東京五輪に10種競技で出場し、巨人のコーチとなった男の「波乱の人生」

文春オンライン / 2019年1月21日 11時0分

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鈴木章介氏が所有していたV9達成時のウィニングボール ©カルロス矢吹

「城之内のことは随分走らせました。柴田は“五輪の選手になるわけじゃない、俺はプロ野球選手なんだ、走らなくていい”ずっとそんな感じでしたね」

 読売巨人軍の日本シリーズ九連覇、いわゆる“V9”達成のウイニングボールを手にしながら、鈴木章介はV9戦士達の素顔を語り始めた。

 鈴木は1964年東京五輪に陸上10種競技で出場し、その翌65年から川上哲治に請われて読売巨人軍のランニングコーチ、現在で言うトレーニングコーチに就任した。コンディションを整えるためにトレーニングコーチをつけることは、現在のスポーツ界では常識である。しかしそんな前例が無い当時、“野球選手は陸上選手じゃない”“なんで走らなきゃいけないんだ”、選手からだけではなく、新聞記者からもそんな疑問符がつけられたという。

 だが鈴木は、現代と遜色のない選手個別のトレーニングメニューを組んで巨人V9に大きく貢献し、79年まで巨人を影から支え続けた。V9達成のウイニングボールを未だに鈴木が所有していることからも、如何に選手達からの信頼が厚かったのかがわかる。その指導法の原点はどこなのか、そしてなぜ巨人軍のコーチをやることになったのか。

 昨年、64年東京五輪出場選手達へのインタビュー企画で、鈴木に話を聞く機会があった。もし東京五輪に出場していなかったら、鈴木章介の人生がプロ野球と交わることはなかったのかもしれない。

巨人にコーチとして入団した経緯

 鈴木は静岡県浜松市出身。中学2年生から陸上競技を始め、元々は棒高跳びの選手であったが、練習の一環として円盤投げなど投擲種目もトレーニングに取り入れていた。早稲田大学入学後、本格的に10種競技に転向。その後すぐにアジア大会に出場し、日本のホープとして東京五輪出場が確実視されるようになった。大学卒業後は大昭和製紙(現:日本製紙)に入社し、陸上部に所属。10種競技日本記録を更新し、日本代表として62年アジア大会に出場した。だが、63年に足の甲を骨折し、東京五輪には間に合わせたものの、怪我の影響もあってか15位に終わる。

 そして五輪終了後、鈴木は読売巨人軍にコーチとして入団することになるのだが、これは早稲田が繋いだ縁であった。

「当時巨人で打撃コーチをしていた荒川博さんや広岡達朗さん、早稲田OBの野球選手が練習でグラウンドに来ることがあって、一緒に走ったりしていたんです。終わった後に荒川さんの家ですき焼きをご馳走になったり。足を折った時も、巨人の嘱託医に荒川さんが連絡してくれて診てもらえたこともありました。東京五輪が終わった後、荒川さんから“浜松球場でオープン戦をやるから来なさい”と言われて、行ったら川上さんがいて。“キャンプで陸上競技のコーチに選手を鍛えてもらうと、筋力も強くなり、脚も速くなる、怪我も少なくなっている。だから、専任で一年通して選手を見てもらえないか”そう言われたんです。

 五輪が終わったら会社に残って仕事を覚えるつもりだったんですが、引退した選手に新しい道を開くことになるかもしれないと思って、コーチをやることにしました。ただ、最初はみんな慣れてませんから、やらせるまでが大変だったんです。だから納得させるために、僕も先頭に立って一緒に走ってました。それをやらないとプロの選手はついてこない。10種競技の選手だから、そう簡単には負けませんよ。

 最初はみんな一緒のメニューでやらせてたんですけど、川上さんから“プライドが高い選手、みんなの前で怒っていい選手、色んな選手がいるから、選手の性格や動作を見るコーチにならないとダメだよ”って言われて、それを活用しました。選手は十人十色、130くらいのトレーニングを考案して、一人ずつメニューを組むようになりましたね」

「僕を“給料泥棒”って呼んできて」

 真っ先に文句も言わず、文字通り先頭を走ってくれたのが“ON砲”こと王貞治と長嶋茂雄であった。この二人が黙ってついて来てくれたおかげで、他の選手達も鈴木の指示を聞くようになっていった。

