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百恵と淳子、このままでは“美空ひばり”になってしまう

アサ芸プラス / 2013年1月15日 10時0分

賞レースを制した淳子の心境

「秋田から上京したばかりの中学2年生でした。とてもチャーミングだけど、挨拶がビシビシとできる感じなのに驚きましたね」

 東京・渋谷にあった作曲家・中村泰士の自宅で、ビクターの新人ディレクターだった谷田郷士は、桜田淳子(54)と初めて顔を合わせた。谷田は、当時の環境を「渡辺プロへの対抗意識」だったと記憶する。長らく寡占状態にあったナベプロ帝国には、天地真理という最大のアイドルがいた。

 この牙城を切り崩すため、淳子のデビューにはビクターや所属のサンミュージック、これに日本テレビや作詞家の阿久悠が加わり、連日の議論が白熱した。

「天地真理と同じく正統派のラインでありながら、天地真理を超えたい。そのためには『天使』というコンセプトを徹底させ、曲のタイトルはもちろん、トレードマークの白い帽子にも『エンゼルハット』とネーミングしました」

 アイドル人気は順調な船出だったが、レコードの売上げは今ひとつ飛躍しない。賞レースの勝負曲となる「わたしの青い鳥」(73年8月)でようやく幅広い知名度を得たが、それでもベストテンには入らなかった。

 谷田は、百恵が2曲目の「青い果実」をベストテン入りさせたことに焦りを感じたが、それはホリプロ側も同じだろうと思った。

「淳子の翌月にデビューした石川さゆりに白いベレー帽をかぶせたり、百恵さんを淳子と同じ品川の中学に転入させたり、意識しているなと思いました」

 そして73年の大みそか、激戦のレコード大賞・最優秀新人賞を制したのは淳子だった。谷田は、お祝いの会場に向かう車の中で、淳子のつぶやきを聞く。

「これは私1人で獲ったわけじゃない。皆さんのおかげで賞を獲れたのだ‥‥」

 自分に言い聞かせるように繰り返していたという。谷田は、その真摯な態度に、さらなる高みへ向かわせてあげたいと思った。

 そして4曲目、淳子の正確な発声を生かすため、冒頭に語りのセリフを入れた「花物語」(73年11月)を発売。みごと初のベストテンヒットとなる。以降も常に10位内は指定席であったが─、

「残る悲願は1位を取ること。そのため、デビュー以来の恩師である阿久悠さんにも、5パターンの詞を用意してもらったんです」

 そして選ばれたのが「はじめての出来事」(74年12月)だった。これまでにない “大人びた色っぽさ”を出し、チャートの1位と50万枚突破を記録する。これが淳子の「第2章の扉」となり、75年は大ヒット曲を量産。この年、最もレコードを売った女性歌手となった。

 谷田はデビューから77年までを「初代ディレクター」として担当し、後輩にバトンを渡す。それから長い年月を経て、谷田のもとに淳子から手紙が届いたのは99年のこと。ビクターを退職する際に、芸能界を離れていた淳子からのメッセージが寄せられた。

「谷田さんが作ってくれた多くの作品に感謝しています。これからも活躍なさってください」

 谷田は、新人賞をもらった夜の車中と変わらず、気配りのできる女性であることに素直に感激した。

“美空ひばり”になってしまう

 ちょうど10枚目のシングル「ささやかな欲望」(75年9月)を聴いて、百恵のディレクターだった川瀬泰雄は驚きに包まれた。若い歌手なら1曲ごとに成長は見えるが、突然、違う階層に行ったように思えた。歌への感情の込め方が3カ月前とは別人だったのだ。

「当時は、彼女の中で歌より芝居のほうにウエイトを置きかけていたように思えたんです。もちろん、ドラマをやったことが歌に好影響を与えたでしょうけど、このレコーディングで不安はなくなりましたね」

 川瀬が杞憂したように、百恵はヒット歌手であるが、女優のほうが早くから国民的な存在になりつつあった。現在の韓流ドラマの基盤となった「赤いシリーズ」で茶の間の涙をさらい、映画も第1作の「伊豆の踊子」から文芸路線を重ねていた。

 それでも、やはり「歌手」だという意識があったように思えた。さらに、前作の「夏ひらく青春」(75年6月)まで断続的に続いた“性典路線”が終わりを告げたことへの変化も見られた。

「あの性典路線には、言われたとおりに淡々と歌えばいいという彼女なりの割り切りがうかがえた。それが終わったことで、一気に何かをつかんだ瞬間となったかもしれません」

 プロデューサーの酒井政利は、人一倍の情報収集力をもとに、突飛なアイデアをいつも投げかけた。当時、若者たちにラジカセが大人気だったが、テープがキュルキュルと巻き戻るような歌を作れないかと考えた。

「アレンジャーに『そんなことできない』と言われたけど、演奏を止めるような瞬間はできないはずはないだろうと」

 それが「プレイバックPart2」(78年5月)という歌になった。さらに酒井は「口パクで歌わない歌」という業界の常識を覆す提案をし、4文字が伏せられる「美・サイレント」( 79 年3月)という歌に結実する。一連の“仕掛け”は、当時、高校生だった筆者の周辺でも“まんまと”乗せられ、新曲ごとに期待を高めさせていった。

 その「美・サイレント」のB面には、先行アルバムから「曼珠沙華」という曲が入っている。ディレクターの川瀬は、これを百恵の最高傑作と評しただけでなく、制作会議の席でこう発言した。「このままでは“美空ひばり”になってしまう」

 その言葉に「最高じゃないか!」と反応したスタッフもいたが、川瀬の意図は、「百恵にはもっと転がってほしい」という崇高な問答だったのである。川瀬は、そんな日々を懐かしむ。

「毎日、スタジオに入って、ギリギリのところで勝負を続けた音楽漬けの毎日だったけど、陽水や百恵との作業は本当に楽しかった」

 酒井もまた、デビューから引退まで見届けた「山口百恵劇場」には、完全に燃焼し尽くしたという思いがある。

 そして淳子の初期を完成させた谷田は、こんなエールを送った。

「4年ほど前、明治記念館の『桜を見る会』で久しぶりに淳子ちゃんと会ったんです。今、そのままテレビに出てきてもおかしくない美しさだった。復帰にはいろんな問題を解決しなければいけませんが、芸能界のためには、ぜひ戻ってきてほしいですね」

 百恵のように「引退」の言葉は口にしないままの空白である─。

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