”として魅力的に見える」という方向が目指されている。
こういう姿勢でルックが作られているから、3DCGと手描きが混在しても違和感が生じない。これは現代にアニメを作るにおいて非常に重要なポイントでもある。

本作は、この「すべてが絵であり、それを魅力的に見せる」という前提が土台となって出来上がっている。
それは、あえていうと「マンガ(的なるもの)の復権」とでもいうべき姿勢だ。

大事なのはここで追求されているのは、マンガゆえの奇想天外さではなく、「マンガだから」と許容されてしまう(ある種の)安直さとそれから生まれるスピード感だ。
そしてそのスピードこそが観客を想像もしなかった遠い場所へと連れていくことになる。

人類の突然変異体バーニッシュは、バーニッシュフレアと呼ばれる炎を操ることができる存在だ。
30年ほど前にバーニッシュが現れた直後は人類との間に激しい対立も起きたが、大惨事「世界大炎上」を経て、その多くが鎮圧・収容されており、さらに一部のバーニッシュは能力を暴走されることなく市民生活を送っていた。

今なお人類と対立するのはリオ・フォーティア率いるマッドバーニッシュのみ。
主人公ガロ・ティモスが所属する高速救命消防隊<バーニングレスキュー>は、バーニッシュによる火災などから人々を守るためのチームだ。

本作が見事なのは、このバーニングレスキューとバーニッシュの対比を、四角と三角の対立という形でビジュアルに落とし込んでいるところだ。
バーニングレスキューのメカは四角いし、消火のための凍結系射撃装備で発生する氷も四角い。

一方でバーニッシュが操る炎やそれから生まれる炎の竜、火の粉などはあえてローポリゴンで表現したような三角のモチーフの塊で表現されている。
こういう見た目の形で示されたわかりやすい対比がドラマと直結している様もまた“マンガ的”である。

そもそも映画の冒頭のモーショングラフィックの段階で、この映画が四角と三角の闘争であることが示されており、そこにはやがて丸が登場することも示されているのだ。
だから観客は「いつ丸が登場するのだろうか」と丸の存在を緊張しながら待つことになる。

そして物語が進んでいくとガロがこれまで信じてきた“常識”が覆されてしまう。脅威に思われていたものが弱く、信頼は裏切られる。
そして正しく思えた解決は、間違った結論であることが明かされる。それが120分を切る映画のなかでズバズバと明かされていく。

価値観の転倒は、劇的なストーリーにはしばしば登場する、ある意味では古典的な仕掛けだ。だが幸か不幸か、現代は、本作が描いたような、弱者への想像力を得て価値観を変えることが求められている時代でもある(これもまた半世紀ほど前のリフレインのようである)。
そういう一周回った現代性を、エンターテインメントの中で描くという点においても、マンガだからのスピード感はおおいに寄与している。

表現がリアリズムに寄ればよるほど、感情の変化を描くのに時間がかかってしまう。
それは見ている側が、「これだけの時間・過程があれば人間が変化する」と納得するだけの時間を必要とするからだ。

しかし、マンガ的な“見たまま=表層的”なキャラクターであれば、そこまで時間はかならない。泣いていたものがすぐ笑い、憎しみ合っていたものがある瞬間から心を一つにすることができる。 
その瞬間、観客の「マンガだから」という認識も、「マンガなのに」という認識へと変化する。この落差は心に深く刺さるし、70年代のアニメはそういう形で心に残る作品を作ってきた。

ただシンプルなアニメに回帰しただけでは、それは未来には繋がらない。かつてのアニメが持っていた「“マンガだから”から“マンガなのに”というダイナミズム」をいかに現代のアニメとして再生するか。

本作がクレバーと感じられたのは、そうした表現と物語の関係をうまく調和させているその手付きにある。
かくして『プロメア』は「こういうテもあるよ」と、未来の可能性を拡張したのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。最新著書は『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。

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