【ブログ】A-Trak:ビースティ・ボーイズを聴いて育った僕たち

AOL ミュージック / 2012年5月11日 16時40分

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音楽ファンならば、人生を通じて数多くのバンドを好きになるだろう。自分の部屋には沢山のポスターが張られ、憶えてしまったサビも沢山あることだろう。しかし、自分が落ち着いてくると、「こいつらに僕は育てられた。彼らこそが長年に渡ってクールとは何かを表現してきた存在だった。僕は彼らのようになりたかったし、彼らのやったことは全部勉強した」と思えるバンドは大抵1つだ。僕にとって、そして世代を超えた多くの人たちにとって、それはビースティ・ボーイズだった。アダム・ヤウクが亡くなったこの悲しみの中、彼らが僕にどのような影響を与えたのかを振り返らずにはいられない。

僕は10歳、11歳位になるまでは70年代の様々なクラシックロック、そしてレッド・ホット・チリ・ペッパーズにやや傾倒した感じのロックを聴いて育った。そしてそんな僕にとって、ビースティ・ボーイズは、僕の人生を変えることになる音楽ジャンル、ヒップホップへの入り口となった。僕の兄はバンドでギターをプレイしていた関係で、当時の僕は基本的に兄と彼の友人たちの音楽的趣向の変遷について行っていたのだが、「So What Cha Want」がリリースされた時、この曲が僕たちをヒップホップへと導いた。そして僕たちは2度とそこから戻ることはなかった。あの曲の全て、そしてビデオは、「クール」を体現したものだった。スケーターファッション、ディストーションのかかったボーカル、スクラッチ...。兄が友人から『Check Your Head』と『Paul's Boutique』のカセットを借りてきて、ダビングして僕にくれた。勿論、当時のビースティは既に大きなインパクトをシーンに与えていて、『Licence To Ill』も存在していたが、僕がこのアルバムを好きになるのは少し後だった。とにかく、彼らは人種の壁を取り払い、ビルボードチャートで1位を獲得し、Run DMCやパブリック・エネミーとツアーをした。彼らはリック・ルービンの名言の通り、「ヒップホップを郊外へ持ち出した」のだ。

少年時代の僕は『Paul's Boutique』と『Check Your Head』をカルチャーの海に完全に呑み込まれたような面持ちで聴いていた。この音は一体どうやって作っているのか? どうやってこんなにも様々な音をひとつにまとめ上げているのか? 僕はサンプリングについて何も知らなかったが、彼らによって一気にそれを学ぶことになった。兄と僕はアルバムのアートワークについても熱心に研究して、彼らのかぶっていたKangolのハットを手に入れようと走り回った。僕と兄はひたすら彼らの生み出す豊かで魅力的なカルチャーをかき集めようとするただの白人の子供だった。「So What Cha Want」の最初の部分に「Eddie Harris」という名前が出てくると、「Eddie Harrisって誰だ?」ということになり、これがきっかけでレコードを掘ることを始めた。またマイク・Dのパートで「Expansions」という言葉があり、それがLonnie Liston Smithのアルバムだと気が付いた時のことはよく覚えている。彼らのリリックは暗号に満ち溢れているかのようだった。そしてそれらを僕たちはひたすら解読しようとしたのだ。

インターネットが普及する前、僕たちは彼らからカルチャーを学んだ。兄はグラフィティにのめり込んだ。ビースティはグラフィティについても歌っていたし、伝説のグラフィティアーティスト、Eric Hazeは『Check Your Head』のアルバムアートを手掛けていたからだ。勿論、サンプルを使ったり、バギーパンツを履いたりしたのは彼らが初めてだったというわけではないが、ユダヤ系カナダ人の僕たちにそのようなカルチャーとウィットを教えてくれたのは彼らだった。彼らは知的ないたずら好きだった。それこそ僕たちが目指していたものだったが、彼らはそれを気取ることなく、等身大でどうすればそうなれるのかを表現した。ラップ界が彼らを愛するのはこれが理由だろう。彼らはただ彼らであり続けた。好奇心とキャッチーな楽曲を作る才能を持ったニューヨークの元気に満ち溢れた少年たちであり続けたのだ。

彼らの4枚目のアルバム『Ill Communication』がリリース前、僕たちはそのアルバムを今か今かと待ち望んでいた。その気持ちは数年後に『ウータン・フォーエヴァー』のリリースを待つ気持ちと同じものだったが、ビースティ・ボーイズと出会っていなければ、ウータンに対してこのような気持ちになることはなかっただろう。当時の僕は12歳で、DJを始めようとしていた時だった。兄が僕に「Sure Shot」の7インチをくれたのだが、そこに収録されているリミックスのイントロに使われている、MCAへ向けて歌われているアカペラが初めて僕がスクラッチをしたフレーズだった。僕は毎日学校から帰ると、父のターンテーブルを使ってその部分を擦り切れるまでスクラッチした。

「世代」を生み出す存在とは、音楽を超えた存在になる。カルチャーの媒介となる。素晴らしいセンスとビジョンを持っていたのがビースティ・ボーイズだった。彼らは15年間に渡り、世界最高のレーベルと雑誌の1つであるグランド・ロイヤルを運営した。雑誌のインタビューは歴史に残るものとなった。そして彼らの生み出したビデオも最高のものだった。彼らの皮肉のセンスは他の誰よりも先を行っていた。「Hey Ladies」のビデオは1989年の段階で既にアフロヘアとプラットフォームシューズを面白おかしく表現していたし、「Sabotage」のビデオは70年代の刑事もののテレビ番組を誰よりも早く取り入れていた。ちなみに彼らのビデオの多くは、アダム・ヤウクが変名Nathaniel Hörnblowérを使って制作したものだ。

僕が最初にビースティ・ボーイズに出会ったのは1998年の『Hello Nasty』ツアーの時だった。彼らはツアーに僕の友人であり師匠であるミックスマスター・マイクを雇っていたのだ。またオープニングアクトには、マニー・マークで、彼も僕の友人であるKid KoalaをDJとして起用していた。こうして僕は彼らのモントリオールとトロントのライブに同行することができた。バックステージの後継で思い出せるのは、控室の横にバスケットボールのゴールが設置されていたことと、ビズ・マーキーがジョークを飛ばし、アドロックがレコードを買いに行きたがっていたという光景だった。また、2004年にも彼らのライブを観る機会に恵まれたが、その時はオープニングアクトとしてドッグショーが開催されていた。本物のドッグショーだ。ラップのコンサートの前座に犬が輪をくぐり抜け、芸を披露していたのだ。20年以上のキャリアを誇っていても彼らはその不遜な態度を崩さなかった。

2007年にマニー・マークから電話があり、ビースティが兄のバンドChromeoを聴いて、カナダツアーのオープニングアクトに起用したがっていることを教えてくれた。この時に全てが彼らに最初に出会ったあの頃へ戻った。僕は誇りに思うと同時に、感謝の気持ちで一杯になった。また、このエピソードもビースティを顕著に物語っている。彼らは好奇心を決して失うことがなかった。そして全てをずっと自分たちで行っていた。僕たちも彼らの作り出した伝統に則っていければと願っている。

(原文:Yauch Rocked: Raised by the Beasties)
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A-Trak
グラミー賞ノミネーションDJ。プロデューサー。リミキサー

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