松尾諭「拾われた男」 #23 「キスシーン以上に大変だったこと」

文春オンライン / 2019年4月21日 11時3分

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松尾さん出演情報 BSテレ東『やじ×きた 元祖・東海道中膝栗毛』 毎週(土)21時~放送 ©BSテレ東

 それまで父は優しくて、殴られた事はもちろん怒られた事すら一度もなかった、ように思う。ある日、幼稚園で人生で初めてのスカートめくりをした。その事自体あまり記憶にはないが、きっと刺激的な体験だったらしく、迎えに来た父に興奮混じりにその事を報告したところ、顔面に火が付いたような衝撃を感じた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、見上げた父の表情は、それまで見たことがないほど厳しく冷たかった。

 それが父に殴られた最も古い記憶で、それからは顔を合わせる度に何かしら怒られていたような気がする。近所の子供と遊んでは怒られ、怪我をしても怒られ、兄とお年玉を出し合って買ったラジコンを組み立てて喜んでいたら、怒ってラジコンを壁に叩きつけて壊され、友達と一緒にいる時に父に出くわして「こんにちは」と冗談で挨拶したら、父親にする挨拶じゃないと怒られ、とにかく怒られてばかりだった。

 父は仕事帰りに一杯ひっかけたりはせず、まっすぐ家に帰ってくる人で、そんな父より帰るのが遅くなると、怒られるだけではなく、家にも入れてもらえなかった。小学校の時、ファミコンが流行ったので、恐る恐るファミコンが欲しいと言ったらもちろん怒られたが、友達はファミコンの話ばかりするので、学校の帰りは毎日のように友達の家でファミコンをした。ファミコンをしていると時間があっという間に過ぎて、日が傾き始めて、父がそろそろ帰ってくると分かっていてもコントローラーが手放せず、日が落ちてから、言い訳を考えつつ恐る恐る家に帰ると、言い訳など一切聞き入れられず、閉め出し、もしくは玄関で竹刀を足に挟んで何時間も正座をさせられた。

 その反動からか、一人暮らしをしてからはゲーム三昧の日々を送るようになったが、大人になってからも、空がオレンジに染まる頃や8bitの音を耳にするとそわそわするのは治らなかった。

「隣の楽屋にいる映画監督と話しなよ」

 大河ドラマの撮影を間近に控えていた頃、大作映画にちょこっと出演することになった。台本を読むと、三十ほど年の離れた上司と二人して、主人公の若い男に嫌味をタラタラと言うような役どころだった。

 撮影当日。昼前にスタジオに入ると、前のシーンの撮影が押しているので、かなり待ってもらう事になると告げられた。数人同室の楽屋にはすでに上司役の大先輩俳優が来ていて、先の見えない待ち時間を色んな話をして過ごした。殊に昔の映画の話で大いに盛り上がり、レンタルビデオ店でのアルバイトで培った知識をひけらかすと

「そんなに映画が好きだったら、隣の楽屋にいる映画監督と話しなよ」と大先輩は言った。

八時間、ずっと映画の話をした

 隣の楽屋に映画監督がいるのは知っていた。監督とは言っても、その大作映画の監督ではなく、その作品に出演者として参加している映画監督だった。もちろんその監督の事は知っていて、彼が撮った映画がとても好きだった。好きすぎて話かけるのに腰が引けるほど好きなんです、といったような事を大先輩に話すと「尚のこと話すべきだ」と半ば強引に隣の部屋へと連行された。非常に繊細な映画を撮るその監督は、作風からは想像もできないほど強面で大柄、その風体はまるで野生の熊のようで、その声は地割れのように太く大きく、威圧感たっぷりだったが、話してみると物腰も柔らかく、無名の役者にも丁寧に接してくれた。

 大先輩から「監督の映画の大ファンなんだって」と聞くと、監督はとても嬉しそうだった。そこから色んな映画の話をした。知らない映画はないのではないかと言う程に監督は映画に精通しており、そんな監督の話す映画の話はとても面白かった。メジャーなものからマニアックなものまで様々な映画の話をし、大先輩は、ついていけないとばかりに寝ていたが、スタッフが呼びにくるまで実に八時間、ずっと映画の話をした。

 八時間待った撮影は一時間ほどで終わり、誰が誘うでもなく、三人で呑みに行くことになった。お互いに元ラガーマンと知り、酒も入ってすっかり打ち解けたころに監督から「なんで役者になったの?」と尋ねられたので、それまで幾度も語ってきた話を、立て板に水を流すごとく語ると、監督は大いに感動して、少し考えてから言った。

「お前がどんな芝居をするか全く知らないけど、何か持ってるし、映画好きだから、今度俺の映画に出ろ」

 その月のうちに、憧れの映画監督の作品への出演が正式に決まったと連絡があった。説明によると、役どころは三十ほど年の離れた上司と二人して、主人公の女に嫌味をタラタラと言うような役どころで、上司は先の映画と同じ大先輩俳優だという事だった。嬉々として台本を開き、配役の項を見ると、主演の女優は、同じ空気を吸うのが憚られるほどに美しい人で、そんな人に嫌味を言うと思うと少し尻込みしたが、それ以上に衝撃だったのは、その人とのキスシーンがある事だった。

