志賀暁子「堕胎事件」女給からスターに駆け上がった女性の壮絶半生――あの事件ですべてが変わった

文春オンライン / 2019年7月14日 17時0分

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 華やげる銀幕の女王から堕胎罪の汚名をきて獄窓に下った志賀暁子の悲しみを事情通が愛情こめて刻明に描く!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「銀幕の女王・醜聞事件」( 解説 を読む)

スターであるが故に受けた「必要以上の罰」

 何という題名だったか、主演者は誰だったか、今は全くおぼえていないが、ともかく、すいぶん前に見たアメリカ映画に、こんなシーンがあった。

 夜。パーティから抜け出した一組の男女が何やら甘い愛の言葉をささやき合い、ソーッと接吻する。と、周囲からワーッという歓声が湧く。人目を憚ってした筈なのに、実は皆に見られているのである。「あたしたち、まるで金魚鉢の金魚みたいね……」たくましい男の腕に抱かれながら、女は幾分照れくさそうに言った。

 こんど志賀暁子堕胎事件を書くように依頼された時、とっさに私の頭脳に浮かんだのはこの映画のこのシーンだった。恐らく、金魚鉢の金魚のように、いつも人様から監視されている映画界の、それもたまたまスタアなるが故に、必要以上に罰せられた志賀暁子の不幸を知っていたからであろう。

横浜のバーの女給から一躍スターの仲間入り

 話は昭和5年にさかのぼる。そのころ帝国キネマ演芸株式会社、略称「帝キネ」と呼ぶ映画会社があった。大正9年6月創立以来、「籠の鳥」が大ヒットした以外には、これぞという作品を出していないオンボロ会社だったが、時の専務取締役立花良介は、思い切って現代劇部の確立を断行しようと考えた。立花良介はその姪を阪東妻三郎の許に嫁がせた、云わば阪妻の義理の叔父だが、杉山元をはじめ旧軍閥の将星たちとも親しくつきあっていて、なかなかの策士だ。また、当時松竹歌劇部にいた川口松太郎を顧問格として迎えると共に、大坂市外にあった長瀬撮影所の所長辻川修輔を放逐、その後任に小笹正人を据えた。

 だが現代劇部を確立するためには、どうしても、現代を呼吸しているスタアが必要だ。そして最先に白羽の矢が立ったのが、日活の中野英治だった。中野英治は岡田時彦とほぼ同じころ逗子の小学校に通っていたが、その後不良の群に投じていたのを村田実によってひろわれ、日活の人気スタアになった幸運児である。

 引き抜きは成功して、中野英治の入社第1回主演映画は、川口松太郎原作の「若き血に燃ゆる者」と決定、脚色と監督は日活から一緒についに来た木村恵吾が担当することとなった。木村恵吾はそれまで俳優をしたり、脚本を書いたりしていたが、監督をするのはこれが最初であった。ところが、中野の相手役をつとめる女優を誰にするかで、ハタと行きづまってしまった。

 その時、木村恵吾が横浜のバーの女給をしていた竹下悦子というエキゾチックな女性をひっぱって来た。それが後の志賀暁子である。彼女にはドイツ人某というパトロンがつきまとっていたが、映画入りをすすめられるとそのまま横浜から姿を消した。数日後、長瀬撮影所にあらわれた彼女は、忽ちにして所内の男たちを魅了した。芸名は、いくつも候補にのぼったが、結局「城(じょう) りえ子」と決定。いよいよ、撮影が開始された。

女の嫉妬、パトロンによる拉致……周りを魅了した志賀暁子

 当時、英百合子は中野英治と結婚していて2人の間には竜治という可愛い男の子まである仲だった。この男の子が現在の長谷部健である。大体、英百合子はユリメンの愛称で呼ばれ、その後も「英のママ」と若い女優たちにしたわれている人柄だけに、帝キネのスタアだったこのごろでも、所内の評判はひどくよかった。それが「若き血に燃ゆる者」の撮影が始まって間もない或る日、撮影所の表門の、衆人環視の中で、いきなり新入社の城りえ子を洋傘で、さんざんにぶちのめすという事件をひき起した。

 原因は亭主の中野英治と城りえ子との関係を邪推しての嫉妬からであろうが、(もしかすると百合子の邪推ではなく、事実何らかの関係が結ばれていたのかもしれないが)とにかく、相手の城りえ子が全く無抵抗だっただけに、英百合子の評判は俄然悪くなってしまった。それに気をくらせたのか、それとも何かもっと大きな理由があったのか、英百合子は「ステラ・ダラス」を焼き直した「向日葵夫人」に主演した後、「老け役ばかりやらされるのは御免だね」と笑いながら言うと、鈴木伝明、高田稔、岡田時彦たちが創立した不二映画へ行くと宣言して、帝キネを退社した。昭和6年のことである。

 さて、問題の城りえ子だが、何といっても素人のかなしさ。何から何まで周囲の者が世話を焼かなければならないのだから大変な手数である。しかし彼女を発見して来た木村恵吾は、稀代のセンチメンタリストであり、おまけにフェミニストときている。木偶人形のような彼女を献身的に指導したことは云うまでもない。

 そうした或る日、東京の大森駅の附近でロケーションの最中だった。ぐるりをとりまいた見物の人垣をわけて、1人の外人がつかつかと進み出たかと思うと、扮装したままの城りえ子をアッという間に、いずこへか拉し去ってしまった。突然の事に、腕におぼえのある通称「デムプシー」こと中山カメラマンも、ただ茫然と見送っているばかりだ。外人は無論横浜の酒場に働いていたころのパトロンにちがいないが、かんじんの相手役女優が居なくなってしまったのだから、これ以上撮影を続行することは出来ない。撮影は一時中止。後に代役を立てて、どうやら完了した。

新人監督作でデビュー 銀座のバーで「あき子」と名乗る女給が急増

 それから3年たった昭和8年、――その時にはもう帝キネという会社はなくなり、代行会社として新興キネマが出来ていた。撮影所も長瀬から京都の太秦蜂ヶ岡に移転。渾大防五郎はその企画部長だった。或る日、木村恵吾がやって来て、城りえ子をもう一度使ってみてはくれまいか、という話である。あれだけ会社に迷惑をかけた女を今更と、渾大防は二の足を踏んだ。渾大防ばかりではない。人事課長だった難波宮松は、自ら国士を以て任じている男だけに、この件に関しては頭から反対である。

 しかし、ここで渾大防は考えた。当時の新興キネマには村田実とか阿部豊とか、異国趣味ゆたかな監督が勢力をもっていたので、このひとたちのために、城りえ子を入れることもあながち無意味ではなかろう。

 面談の結果、採用。月給は80円と決まった。芸名は木村恵吾が名付け親となって「志賀暁子」と改めた。ところが、彼女は「あき子」というのは、与謝野晶子を除いて、有島武郎と情死した波多野秋子にしろ薄命の人が多いから変えてくれろと申し出た。しかし、そのねがいはうけいれられず、志賀暁子で再出発することとなった。婦人洋服を女唐服(めとうふく)と呼んでいた太秦の住人たちにとって、志賀暁子の出現は一大驚異であった。この頃の暁子は城りえ子時代の青臭さをすっかり脱皮していて、口数も少く、どちらかといえば控え目に近かった。それがまた一層、そのうちに燃える情熱の火の激しさを想わせるのであった。

 彼女のデビュウ映画は阿部豊監督の「新しき天」ときまり、入江たか子、岡田時彦などと共演し、成功した。彼女の悩ましい瞳に光る情痴のきらめきの故であろうが、これを見て、いち早くその妖麗さに憑かれたのは、村田実だった。村田は伊藤大輔、田坂具隆、内田吐夢、小杉勇、島耕二、芦田勝などと、いわゆる日活七人組の脱退事件に加わり、新映画社を創立したが、あえなく解体、やっと新興キネマに落ちのびて来たものの、スラムプの絶頂にあった。村田は志賀暁子を一躍主演に抜擢して、異国情緒充分な「霧笛」を映画化した。木村荘八の挿絵に盛られた感じを美術の水谷浩は見事に映画的に再現して見せた。そしてこの映画における暁子の役は初めから彼女のために書きおろされたかのようにピッタリとしていた。銀座裏のバーに「あき子」と名乗る女給が殖え、どう書くのかと訊くと志賀暁子の「暁子」と同じよと答える者が多くなったのは、この映画が封切られて間もなくだった。

映画「霧笛」の成功……淋しさを埋めるように男性と

 志賀暁子、本名は竹下悦子。たしか明治44年、長崎の産だ。父は台湾の知事だったという。彼女はその父と丸山花街の名妓との間に出来た子であるとも伝えられているが、真偽のほどは知らない。少女時代を長崎のカトリックの女学校で送った。

 冷たい家庭。頑固な父。――思春の彼女の悩みは深かった。だが18の春、ついに意を決した彼女は、家を飛び出した。人形町のユニオン・ダンスホールの踊り子となったり、酒場の女給になったり、刺戟を追うその日その日がつづいた。そうした彼女の頽廃美に最初に目をつけたのが木村恵吾だった。

