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『青天を衝け』で話題になった“悲劇のヒロイン”。政略婚から手にした真実の愛とは

bizSPA!フレッシュ / 2021年11月14日 15時46分

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増上寺(港区)

 幕末から明治期に活躍した“日本の資本主義の父”渋沢栄一を描いた、現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』。本作にも登場し、乃木坂46元メンバーの深川麻衣さんが演じるのが、皇女和宮(かずのみや)だ。将軍家茂の死去に正室の和宮が悲しみに暮れ、次期将軍慶喜に呪詛の言葉を吐く、深川さんの演技が「鬼気迫る」「闇落ち」とネットで話題にもなった。

青天を衝け

画像はNHK公式サイトより

 孝明(こうめい)天皇の異母妹である和宮は、政略結婚の犠牲になった悲劇の女性として知られているが、人気歴史研究家の河合敦氏@1ne15u)は「そう簡単に“悲劇の女性”と断定してしまうのは間違いだろう」と述べる。政争の具となり、いやいや江戸へくだって江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となったが、その結果は決して不幸だとは思えないという。

 家茂が20歳の若さで死去し、未亡人となった和宮の“その後の人生”を河合氏の著書『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか?』より解説する(以下、『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか』を一部編集のうえ、抜粋)。

◆変革にのんきだった幕閣たち

 ペリー来航以降、国内では攘夷の機運が高まり、江戸幕府と朝廷の間では対外政策で意識のずれが生じていた。そんななか、時の孝明天皇の攘夷実施の強い求めに応じて、徳川家茂は上洛を決意

 その途上、将軍継嗣問題で対立する一橋慶喜が家茂の暗殺を企んでいるという流言が広がり、将軍の側近らはその警戒に神経をとがらせた。関東にいると、上方や西国で起こっている時勢の大きな変革を肌で感じることは難しいようだ。

 それにしても幕閣はあまりに呑気すぎた。大坂城において、幕府の老中らはまじめに長州征討について論じ合おうとしなかった。

「将軍がわざわざ大坂まで来臨したのだから、長州藩は恐れをなしてみずから降伏してくるに違いない」。そう思って安心し切っていたのである。このように幕閣が無為なときを過ごしていた慶応元年(一八六五)九月、まったく予想しなかった方向から驚嘆すべき事態が飛び込んでくる。

◆英・仏・蘭・米が突然の干渉

書籍

河合敦・著『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社文庫)

 英・仏・蘭・米四か国の公使が艦隊を率いてにわかに兵庫に入港し、「幕府が一八六三年に開港を確約した兵庫がいつまで経っても開かないのはどういうわけだ。また、いつになったら修好通商条約の勅許がおりるのか。幕府は本当に約束を守る気があるのか。もし、勅許と開港の承諾をすぐに得られぬというなら、自分たちが直接京都へ赴いて朝廷と直談判する」、そう通告してきたのである。

 恫喝であった。もしそんなことになれば、全国政権としての幕府の存在価値は消失してしまう。倒幕派は一気に勢いづくだろう。

 幕府の威信にかけても、それだけはやめさせねばならなかった。そこで、老中阿部正外と松前崇広は、将軍家茂の承認を得て、幕府独断で兵庫開港を決めたのである。

◆幕府独断の兵庫開港が招いた騒動

神戸港

現在の神戸港 ※画像はイメージです(以下同じ)

 大坂にやってきた慶喜は、その決定を知って、「そんなことをすれば天皇の心証を悪くし、幕朝間に大きな亀裂が入る。諸藩も納得せず、大混乱が起こるのは必至。まずは、朝廷の説得に全力を尽くして勅許を得ることが先決である」、そう強硬に反対した。

 ところが、阿部と松前は時間のないことを理由に決定を変えようとせず、両者の間に長時間の激論が交わされた。両者とも意地になっていたのだろう。この激突を目の当たりにした将軍家茂は、自分が最高権力者の地位にありながら、何もできない無力さに「もう勝手にしてくれ」としきりに無念の涙を流したという

 結局、若年寄の立花種恭(たねゆき)が列国公使から十日の猶予を取りつけてきたことで、将軍家茂が直接上洛して朝廷に勅許を仰ぐことに決まり、その予備交渉のため、慶喜はただちに大坂城を発って京都へ向かった。

 だが、慶喜が去ったあと、ふたたび幕閣の空気が変わり、将軍はいつまで経っても上洛の様子を見せなかった。違約に激怒した慶喜は、阿部・松前を幕閣から除こうと、朝廷に巧みな工作をおこなって、「両人を罷免する」という朝旨を将軍家茂へ出さしめたのである。天皇が老中の免職を命ずるのは開幕以来の出来事だった。

◆慶喜にコケにされた家茂の怒り

 当然、幕府の役人の任免権は将軍にある。どう考えても朝廷の越権行為だ。ここまで慶喜にコケにされては、温厚篤実と言われた青年家茂も怒りに震えた。

 家茂はなんと、朝廷に将軍辞職願いを提出するや、すぐさま大坂城を捨てて江戸へ向かい始めたのである。辞職願いを朝廷へ差し出した将軍は前代未聞だった。なおかつ家茂は、「次期将軍に一橋慶喜を推薦する」という推薦状まで添えたのだった。これは家茂の、老中罷免に対する朝廷への抗議行動であり、同時に慶喜に対する最大の嫌味だった

 事態を知って慶喜は死ぬほど驚き、ただちに将軍のあとを追い、ようやく伏見で追いつくや、「必ず自分が勅許を得てくるから、どうか辞職だけは思いとどまっていただきたい」と家茂に懇願した。その哀願に免じて家茂は東下を中止し、大坂城に引き返した。

 結果的に兵庫の開港については朝廷の承諾を得られなかったが、慶喜は公家たちを脅したり、すかしたりして、日米修好通商条約の勅許を得ることに成功する。この成果は、慶喜の名声をさらに高めることになった。

 江戸の和宮は夫の無事を祈って、お百度を踏んでいたが、勅許が出たことを知って衝撃を受けた。「自分が嫌々ながら武蔵野の地で果てる覚悟で江戸に来たのは、攘夷を実現させるためではなかったか。なぜ、慶喜は強引に勅許を得たのか」という怒りに震えた。

◆長州藩征伐の最中での家茂の死

江戸 城

 翌慶応二年六月、ついに幕府の大軍が長州藩へ攻め込んだ。家茂は大坂城にいたが、戦況ははかばかしくなく、敗報が続々と入ってきた。

 そんな七月二十日、大坂城において家茂は急死する。征討の最中の死であったため、幕府にとってはたいへんゆゆしき事態だといえた。しかも、まもなく家茂の急死に関して奇妙な噂が流れはじめる。前将軍後見職で、禁裏御守衛総督の任にあった一橋慶喜が毒殺したというものだ。

 だが、家茂の死因は、脚気衝心(心不全)だったと侍医は診断している。脚気は贅沢病とも呼ばれた。裕福な人々に多発したからである。その原因は主食にあった。精米したご飯を主食にできる者は、この時代にあってはかなり裕福な層だった。白米は精米の過程で玄米に多く含まれるビタミンBが削そげ落ちてしまう。そのため、富裕層に脚気で死ぬ人が多く出たのである。

 すでに四月から家茂は胸痛に悩まされ、六月になると、なかなか食事がとれなくなった。これを聞いて和宮は非常に心配し、湯島の霊雲寺に祈祷を命じるとともに、侍医を蘭方医から漢方医に替えるように指示し、医師三名を江戸から船で大坂へ派遣した。

◆将軍の急死に毒殺説も流れたが…

 七月十九日に和宮のもとに家茂の状況報告書が届いた。今のところ便通もあり、落ち着いているということだったが、それから一週間後、あっけなく死去してしまう。

 おそらく家茂は、最後は脳症を発症し、急性心不全で絶命したのだろう。その症状は、毒を盛られたようにも見えなくもない。そこで毒殺説が流れ、家茂と氷解しがたい長年の確執があった慶喜の犯行が疑われたのだろう。

 死後、和宮のもとには「家茂危篤」という知らせが届き、二十五日に死去の報が伝わった。和宮はお百度詣でをやめ、自分の髪の毛を棺に納めるよう伝えた。

◆夫の死に号泣した和宮

葵の御紋 徳川

 九月六日、家茂の遺骸は江戸城に到着した。遺体を土葬にするか火葬にするかで、問い合わせがあり、和宮は土葬にすることを求めた。ただ、この頃より精神的なショックからか、夜になると、胸が苦しくなって息が詰まるようになり、お付きの女性たちがたいへん心配している。

 城内表の御座之間上段に棺が安置された。拝礼に来た和宮は、家茂の側近から西陣の織物を手渡された。それは、大坂へ出立の間際、和宮がお土産にと夫にねだったものだった。家茂は病中にあってもそれを忘れていなかったのである。和宮は号泣したという。

「空蝉の 唐織もなにかせん 綾も錦もきみ(君)ありてこそ」

 彼女がそのときに詠んだ歌である。朝廷では家茂歿後、和宮に対して帰京するように勧める者もあったが、彼女はこれを拒んでそのまま江戸城に残った。

◆将軍の助命嘆願書

 慶応二年(一八六六)十二月、夫が死去したことで、和宮は剃髪して静寛院宮(せいかんいんのみや)と称することになった。ただ、彼女はそのまま江戸城西の丸に住むことになった。

 この頃、和宮のもとに孝明天皇が疱瘡を患っているという知らせが届いたが、翌年正月に危篤となったという報が入り、翌日、すでに前年十二月二十五日に崩御していた旨の知らせが届いた。倒幕派の岩倉具視や大久保利通らに毒殺されたのではないかという説もある。天皇は攘夷主義者であったが、幕府あっての朝廷だと考えており、倒幕派にとっては邪魔な存在だったからだ。

 一方、将軍になった慶喜にとって、天皇を失ったことは大きな痛手となった。結局、倒幕の動きが活発化したことで、慶喜は慶応三年十月、朝廷に政権を返上した。大政奉還である。

◆大政奉還から王政復古の大号令

江戸 お城

 だが、それから二か月後、薩長ら倒幕派は明治天皇を奉じて朝廷でクーデターを起こして王政復古の大号令を出し、新政権を樹立した。そしてその夜、慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)を決定したのである。慶喜は、その決定を知ると、幕臣たちを引き連れ、静かに京都二条城から大坂城へ撤退し、事態を静観した。

 この間、土佐藩や福井藩など新政府穏健派の工作により、慶喜が新政府の盟主になることがほぼ確実になった。

 ところが、江戸で薩摩藩が浪人を雇って治安を乱したため、激怒した佐幕派の人々が三田の薩摩屋敷を焼き打ちした。これを知った大坂城の幕臣や佐幕派の人々が激昂、慶喜はこれを抑え切れなくなり、ついに京都への進軍を認めてしまった。

 こうして慶応四年正月、鳥羽・伏見の戦いが起こるが、戦いは旧幕府軍の敗北となり、慶喜は大坂城から江戸に逃げ帰ってくる。それを追って新政府軍が江戸へ向けて東下を開始する。そんな新政府軍の総大将(大総督)となったのが、和宮のかつての婚約者・有栖川宮熾仁親王だったのである

◆「自分は徳川と命運をともにする覚悟」

 和宮は複雑な心境だったにちがいない。しかしながらこのままいけば、江戸の町が新政府軍の砲撃にさらされて火の海と化し、徳川家の滅亡も必然的な状況だった。ここにおいて和宮は、天璋院篤姫と相談して朝廷に対して徳川家の存続を求める嘆願書を提出した。

 さらに和宮は、朝廷に次のような書状を出した。「慶喜が京都にいたとき、不慮の戦争が起こり、朝敵の汚名を被り、江戸に戻ってまいりました。朝廷は徳川を討伐するため軍を差し向けたと承り、当家の浮沈はこのときだと心を痛めております。どのような事態が起こっているのかわかりかねますが、慶喜の不届きさは十分承知しております。慶喜はどうなってもかまいません。

 ただ、何とぞ、徳川の家名が成り立つよう、お願いいたします。当家が汚名を被ることは、私自身にとっても残念なことです。私の命に代えてもお願いいたします。どうしても江戸城を攻めるというのであれば、自分は徳川と命運をともにする覚悟をしております」と伝えた。

「皇女和宮のいる江戸城を攻撃できるのか」、そういう脅しとも受け取れる決意を表明したのである。最終的に、新政府軍の西郷隆盛と徳川家の勝海舟の会談によって、江戸城攻撃は中止され、徳川家の存続も認められたので、江戸無血開城をすべてこの二人の功績だととらえてしまいがちだが、和宮の尽力も決して小さいものではなかったといえるだろう。

◆麻布の屋敷で歌道や雅楽を楽しむ

増上寺

増上寺(港区)

 明治の世を迎えてからの和宮の余生は、それほど長いものではなかった。和宮は、江戸城明け渡しの二日前、慶応四年(一八六八)四月九日に城から出て、御三卿の清水屋敷に赴いた。そして翌年、上洛勧告に応じて懐かしき京都へ戻ったのである。京都では聖護院を居所とした。

 ただ、明治天皇をはじめ皇族が東京(江戸)へ奠都してしまったこともあり、明治七年にふたたび江戸へ立ちかえり、東京麻布の閑静な屋敷で、歌道や雅楽などにいそしみながら静かに暮らした。また、徳川の人々とも交際し、あのライバルであった篤姫を自宅に招いたり、徳川家の跡継ぎになった徳川家達(いえさと)邸を訪ねたりしている。

 なお、明治になってから和宮は日記(『静寛院宮御日記』)を書き始め、それが今も宮内庁書陵部に保管されている。明治十年八月に脚気を患い、箱根に湯治に出かけたが、そこで心臓発作を起こし、九月二日に三十二歳の生涯を閉じた。

 遺骸は芝増上寺に葬られたが、生前の希望によって、墓は家茂の隣に置かれた。今でも増上寺には二人の墓が仲よく並んでいる。

<TEXT/歴史研究家 河合敦(@1ne15u)>

【河合 敦】

歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。 早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。 Twitter:@1ne15u

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