“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第4回>海援隊(2)

アサ芸プラス / 2014年1月29日 9時58分

 東京でのお披露目となる日比谷野音での合同コンサート直前、武田は迷った末に博多の野見山に電話を入れた。

「迷うとっとです。ステージは標準語でしゃべったほうがいいのかって。ここは俺らが生きるか死ぬかの瀬戸際ですけん‥‥」

 重ねて言うが72年当時、九州の言葉は“外国語”に近い感覚である。それでも野見山は海援隊のマネジャーとも協議し、こう伝えた。

「博多弁でいったほうがいいよ」

 それは海援隊の音楽性とも絡んでいた。ビートルズを基盤とした陽水やチューリップの歌と違い、海援隊は“土着”を感じさせたからだ。ならば、カッコつけた言葉は似合わないであろうと──、

「結局、鉄矢は博多弁で押し通して、拍手喝采だったそうです」

 東京進出は順調に見えたが、期待に反してレコードの売上げは上がってこない。73年には先に東京に行っていた井上陽水の「夢の中へ」が、さらにチューリップの「心の旅」が大ヒットし、武田の胸には焦りが生じていたという。

 藤井は2枚目のアルバム「望郷篇」(73年9月)のライナーノーツを担当しているが、ここで評判の良かった「母に捧げるバラード」(73年12月)がシングルカットされたことを機に、局としても後押しをする。

「テレビ西日本の開局15周年を記念して、九電記念体育館で『TNC・フォークソング・フェスティバル』を開いた。5000人以上のお客さんが詰めかけてくれて、ここで前座をやらせたのが海援隊です」

 ビリー・バンバンやシューベルツなどのスターに加え、福岡出身の陽水やチューリップもいる。ローカル番組でありながら北海道を皮切りに、全国の地方局から「買い」の注文が殺到。

「そこで歌った『母に捧げるバラード』が、全国でじわじわと火がついた形になりましたね」

 美輪明宏の「ヨイトマケの唄」にヒントを得て、武田が母・イクとのやり取りという形で博多弁の詞を書いた。イクによれば「鉄矢が小学校でタバコを覚え」のくだり以外は、ほぼ実話であるという。

 レコードは30万枚近くを売上げ、74年の大みそかにはNHKの「紅白歌合戦」にも初めて出場。ここで4分1秒の歌をカットするように命じられたと野見山は言う。

「NHKから『最多出場の三波春夫さんより長い尺はダメだ』と言われたんです。とはいえ、あの歌は起承転結があるから容易にカットできない。切られるくらいなら辞退したらどうだ‥‥そう言いましたが、まだ駆け出しの彼らがそんなことはできませんでしたね」

 陽水やチューリップ、あるいは泉谷もなしえなかった「紅白」の切符は一番乗りだが、コミックソングととらえられて今で言う“一発屋”の印象も強かった。人気が低迷し、1年後の大みそかには夫人とともに「皿洗いのバイト」で糊口をしのぐ日々を迎えている。

「お前ら、元気そうだな」

 武田はうつろな目で事務所の後輩に声をかけた。少し遅れてデビューしながら、コンサートツアーを重ねていた「ふきのとう」の山木康世に対してである。一方の海援隊はコンサートに客が入らず、酔客相手にキャバレー回りをやらされる「対極の図式」がそこにあった‥‥。

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