“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第3回>長渕剛(3)

アサ芸プラス / 2014年1月23日 9時58分

〈悪夢の武道館〉を最後に、長渕は残りのツアーをキャンセルした。ギターとコーラスを担当する浜田は、その日を鮮明に憶えていた。

「長渕をサポートするのが僕の仕事。彼の声が出ないなら、僕がすべて歌ってやろうかと思った」

 北九州市出身の浜田はヤマハのポプコンでグランプリを獲り、74年に「いつのまにか君は」をヒットさせていた“先輩”にあたる。その後、長渕がロック志向を強めていった時期に「バックに太い声が欲しい」との希望で指名される。そして82年6月の日比谷野音から本格的にサポートメンバーになった。

「その当時の剛はまだ、バンドスタイルの仕組みがわかっていなかった。だから彼が言いたいことを、僕がミュージシャンたちに通訳する感じだったね」

 ただし、長渕が「自身の目指すエンターテインメント」を自分の言葉で伝えるまで、そう長くはかからなかったという。また通常は「コーラス」と称されるパートだが、長渕は浜田に対し、その呼び名を嫌った。

「コーラスみたいに決まり切った形じゃなく『サイドボーカル』と考えてくれた。だから雰囲気だけ剛から聞いて、あとは僕の自由にやっていいって形だったね」

 ツアーをキャンセルした86年は、見ていて痛々しいほどに責任を1人で抱え込んでいた。浜田は「天才ってああいうことかな」と思わずにいられなかった。

 やがて長渕は肉体改造を成功させ、強靭なボーカルも取り戻す。浜田も20年にわたってパートナーの座につくが、そのファイナルであり、集大成となったのが04年8月21日に行われた「桜島オールナイトコンサート」だった。

 長渕が生まれ育った鹿児島の地に、全国から7万5000人が集まり、日の出までを共有する。夜明け前に披露された最後の1曲「Captain of the Ship」は30分近い極限のパフォーマンスとなった。

「僕のギターとベースとドラムだけで、剛は『倒れるまでやるぞ!』と叫んで歌い続ける。この1曲をやるために、僕は20年間、剛と一緒にステージをやったんだなって思ったね」

 大会場でのリハーサルでは浜田にステージで歌わせる。その間に長渕は客席を走り回りながら、聴こえづらい場所がないか音響をチェックするのが常だったという。

 それほど真摯に自身のステージと向き合った結果、男たちに「アニキ!」と拳を突き上げさせるカリスマ像になった──浜田はそう実感して若い世代にバトンタッチした。

 あの桜島の熱い夏から今年で10年が経つ。長渕の思いは、東日本大震災などで、より強く「歌が伝えられるもの」に昇華されている。

アサ芸プラス

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