我が青春の週刊少年ジャンプ(1)修羅場皆無の穏やかな鳥山の仕事場

アサ芸プラス / 2013年8月15日 9時53分

 年間1万点を超える単行本が刊行される漫画業界において、消え去る作品は多い。だが、我々の青春の1ページには「週刊少年ジャンプ」を彩ったキャラクター、ストーリーがしっかりと刻み込まれている。その“名作誕生”の裏側には作り手側の青春群像があった!

 68年に創刊した「週刊少年ジャンプ」は、先行していた他社の少年漫画誌を破竹の勢いで凌駕していく。そして、94年12月には発行部数653万部を記録。世界一としてギネスブックにも登録された。

 そのジャンプ躍進の牽引役となった漫画家の一人としてあげられるのが鳥山明だろう。今年7月、創刊45周年を記念して13年ぶりに新連載「銀河パトロール ジャコ」をスタートさせたことも、同誌にとって鳥山が特別な存在であることがうかがえる。

「Dr.スランプ」(80~84年連載)の則巻アラレたちのハチャメチャなペンギン村の日常に笑い、「ドラゴンボール」(84~95年連載)の孫悟空とともに成長した我々にとっても鳥山は特別な漫画家である。

 物語と登場するキャラたちが深く記憶に刻まれるのに比して、鳥山の実像はベールに包まれている。

 当時、「Dr.スランプ」の単行本が初版発行部数記録を塗り替え、「ドラゴンボール」も全世界で約2億3000万部が読まれている。そうした記録的数字が鳥山を神話の中の人物たらしめた。

 今回、鳥山の人柄を探るため、初代アシスタントを務めた人物に話を聞いた。漫画家、田中久志(ひすゎし)である。

「端的に言えば、鳥山さんはいい人‥‥。そのひと言で終わってしまうぐらい。アシスタントをしていても、親戚のお兄ちゃんのところで手伝っているみたいな感じでした。『Dr.スランプ』が始まって半年もしたら大人気になっていましたけど、本人はちっとも変わらない。2万円くらいのモデルガンを買おうか、真剣に悩んだり、原稿が仕上がると一緒に打ち上げでボウリングに行ったり‥‥。そういえば、そのボウリング場で、僕が運転していた車を他の車にブツけてしまったことがありました。相手は“怖いお兄さん”なのに、鳥山さんも喫茶店で一緒に謝ってくれて、相手が話の途中で『鳥山明』だと知り、箸袋の紙にサインを書いたら、許してくれたことがあったな(笑)」

 田中が鳥山のアシスタントになったのは「Dr.スランプ」の連載開始直後だった。愛知で執筆活動をしていた鳥山のアシスタント募集の広告を見て、同じ愛知在住の田中が応募したのがきっかけである。

「鳥山さんもアシスタントを使うのが初めてなら、僕もアシスタントするのが初めて。お互いどこまでがアシスタントの仕事なのかわからなくて、最初の頃は鳥山さんが背景から何からほとんど全部描かれていて、僕は横でベタ(髪や影などを黒く塗る作業)をやっているだけでした」

 作中、鳥山はこの逸話を「ひすゎしは絵がうまいから、描かせない」というギャグにしている。

 実際には、その後は背景を田中が描いていたという。しかも、「いい人」という鳥山の人柄が示すように穏やかな仕事場だった。アシスタントは1人だけなのに、田中が拘束された時間は1週間のうちたったの24時間。食事や風呂の時間まで約束されていたという。週刊連載の修羅場などは皆無だった。そんな仕事場以上に異色だったのは、鳥山の制作方法だった。

「通常、ネームというコマ割りや構成、セリフを入れたラフを描いて、編集者がOKを出してから原稿用紙に描いていくんですが、鳥山さんは『何度も描くのが面倒だから』と、いきなり原稿用紙に描き始める。もちろん編集者にボツを食らうこともあるんですが、そうすると全部描き直すんですよ。そのほうが面倒だと思うんですけど(笑)」

 のちにジャンプでデビューした田中は、鳥山の制作方法を踏襲した。ところが、担当編集者に「ネームを描け!」と一喝されたという。

 鳥山がいかに非凡であったかがわかる。

アサ芸プラス

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