「王さんは120%頭が野球の人だから、調子が悪くなると一回野球のことを忘れさせなければいけない。だから雨の中を延々一緒に走り込んだことがありました。それで頭空っぽにしてもらったら、次の日ヒットを3本打ちました。長嶋さんは、調子が悪くなると周りに気を使って反対にどんどん明るくなる人なんです。彼は全身がバネだから、ジグザグ走やミニハードルで、バネを身体に溜め込むようなトレーニングをしてもらいました」

 だが、400勝の大投手、金田正一には苦労させられたという。

「金田さんは、唯一僕に敬語を使ってくれなかった人でね。僕を“給料泥棒”って呼んできて。“章介”っていつも呼び捨てにされていました。いつか頭下げさせてやろうと思っていたんです。そしたらコーチになって5年目、あの人が肘を痛めて398勝で止まってた時、“章介、ワシはもうこれで終わりだ”って言うから“398と400で終わるのどっちがいいですか?”って聞いたんです。“400に決まっとる”って言うから“じゃあ僕に身体を預けて下さい”って言ったら“わかった”と。

 その時は“ざまあみろ”と思いましたよ。あの人は毎日二人がかりでマッサージさせてたので、筋肉が柔らかくなりすぎてたんです。だからマッサージをやめさせて、筋肉を硬くしてもらいました。筋肉は柔らかくなりすぎるとダメなんですね。そしたら400勝を達成して、あれは自分のことのように嬉しかった。三人には、オールスターの時も宿題を出していたんです。当時のオールスターなんてお祭りみたいなものでしたけど、その時も王、長嶋、金田の三人は外野を全力で走っていた。球界を代表する三人のそんな姿を見て若い選手はびっくりしたそうです。そうやって段々みんな言うことを聞いてくれるようになりました」

栄養面の指導も

 鈴木の練習メニューは、今でいう“メンタルトレーニング”の役割も果たしていたことがわかる。鈴木は更にこんな指導も行なっていた。

「帝国ホテルの調理師に聞いて、栄養面を勉強して、既婚者の選手には奥さんに“こういうメニューで食事を作ってください”とレシピを渡していました。だから奥さんたちには随分喜ばれましたよ、当時はスポーツ選手の奥さんたちでもそういう知識はありませんでしたから。私達陸上選手にとっては常識だったんですけどね」

 言わば鈴木は、フィジカル、メンタル、そして栄養士と一人三役をこなしていた。現代では当たり前かもしれないが、65年当時からこれだけ近代的な取り組みをしていたのだから、巨人V9は必然だったと言える。

「川上さんとのエピソードで、忘れられないものがあります。私は試合が始まるといつもスタンドで観ていたんですけど、優勝が決まる試合では“今日はベンチにいろ”と言ってくれたんです。そういうことも考えてくれていた人だったんです。全部川上さんのおかげですよ。私だけではなく、当時の球界はOBを引っ張ってくるのが当たり前だった中で、荒川さんやヘッドコーチの牧野さんなど、巨人OBでない人をコーチにした。野球界の大改革だったんです。どうして川上さんが私にコーチとして声をかけてくれたか? それは聞いたことがないからわからないな」

 もしかしたら、前代未聞のコーチ職を設けるために“東京五輪出場”という肩書きが必要だったのかもしれない。川上は批判の多い人事を断行していた、その中で周囲を説得するために、五輪の熱狂を利用したのではないか。東京五輪がなければプロ野球の近代化はもっと遅れていたかもしれない。

 64年東京五輪に出場した選手達の多くは、鈴木と同じ様に引退後は後進の指導に当たっている。五輪ではどうしてもホテルや上下水道といったインフラが語られがちだが、偉大な指導者達を残したことも“遺産”の一つとして語り継がれて欲しいと思う。
最後に鈴木は、2020年の目標をこう語った。

「2020年東京五輪の聖火リレーをやりたい。そのためにもコンディションを整えておくつもりです」

 鈴木の両脚が止まるのは、もう少し先の話になりそうだ。

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(カルロス 矢吹)

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