Twitterで「罵声はやめてほしい」と訴えると「トーンポリシングだ!」と怒る人たちは正しいか

文春オンライン / 2019年7月24日 5時30分

写真

©iStock.com

「トーンポリシング」という用語があり、最近日本でもよく目にするようになった。Twitterでも使っている人を見かける。

 トーンポリシングは、日本語だと「話しかた警察」という訳語になるだろうか。弱者が強い怒りとともに抗議することに対して、強者の側が「そんな態度じゃ誰も相手にしてくれないよ。もっと冷静に話さないと聞いてもらえないよ」と諌めるような行為を指す。つまり主張そのものの内容ではなく、話しかたや態度を非難することで相手の発言を封じようとする、否定的な意味で使われている。この「 『冷静に』なんてなりません! 」というイラスト解説がとてもわかりやすい。

 Twitterなどでも、強い口調でなにかの主張を訴える人に対して「もっと冷静に」と諌める人への批判として使われている。諌める人に対して「それはトーンポリシングであり、抑圧ですよ」と指摘するということだ。

女性運動が「ヒステリック」と非難されてきた歴史

 まず最初に言っておくけれど、私は「限定的に」トーンポリシング批判を支持している。ウーマンリブやフェミニズムなどの女性運動に「感情的だ」「理性的ではない」「ヒステリック」といった非難が浴びせかけられてきたのは歴史的な事実だ。今もそういう非難は決してなくなっていない。

 最近の日本でも、たとえば福島第一原発事故のあとに、放射線で不安になっている女性に対し「非科学的だ」というような冷たい言い方がされた場面は数多く、これも「非科学的」という形容詞の裏側に女性であることへの視線が内包されていたトーンポリシングのひとつだったと思う。そういう不安な人をどう包摂し、放射線というものの事実をどう穏やかに伝えていくのかということが、3・11以降の日本社会の重苦しい課題のひとつだった。

弱者は強者の気分を害してはいけないという「抑圧」

 女性や障害者、LGBTなどの弱者=被害者の側が、男性などの強者=加害者に対して、相手の気分を害さないように礼儀正しく接しなければならない、ということ自体も屈辱であり、抑圧のひとつである。

 くわえて、怒りなどの感情は決して否定されるべきではない。怒りがあったからこそアメリカでは公民権運動が盛り上がり、人種差別撤廃への原動力になった。あらゆる抑圧から解放されるためには、強い動機が必要になるし、そのためには怒りは重要なパワーの源泉となる。ルサンチマンのような感情は否定されるべきではない。

 しかしながら、私は冒頭で私のトーンポリシング批判への支持を「限定的」と書いた。その理由は、この多様化し、SNSのような情報通信テクノロジーのツールが普及している21世紀の社会で、トーンポリシング批判では対応できない場面が少なからず見られるからだ。

「加害者」と「被害者」は容易に反転してしまう

 ポイントは二つある。まず第一に、多様化しフラットになってきているこの社会では、加害者=強者と被害者=弱者は容易に反転してしまうということだ。

 たとえばトランスジェンダーをめぐる問題。LGBTの「T」であるトランスの人たちは性の多様性のひとつだが、一部のフェミニストから差別・排除されてしまうような事態が日本でも起きている。TERF(ターフ、トランスジェンダー女性に排斥的なラディカルフェミニスト)という用語まであるほどだ。フェミニストが社会から排除された弱者であり、トランスジェンダーもフェミニストに排除される弱者だとしたら、その二つのあいだで生じる差別問題では、どちらが弱者なのだろうか? そしてこの衝突の中で、トーンポリシング批判はどちらにつけば良いのだろうか?