 その箇所を読んだ瞬間思わず声が漏れ、同時に全身の毛穴が開き汗が吹き出した。何かの間違いではないかとそのくだりを読み返した。

 場末の居酒屋で上司と二人呑んでいると、三十路の地味だがちょっといい女が求人の募集を聞いてやってくる。店のママはその場で彼女を即採用し、上司はその女にカラオケの相手をさせ、歌い終わるとほっぺにキスをする。「じゃあ俺も」とカラオケの相手をしてもらい、歌い終わると調子に乗って彼女の唇を奪い、怒った彼女に突き飛ばされて、彼女に罵声を浴びせて店を出て行く。

 愛し合い求め合うようなキスではなかったが、キスをする事には違いなく、台本にもしっかりと「唇を奪う」と書いてあった。言うまでもなくキスシーンの経験などあるわけもなく、一生ないものだと思っていたので、動揺は激しかったが、逃げるわけにもいかず、いつも通りしっかりとセリフを覚え、いつも以上に歯を磨いて現場へと臨んだ。

キスシーン以上に大変なこと

 撮影当日、朝早くに支度場所に入り、衣装を着てメイクをして待機していると、上司役の大先輩もやってきた。

「今日は大変なシーンだね」

「そうなんです。キスシーンなんて初めてで、、、」

「それも大変だろうけど、そこまでも大変だろ?」

 キスシーンの事ばかり考えていたので、そこまでの何が大変なのかがいまいちぴんと来なかったが、そう言われると不安になったので現場に行って監督を探すと、期せずして主演女優と出くわしてしまった。衣装は地味だったが、スラリと長い手足と、整った小さな顔はとても直視できないほどに美しかった。途端に汗が吹き出し、しどろもどろになりながらも挨拶をすると、彼女はほんの少しの笑顔で応えてくれたが、その笑顔の奥にある気持ちを勝手に慮ると毛穴はさらに開き、逃げるようにその場を去り、ミントタブレットをいくつも口に放り込んだ。

 そうこうするうちに撮影の段取りを始めるとスタッフから声がかかり、再び現場へ向かった。そこでようやく監督の姿が見えたので「おはようございまーす」と気安く挨拶すると、以前とは別人のような鋭い目つきでこちらを見据え、低いこえで「おう」とだけ応えてすたすたと先を歩いて行った。

 程なく撮影が始まった。台詞が多いわけではなかったが、大先輩が言った通り、キスシーンに至るまでに、いくつもの細かな動きを監督からつけられた。

 カウンターに座り、上司のカラオケを聴きながら、グラスのビールを飲み干し、さらに飲もうと瓶に手を伸ばす。ママがそれに気づいて素早くその瓶を手に取り酌をする。ビールを注がれながら、立ち尽くす主演女優演ずるマキコを、一緒に飲もうと誘い、ママが素早く出したグラスをマキコに渡して、そこでいくつかセリフのやりとりをしながら彼女の持つグラスにビールを注ぎ、ママともセリフのやりとりをしたところで、上司がちょうどサビを歌い終わり、そこで上司に「いい店ですねー」と声をかける。

 短いやりとりの中でいくつもの手順を踏み、しかも上司がサビを歌い切るタイミングと合わせなければならなかったりで、見事にとっちらかり、覚えたはずの台詞も飛んで、わけがわからなくなったので、監督にどういう感じでやったらいいのか、といったような質問をした。すると雷鳴が轟いたかのような大音声が頭に落ちてきた。

「馬鹿野郎! そんなもん役者が考える事だろうが!!」

 あの楽しく優しかった監督が突然に怒声を発した事に驚き、それが満座の注目を浴びている事がとても恥ずかしかった。

「何しに現場来てんだよ!?」

「すいません」

 血が沸騰して、身体中が熱くなった。

 驚きと恥ずかしさで体の自由を奪われたような感覚のなか監督の「もういっかい!」の声が現場に響く。当然うまく出来る訳はなく、ビールを持つ手も震え、動きと台詞のタイミングもバラバラになり、また雷が落ちる。何度も「スタート」と「ダメ、もういっかい!」が繰り返され、その都度放たれる集中砲火に心臓がねじれる思いだったが、その間、共演者の方々が未熟な役者のために、文句も言わずに毎回きちんと芝居を付き合ってくれる事が、とにかく申し訳なくて辛かった。

 繰り返す事十数回、動きにも慣れてきて、ようやく監督が「よくなってきた」と表情をゆるめたが、それからまた数回重ねると「だめだ、動きが段取りっぽくなってきた」とまた眉間にしわを寄せ、再び「ダメ、もういっかい」が繰り返された。そのうち何をどうやったら正解なのかも分からず、さらには何も考えられなくなってきた二十二回目、ふいに今まで緩んでいた糸がピンと張ったような感覚を芝居の中で感じた。

「よし! 次本番!」

 監督が声を張り上げた。

つづく

(松尾 諭)

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