メルカリCEO山田進太郎 「ありのままの自分」を受け入れてから人生が好転した

文春オンライン / 2019年6月13日 6時0分

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山田進太郎 ©文藝春秋

 2017年11月、東京・恵比寿の居酒屋で筆者は、メルカリの創業者で会長兼CEO(最高経営責任者)の山田進太郎(41)と対峙していた。

 その会食から約7カ月後の2018年6月、メルカリは東証マザーズに上場し、7000億円超もの時価総額を記録することになる。だが、会食をした当時は上場に暗雲が立ちこめていた。会食の主題は、その要因だった。

「メルカリで『現金』が売られている。しかも額面より高い。どういうこと?」

 2017年4月22日、ツイッターでつぶやかれたその投稿は、瞬く間にネットで拡散した。確かにメルカリを検索すると、1万円札の写真がずらりと並び、例えば1万円札が5枚の出品に対して「5万9500円」の値が付けられ、それを誰かが実際に買っていた。

 数日も経つと、テレビが騒動を嗅ぎつけ、連日、現金を販売するメルカリの画面が、ニュースやワイドショーに映し出された。

 実態は消費者金融に近い話で、クレジットカードのショッピング枠などを使い現金をすぐに手に入れたい輩を狙った新手のビジネス。メルカリは利用規約に抵触するとして出品削除などの対応に追われたが、その後も現金がチャージされた「Suica」が相次ぎ出品されるなど、騒動はしばらく尾を引いた。

「まずは食事でも」

 夏には、盗品や違法コピーの出品も取り沙汰され、メルカリにとって2017年は受難の年となった。

 騒動以降、山田が正面を切って答えたインタビューはない。交渉を申し出ると、意外なことに「まずは食事でも」と誘われた。懐柔されてなるかと構えて臨んだのだが、眼前に現れた山田はこちらが拍子抜けするほどリラックスしていた。

 メルカリの責任追及を避けるわけにはいかない。その覚悟で辛辣な質問も浴びせたが、山田は驚くほど真摯に反省の言葉を口にした。「なぜ起きたのか?」「どうするのか?」と質問を畳み掛けるが、いずれも冷静に論理的に返してくる。

 そこにいたのは威圧感のあるカリスマ経営者ではなく、意外にも朴訥で常識的な“大人”の男だった。その時からずっと引っかかっていたことがある。

普通じゃないことを成し遂げながら自らを「凡人」と評する

 今や押しも押されもせぬ日本のベンチャーの星。どう考えても普通じゃないことを成し遂げ、どのネット企業の先達も敗れ去った米国市場へと果敢に挑み、最近では「メルペイ」でキャッシュレス決済市場へも参入している。企業内の標語「GO BOLD(大胆にやろう)」を地で行く急成長。だが、当の本人は自分を「凡人」と言い、「保守的ですよ」と評する。

 山田とメルカリという会社のあいだにあるアンビバレント。山田やメルカリのサクセスストーリーは何本か描いてきたが、その違和感に向き合ったことはない。

 山田進太郎という人間がどう形成されていったのか。これは徹底的に遡るしかない。

丸6年で5000億円の流通を生み出す

 その前に、山田がいかに「普通じゃないこと」を成し遂げたのか。簡単にメルカリの今を確認しておく。

 メルカリのサービス開始は2013年7月。衣服からタイヤまで、売りたいモノがあれば、何でもスマホで写真を撮り、簡単な説明を書いて投稿すれば、全国の誰かに売れる。ネットオークションの「ヤフオク!」に近いが、予め販売価格を設定しておくルールのため、買い手からすれば誰かと入札金額を競い合う必要はない。その手軽さが受け、スマホの普及と歩調を合わせながら加速度的な成長を遂げる。気づけば個人間取引(CtoC)のデファクトスタンダード(事実上の標準)となっていた。

 サービス開始からこの6月で丸6年。数字は堅調に右肩上がりを続けている。最新の決算資料(2019年1~3月期)によると、月間利用者数は1299万人。売買される金額の総和、いわゆる流通総額は、四半期で1330億円まで膨らんだ。年間で計算すると流通総額は5000億円を超える規模。この取引の約1割が手数料としてメルカリに入り、売上高として計上される。

 連結従業員数は1786人まで増加。昨年10月に入社した新卒社員50人のうち外国籍は44人と、組織のグローバル化も急速に進む。

 外国人社員の多くは、インドなどの著名大学を出た技術者。とりわけAI(人工知能)の開発に注力しており、画像情報から自動で商品の型番などを抽出したり、不正な出品や取引などを見破ったりといった用途に活用している。

「米国で勝たないと世界で成功したことにならない」

 米国市場向けアプリは、国内のサービス開始から約1年後の2014年9月とかなり早い段階でリリースしているが、こちらの成長は芳しくない。直近四半期の流通総額は1億300万ドル(約111億円)と大台を超えたものの、国内の12分の1の規模で、赤字が続く。