 Rebecca Vipond Brinkというライターが、The Friskyというメディアに「 トーンポリシングと名指しすることは、トーンポリシングになる(Calling Out Tone-Policing Has Become Tone-Policing) 」

 という記事を書いている。彼女はこのトランスジェンダーとフェミニストの衝突を取り上げ、こう指摘している。

「トーンポリシングという用語はすでに終わっている。いや、そもそも一度でも始まったことがあったのかさえ、私には自信はない。誰かに対して『あなたは誰からも異論を言われずに、怒りたいだけ怒って自分自身を表現する権利がある』と言った場合、それは本質的に『あなたが怒りをぶつけた相手には、怒る権利はない』と言っているのと同じだ。だからトーンポリシングが女性やLGBT、有色人種などのグループの間で投げつけられるようになると、とてもヤバイことになる」

 相手に対して怒れば、相手も当然のように怒り返してくる。互いに「それはトーンポリシングだ!」と怒り合う、という不毛な絵ができあがってしまうのだ。

「キモくてカネのないおっさん」はもはや強者ではない

 日本では中年男性、つまり「おっさん」は社会における圧倒的な強者だった。しかし就職氷河期世代が40代なかばに差し掛かっているいま、弱者である中年男性が増えている。通称「キモくてカネのないおっさん」と言われている社会問題がそうだ。もはや彼らは、古い時代の加害者=強者ではない。もし仮に、キモカネおっさんと在日韓国人が互いに感情的な怒りをぶつけ合う場面がやってきたとしたら、トーンポリシング批判はどちらに向けられることになるのだろうか? それともどちらも怒鳴り合うまま放置しておくしかないのだろうか?

 それへの答えとしては「どちらも包摂できるような社会を作っていきましょう」というしかないと思うのだが、これをトーンポリシングの話に落とし込んでしまうと、とたんに最強のホコと最強のタテのような身動きできない構図に陥ってしまう。加害者・被害者がつねに入れ替わる可能性のある社会では、トーンポリシングはもはや万能ではないのだ。

SNSにおける「集団攻撃」を発生させてしまう

 もうひとつのポイントは、トーンポリシング批判はSNSにおける「集団攻撃」を発生させてしまうという問題である。トーンポリシング批判は、抵抗や意思表示の手段としての怒りの発露を肯定する。強者である男性たちと弱者である女性たちが対峙するような場面ではそれはとても意味があるのだが、ではTwitterのようなSNSでもそれは有効だろうか?

 私は政治的な意見の異なる人からTwitterで罵声を浴びせられることもあるのだが、それに対して「罵声はやめたほうがいいのでは」とリプライすると、「トーンポリシングだ! 佐々木俊尚がトーンポリシングをやっている!」と非難されることがある。一対一のやりとりであれば、私へのその批判は有効かもしれない。しかしSNSの世界では、「こいつは批判してもいい」と思ったアカウントに対して、多くの人が罵声を浴びせまくるというような光景がしょっちゅう見られる。だいぶ以前のことだが(2012年)、私はこうツイートしたこともある。

「どれだけ叩いても構わない」と多くの人が思ってる相手を、ネット上で擁護したりすると「なぜ気持ち良く叩いてるのに水を差すわけ?」と驚く人がたくさんいる。そして「お前も叩かれる側に入ったんだな」と擁護者も叩き始める。そして叩かない人たちはそっと遠巻きにして無言で見ている。

「罵声はやめてほしい」「トーンポリシングだ!」

 このように叩いている人は、とくだん徒党を組んだり組織化されているわけではない。その場の雰囲気の中で「こいつは叩いても大丈夫」と思って叩いているだけだ。しかしそう思う人が100人いれば、100の罵声が飛んでくる。それに対して「罵声はやめてほしい」と訴えると、「トーンポリシングだ!」とさらに怒られる。これは健全な批判なのだろうか? そしてこういう集中的な攻撃についてトーンポリシング批判を当てはめることは、本当に適切なのだろうか?

 批判が増幅し、強化されやすいSNSで、何にでもトーンポリシングを当てはめることは過剰な結果を招きやすいと私は考えている。このSNSという今では公共圏的な役割を果たすまでになってきているメディア空間で、どのようなコミュニケーションをすればよいのかはもっとじっくりと考えたほうがいい。

 最後に、私が折に触れて読み返すことのあるジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(光文社古典新訳文庫版、斉藤悦則訳)の一節を引用しておきたい。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」

(佐々木 俊尚)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング