“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第3回>長渕剛(1)

アサ芸プラス / 2014年1月21日 9時58分

 日本の音楽シーンきっての「アニキ!」と言えば長渕剛である。メッセージ性の高い楽曲、精悍に鍛えた肉体、いずれもカリスマと呼ぶにふさわしい。ただし、その道のりは一直線だったわけではない。いくつもの挫折を「博多」で身にまとい、その地ではね返していった──。

〈タバコを吸うなとか酒を飲むなとか、私の勝手じゃないの。好きでもないくせに好きな振りをするのはよして欲しいわ〉

 78年10月5日、NHKのラジオから「今日、デビューしたばかりの長渕剛さんです」と紹介され、その歌は流れてきた。九州の片田舎の下宿先で、当時、高校2年だった筆者は胸ぐらをつかまれる思いがした。

 その日、郵便受けには100円玉が2枚入った女の子からの手紙が1通‥‥前の週に喫茶店で払った紅茶の代金を「好きな先輩ができたから」と突き返してきたのである。

 そんな失意とシンクロするように、長渕の「澄んだ声」なのに「怨念」をにじませる歌は耳に届いた。以来、35年にわたってステージに欠かせない「巡恋歌」のことである。

 78年は音楽界の主流が「ニューミュージック」に移行していたが、かたくなに「フォークソング」にこだわる姿勢が明快だった。

 そんな長渕と同時期にコンテストもライブハウスも共有した男がいる。MISIAの育ての親としても知られる西田恭平だ。

「僕が76年にヤマハのポプコンと世界歌謡祭で優勝した時に、剛は『雨の嵐山』でレコード会社協賛社賞。ヤマハの場合、コンテストを勝ち抜くのとプロとして大成するのは違うけど、剛とチャゲ&飛鳥は絶対に売れるだろうと思ったね」

 それは「大衆に受ける音楽性」が抜きん出ていたからだという。ただし、西田も長渕もいったんはデビューを飾りながら、大きな成果を残せず博多に戻り、伝説のライブ喫茶「照和」を拠点とする。西田は水曜を、長渕は金曜の夜のメインを任され、それぞれにステージを重ねるのだが──、

「剛の日は客が少なかった。1人か2人しかいないこともザラだった」

 意外である。西田によればその理由は「しゃべりがまったくできなかったから」とのことらしい。

 同じ頃、テレビ西日本のディレクター・藤井伊九蔵も、長渕の「照和」の閑散としたライブを目にしている。藤井はKBCの岸川均、RKBの野見山実と並び、多くの「博多発ミュージシャン」を支援した人物として知られる。岸川や野見山のようにラジオ放送がない局だったので、主にライブ主催で若者たちに場を提供。そんな活動が10年続いた頃に見たのが長渕である。

「今と同じように無骨なステージで、それでは残念ながら女性の客がつかなかった。チューリップのように洗練されたハーモニーのほうが客は集まりました」

 わずかな客が相手でも長渕はギターをかき鳴らし、フォークシンガーとしての意地を叩きつける。ただ、それだけではない変化が見えたと西田は言う。

「当時の照和には『シャイアン族』というMCに定評のあるバンドがいて、そのステージングを参考にしながら、剛のしゃべりも上達していきましたよ」

 そして人気が上昇し、「巡恋歌」での再デビューに結びつく快進撃が始まっていった‥‥。

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