藤圭子と「昭和歌謡」の怨念(4)救急車で搬送されても生放送には帰ってきた

アサ芸プラス / 2013年9月13日 10時0分

 デビュー当時、しばしば「お人形さんのよう」と形容された。色白の愛らしい顔だちは、演歌歌手と思えぬほど際立っていた。さらにもうひとつ、デビューと同時に日本中を席巻したことで、藤圭子は自分の時間を持てぬほどの激流に巻き込まれる。それこそ「人形のように」動かされる日々であった──。

 藤圭子とは「石坂まさを門下」の兄弟弟子であり、後に歌手をあきらめ、現場マネジャーを長らく務めた成田忠幸が振り返る。

「僕がスケジュールを担当するようになって、さすがにこの日は無理と先方に断りを入れるんです。その瞬間、電話している僕の頭をパカーンと叩いて『夜中の2時なら空いているだろうが!』と怒られた」

 それが圭子の恩師であり、プロデューサーであった「石坂まさを流」である。圭子をデビューさせた69年でも28歳と若く、仕事を入れるだけ入れられるバイタリティがあった。

 もちろん、圭子もデビュー直後の「新宿25時間キャンペーン」など、細く小さな体を懸命に稼働させた。ただし、シングルで20週連続、アルバムで42週連続の1位という異常な人気は、休息を与える暇もなかったと成田は言う。

「移動する時は僕が肩を支えて、彼女が寝たまま歩いたこともあったよ。それと日本テレビの『紅白歌のベストテン』の収録が渋谷公会堂であり、そのリハーサルの最中、生理の出血がひどくて救急車で運ばれていった。それでも生放送には帰ってきて、普通に歌っていたから」

 デビューから5年が経った頃、やはり公開収録だった「8時だヨ!全員集合」(TBS)の会場で、激しく口論する圭子と石坂を目撃した。

 その原因が何であったのかはわからない。ただ、石坂が事務所を立ち上げて5年の間に、60人ものスタッフが入れ替わっている。現場は若手ばかりで混乱し、圭子と石坂のコミュニケーションも取りづらくなっていた時期だったと成田は言う。

 そんな石坂の「なりふりかまわぬ売り込み」を知るのは、フジテレビの花形プロデューサーだった千秋与四夫である。フジで「歌の競演」や「今週のヒット速報」などを担当していた千秋のもとには、新人歌手を抱えたマネジャーたちが絶えず列をなす。

「僕は当時、新宿のライオンズマンションに住んでいたんだけど、そこに石坂まさをが3日連続で売り込みに来た。林家三平さんの紹介ということもあって3日目にようやく対面したけど、毎日、神奈川の相模大野から通ったというんだよ」

 石坂流の“大風呂敷”であり、実際は千秋のマンションから歩いて30秒ほどのところに住んでいたのだ。そのことを知った千秋は苦笑しながら、いつの間にかペースに乗せられていく。

「ウチの圭子は流しをやっている頃、畠山みどりさんの『恋は神代の昔から』も歌わせてもらってました」

 千秋が畠山と結婚して間もない頃だった。あの手この手でプロデューサーの気を引こうとするが、石坂が持参したデビュー曲「新宿の女」(69年9月)のカセットテープは、千秋にはピンと来なかった。

「あなた、この子おもしろいわよ。低音はドスが効いているし、高音もきれいだから売れると思うわ」

 先に反応したのは妻のみどりである。歌手として大先輩の畠山がそう言うのなら‥‥千秋は自分の番組で藤圭子を推してやろうと思った。

 間もなく石坂が圭子を連れてくると、歌のイメージと違う可愛らしさに驚いた。さらに、石坂に対して絶対服従の態度であったことも──。

◆アサヒ芸能9/10発売(9/19号)より

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