 しかし「霧笛」の成功によって得たスタアの栄光も、彼女の心のどこかに巣くっている空虚さを充たしてはくれなかった。東京を離れて、ひとりぼっちの宿屋住まい。仕事の合間には、フランス語は知らないけど、好きなフランス文学の訳書をひもとくのがたのしみ。いや、そんな時は又ひとしお淋しくてやり切れない。こうした彼女がその淋しさをなぐさめてくれる男性を求めるようになったことは、当然の経路と云える。

「情熱の不知火」の撮影の最中、東京へ足しげく通う暁子の姿が

 昭和10年の夏、村田実は志賀暁子を片岡千恵蔵に配して「情熱の不知火」の製作に著手した。原作は国広周禄(村田実の筆名)、脚本は山上伊太郎だった。その頃まだ批評家の末席を汚していた私は、おこがましくも次のように酷評し去った。――

 時代遅れの時代劇、いうならば片岡千恵蔵の猛省を促したい代表的不勉強作である。或るひとはこれを「霧笛」と匹敵するものと賞讃してやまぬ。だがここのどこに唐津や長崎の幕末開港風景が記されているか。妖しきオルゴールの音に、おらんだ模様の飾り立てに、エキゾチックなうつくしさを感ずるには、セットも意匠もすべてお粗末である。しかも、こうしたお粗末な魅力なき場景の中で、テンテンハンソクし、手をのべて哀願し、媚態をつくる女の精神状態を、われわれは不思議にこそ感ずれ、よろこび迎えるわけには行かない。村田実の演出の古さはどうだ。踏路社時代から一歩も出ておらんではないか。これを平気でやっているところが、それ、アナクロニズムというのである。千恵蔵もこれに合流して、甚だ大時代な、ハデな動きを見せまする。台詞をいうのも、或る時は歌舞伎的な誇張を露骨にさらけ出し、或る時はふだんに変らぬ深刻がり方である。時代劇からまったく剣戟を取り去ってしまうことが真面目に考えられている際、筋が渋滞すると、すぐ刀を抜かせてこれを切りひらこうという量見もほめられない。それは連続活劇のすること。志賀暁子も感心せず。

「情熱の不知火」の撮影中、志賀暁子はしばしば東京との間を往復した。わけは誰にもわからなかったが、会社側はたまたま彼女と同じ旅館に止宿していた製作部の刈田勉という青年に命じて、その行動を監視させた。彼女が東京に行く時は刈田青年もそのあとを尾けるのだが、一向にシッポはつかめない。後で考えれば、彼女はその時すでに堕胎の手術を受けに東京へ通っていたのである。

 映画雑文家の雄南部僑一郎はその少し以前に、四条の某旅館において、偶然志賀暁子と泊まりあわせたことがあると云って、その時のことを次のように書いている。

「彼女はその時、私のとまってゐることを知らなかったが、宿の女中は、彼女のことに就いて、あのやうに乳房が真黒になってゐるのは、只事でない、よくあの軀で、寒い夜徹夜で仕事が出来るものですねえ、御大事になさいよ、と云ってあげたらば、もう、何でも、五カ月くらゐにはなるらしい、と、そっと云っておられた、‥‥」

「情熱の不知火」の撮影最中に、渾大防五郎は彼女から是非折り入って会いたいことがあると云われたが、そのままにしておいた。今にして思えばこの事件について打ちあけたいことがあったにちがいない。そうこうするうちにクランク・アップの日が近づいた。と、或る日、太奏署から内密にしらせがあって、撮影が完了すると、その足で、彼女は東京へ護送され、池袋署に留置された。

大スキャンダル「志賀暁子堕胎事件」報道の当日

 それから数日後、某通信社へ某映画会社の人間から「新興の志賀暁子が池袋署に入っていますよ」と、わざわざ電話で知らせて来た。早速、しらべてみると、彼女は京都嵯峨の千恵蔵プロダクションで「情熱の不知火」に出ていたが、それを終え、次に新興谷津撮影所で三好十郎の「傷だらけのお秋」(勝浦仙太郎監督)に主演するため東上した後だということが、わかった。谷津撮影所に問いあわすと、まだ来ていない、という返事だ。池袋署の方へは司法記者をやって、いろいろさぐってみたが、志賀暁子という婦人はいない、と、剣もホロロの答えしか得られない。そこで記者は谷津撮影所の人事係を呼び出し、志賀暁子の本名が竹下悦子であること、彼女の東京の住居が麻布の某アパートだということを、きき出した。すぐにアパートに自動車を走らしてみると、管理人が出て来て、2,3日前に引越したばかりだと言う。その一方、池袋署に押しかけた記者は、竹下悦子を留めているだろう、と強硬に詰め寄った。その結果、署の方もカブトを脱ぎ、留めてあるが、どうか可哀そうだから書かないでやってくれ、と折れて出たそうである。事実、署としては、もし新聞に書かれたことを本人が知ったら自殺するかもしれない、と、それを心配しての親ごころだった。