 それでも山田は、メルカリが当初から掲げるミッション「新たな価値を生みだす世界的なマーケットプレイスを創る」にこだわり、「米国で勝たないと世界で成功したことにならない」「トヨタやソニーといった日本企業にできたことが、ネット企業にできないわけがない」と言い、挑戦を止めることはない。

 いつから山田は、そんな大それたことを考えるようになったのか。

小学校ではリーダーについて回る参謀タイプ

 1977年9月21日、瀬戸物で有名な愛知県瀬戸市に生まれた山田は、父が弁護士、母が税理士という比較的恵まれた環境で育った。

 地元の公立小学校では、リーダーについて回るような参謀タイプで、やんちゃというよりは大人しい性格。友達と遊ぶのも好きだが、一人でいるのも好き。図書室に籠もって本を読みふける時もあった。

「基本的には自由放任で強制されず、中学受験も『公立に行く選択肢のメリットはこうで、私立はこうで』と説明されて、『私立行くなら塾に行かなきゃいけないから大変だよ』みたいな感じの親でしたね」

凡人であることを思い知らされたできごと

 委ねられた山田少年が選んだのは、愛知県屈指の名門校だった。

 1990年4月、名古屋市の私立東海中学校に山田は入学した。中高一貫の男子校で元首相の海部俊樹や建築家の黒川紀章など多数の著名人を輩出している。

 ここで山田は洗礼を受けた。地元の瀬戸市では頭の良い部類にいたが、東海では平凡。どころか、クラスで下から数番目。高校にエスカレーターで進学しても好転しなかったと山田は述懐する。

「高校に入ってすごく頑張った時期もあったけれど、それでも450人中120位くらい。上の100人くらいはとてつもなく頭が良くて、これはもう出来が違う。敵わないなと」

 過半数が理系でその多くが医者になるという環境で、地元とは裕福の度合いも違う。部活のハンドボール部では毎日の厳しい練習で腰を痛め、補欠に終わった。

 山田は自分が「凡人」であることを思い知らされた。

「すごい凡人感というか、何かめっちゃ普通だなぁと。自分が何者でもないみたいな感覚がすごくあった」

 だが、山田は腐らなかった。

 こいつらと一緒に東大やら官僚やら、医者やらを目指しても負けは見えている。そんな大きな山に登っても意味がない。自分の価値を生かすには、小さくてもいいから何か別の山を自分で作るしかない――。

 いつしか自らの生存戦略に思いを馳せるようになっていた。他の凡人と山田との違いはまずここにある。

 とにかく山田青年はもがいた。

 高校時代、ひたすら古典文学を読み、小説家を目指そうとしたことがある。だが、村上春樹著の『若い読者のための短編小説案内』を読み、そこで紹介されていた本の解釈が自分とはまったく違うことを知り、「村上さんのような解釈ができない自分はダメだな」と諦めた。

 建築家になりたかった時期もある。早稲田大学理工学部建築学科を志望し、デッサンの勉強もしたが、これも「才能がない」と諦めた。

 ただ、可能性を広げるために東京の大学に行っておいた方がいいと思い、自分の限界内で頑張ろうと考えた。そして、父が早稲田大学だったこともあり、早稲田大学教育学部に進学した。

 そして山田は大学在学中、自らの人生を変えるような幾つかの出会いや気付きに恵まれることになる。

心を晴らしたニーチェ

 1996年4月。早大生となった山田は、「アイセック早稲田大学委員会」に入った。アイセックは学生を対象にグローバルリーダーを育成する国際組織。70年以上の歴史を誇り、世界126の国と地域で約7万人の大学生に根を張る。その早稲田支部に何気なく顔を出した山田は、またしても洗礼を受けた。

 そこでは、いわゆる「意識高い系」の学生が社会人顔負けのプレゼンテーションを繰り広げ、英語も自在に操っていた。自分の居場所を求めて来たはずなのに……。デジャブのような感情に襲われた。

「アイセックに限らず、いろんな才能が溢れる人を見て、本当に自分はどうすればいいんだろうと、悶々として。鬱まではいかないけれど、家に引きこもりがちになって。人間関係が上手くいっている感もないし、学生生活を謳歌している煌びやかな人たちとのギャップを感じて、すごく辛かったですね」

 そんな悩める山田の心を晴らしたのは、フリードリヒ・ニーチェを始めとする哲学書だった。

「悶々としながら、いろんな哲学にハマっていって、ニーチェの思想に触れた時、これじゃん! って。凡人が抱きがちな、行動を伴わない内に秘めた嫉妬、いわゆる『ルサンチマン』みたいなものは、何も産まないし、どこにも進めない。自分の中からは捨てようと。逆に、超人思想みたいに、優れているものは優れているとちゃんと認めようと思えた」

 自分は凡人だと分かっていても、どこかに天才や秀才に嫉妬するルサンチマンのような感情があった。それを捨て、ありのままの自分を受け入れたこの「事件」は、その後の山田の人生を好転させた。

(文中敬称略)

「ジャックナイフみたいだった」メルカリCEO山田進太郎を変えた出会い へ続く

(井上 理/文藝春秋 2019年6月号)

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