 ところが、その数時間後には、「志賀暁子堕胎事件」は全国的に、ビッグ・ニュースとして報道されてしまったのである。昭和10年7月18日――彼女の最悪の日であった。

明らかになっていく「堕胎事件」の全貌

 以下、少しく、そのころの「朝日新聞」の記事を中心に、事件の経過を辿ってみよう。

 事件の端緒は恐喝常習犯馬場某(38歳)が志賀の堕胎を幇助した産婆神宮寺菊枝からこの事実を聞き、志賀のパトロン某に対し500円の恐喝をはたらいたことを自白したため発覚した。神宮寺菊枝は大塚仲町の市電停留場を音羽の護国寺の方へ少し行ったところに住んでいて、馬場の情婦だった。

 7月27日、志賀は、いったん釈放され、築地の聖路加病院へ入院した。

 馬場の共犯者として島田某(41蔵)、堂脇某女(32歳)の両名も捕まり、8月9日、いずれも送局と決定。島田が恐喝したのは約2000円、堂脇は200円だということも判明した。

 調べのすすむにつれて、産婆神宮寺菊枝は嬰児殺し主犯の疑いが濃くなり、志賀も堕胎罪に問われて、ついに8月27日、聖路加病院から市ケ谷へ強制収容された。地検の窪谷、岡本の両検事が主になって取調べたところ、志賀の供述は噓だらけであることがわかり、堕胎した嬰児は、当時8カ月で、分娩後3日間生きていたが、遺棄の結果、死亡させたことも、あきらかになった。

 9月5日、志賀暁子と神宮寺菊枝とは、堕胎及び遺棄致死、死体遺棄のいまわしい罪名で予審へまわされた。

 10月11日、この事件の導火線となった恐喝事件に対して、島田は懲役1年6カ月、馬場は懲役1年、堂脇は懲役8カ月(執行猶予4年)と、それぞれ判決が下った。

”銀幕スター”の断罪裁判に押し寄せた傍聴希望者

 越えて翌11年の7月7日、午前10時から東京地方裁判所において、西久保裁判長のもとに、第一回公判が開かれた。ちょうど二・二六事件の叛乱将校に判決が下された当日だったが、押し寄せた傍聴人は、混雑を予想して、あらかじめ発行された200枚の整理券をめぐって、押しあい、へしあい、中には腕を折る者も出る始末だった。若い男女の姿が目立って多かった。

 志賀暁子は保釈中の身だったが、人目を避け、特に拘禁被告出入口から、地味な単に衣ひっつめ髪という生娘のような身なりをして入廷、編笠、手錠の菊枝と被告席に着いた。

 裁判長の氏名点呼の後、予審決定書を口早に読みあげる。それに対して暁子は「堕胎の依頼と遺棄致死の点は認めますが、死体遺棄は知りません。」と、低声で答えた。これに反し菊枝の方はくどくどと、堕胎の依頼は一応断り、8カ月で自然分娩したものだ、という点を強調した。開廷後20分、アッ気なく第一回公判は閉廷となった。

 その後、幾度か公判は開かれた筈だが、帝人事件の公判記事に圧されてか、ほとんど扱われていない。結局、志賀暁子は執行猶予になって出所して来た。

ジャーナリズムに殺された一人の女性

 勿論、志賀暁子の罪は当然罰せられるべきものではあったろう。そのことを何よりもよく知っていたのは彼女自身であった。だからこそ彼女は悩み苦しんだのである。だが、もう少しあたたかい目で彼女を見てやることは出来なかったものか。世間も、ジャーナリズムも、彼女が銀幕のスタアなるが故に、いささか面白がって、なぶりものにしたきらいはなかったであろうか。

「もしあれが女優でなかったら、あるいは暁子自身をこうまで不幸にしていなかったかも知れない」と、この事件に関係した司法官の1人が洩らしたというが、私もそうだと思う。志賀暁子はジャーナリズムに殺された女優の1人なのであった。

 それにしても憎むべき奴は、彼女をここまで追い落した金持のパトロンである、恐喝されたパトロンはこの男だ。金のあるのをいいことに、これまで多くの女を暁子と同じような不幸におとしいれていたこの男は、その後も一向に反省の色もなく、乱行をつづけていた。

 事件後もあらゆる雑誌に手をのばして、自分の名前が出そうな記事を差しとめてもらうよう狂奔した。その場合も必ず金一封を持参しての頼みだというから、いよいよあさましいかぎりと云わなければならない。

 映画界には暁子に心からの同情を寄せる者も少くはなかった。中でも市川春代は新興を去り東京発声に移ってからも、たえず獄中の暁子に手紙を送ることを忘れなかった。思えば2人は村田実の「花咲く樹」の長期ロケーション以来の仲だという。その手紙の1つにこんなのがある。――

「暁子さん。玻璃のように凍てついた夜空に風が烈しく流れてゐます。今夜もまた滲み入るような寒さですわ。

 暁子さん。貴女はさぞお苦しいことでせうね。けれども強く生きて下さいね、凡ゆる批判の上に立って‥‥。好むにせよ、好まざるにせよ、所詮はヂャーナリズムの波に動かされる世間ですわ。」

出所した志賀暁子のその後

 また新興キネマ会社側としても志賀暁子に同情し、表面月給をやるわけにも行かないので、渾大防五郎は親友今日出海にたのみ、菊池寛の手を経て彼女に渡してもらうことにした。こだわりのない菊地は、その通りにしてやっていたが、彼女はこれを菊池の懐から出ているものと思いこんでか、出獄後、大泉に復帰して、再び月給をもらうようになってもしばしば菊池を訪れ、いくばくかの金を頂戴して行った。

 これにはさすがの菊池も閉口して、今日出海をよび、締めくくりをつけるように命じたということである。

 出所した志賀暁子は、やはり銀幕の世界に更生しようとした。あれほどまで、彼女を不幸のどん底に突き落した涙の道に戻る以外に更生の道はなかったのである。しかし、彼女の銀幕復帰には意外に強い抵抗があった。不道徳な女、恥知らずな女――あらゆる悪罵に耐え、罪の償いをして出て来たにもかかわらず、冷たい世間は彼女を許そうとはしなかった。

 そんな時、恩師村田実は「桜の園」を最後の作品として、病死した。昭和12年6月29日、小石川関口台町の天主公教会で、ア・コルミエ師司祭のもとに、映画葬が厳粛に執り行われた。白い花々をもって清楚に飾られた祭壇に安置された霊柩の前に進み出た中野英治は涙に咽びながら、先生を喪った私は再び無頼なる巷の子に戻るであろう、というような意味の弔辞を述べた。志賀暁子はこの時も病院から白衣の看護婦につきそわれて参列した。黒い喪服がとてもよく似合った。最初は堕した子も村田実の胤だろうと思われたくらいに、村田の暁子に対する打ちこみ方は並々ならぬものがあった。今やその先生ともお別れだ。それを思い、これを思ううち、ついに彼女は悲しみのあまり、その場に昏倒した。

志賀暁子にはなかった「映画と心中する勇気」

 その年の9月、彼女はようやく銀幕に復帰することが出来た。更生第一回出演作品は他社と競作になった「美しき鷹」だった。だが、一度おされた烙印の容易に消えないことをなげくひまもなく、日華事変につづく愚かしい戦争は、志賀暁子も、その事件も、一切を忘却の彼方に押し流してしまった。

 戦争中、彼女は福島県の片田舎に疎開していたらしいが、敗戦後上京。ちょっと映画にも出演したらしいが、もとよりそれで再出発出来る筈はなかった。

 数年前、京橋辺のアパートに子供と2人で、童話など書いてくらしているという記事が新聞に出ていたが、彼女のいばらの道は気の毒にまだ続いているらしい。その彼女をかつぎ出して映画で一儲けしようとした連中があったとも聞いた。まったく、どこまでつづくヌカルミぞ、である。

 映画もまた実力の世界である。前身が女給だろうが、ダンサーだろうが、実力のある者は必ず栄える。情実やカラクリでどうなるものではない。

 あの時、志賀暁子に映画と心中するだけの勇気と実力があったら、ああした躓きはしなかっただろうし、たとえ躓いてジャーナリズムに袋叩きにされたとしても、ノコノコとまた再起の土俵にのぼって来て、今ひと花咲かせたにちがいない。

         (シナリオ・ライター)

(岸 松雄/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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